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好きが高じて

 教授の部屋は研究棟の9階にあった。そこはこの研究所に詰める研究者たちの私室が並ぶフロアだったが、既に住人が居なくなって久しく、表札プレートの半分くらいは空白だった。有理は案内板を見て教授の部屋を見つけると、静まり返る廊下を抜けて部屋の前に立った。


 いざ尋ねてみようとすると、思った以上に緊張する……深呼吸をしてからドアをノックすると、ほんのちょっと間があってから、呑気な声が返ってきた。


「はいはい、どうぞ」

「……失礼します」


 誰何もされず、用件も聞かれず、入って良いのかな? と思いながら恐る恐るドアを開くと、教授は最初職員でも着たと思っていたのか、学ラン姿の有理を見てちょっと意外そうな顔をしてみせたが、何か思いついたように自分の服のポケットを探り始め、


「教室に何か忘れ物でもしましたかな?」

「いえ、そうじゃなくて、実は質問があってここに来たんですが」

「質問……へえ! へえ、質問! 入って入って」


 教授はまさかそんな熱心な学生がいるとは思いもしなかったのか、ちょっと裏返るような素っ頓狂な声を上げてから、嬉しそうに室内に入るよう勧めてきた。有理はぺこりとお辞儀をしてから、まだ名乗りもしていないと思い出し、


「あ、それで自分は付属校の物部と申しますが……」

「物部……それじゃ君が、あの物部有理君? いやあ、よく来ましたね。まあ、おかけなさいよ」


 すると教授は有理のことを知っていたのか、実に嬉しそうな声をあげて、教室の時とは別人みたいにキビキビした動きで、今度は椅子を勧めてきた。有理がおっかなびっくり椅子に座ると、教授は好奇心に満ちたキラキラとした瞳で彼のことを舐め回すように眺めてから、


「君の噂はあっちこっちで聞いていますよ。異世界人の血は一滴も入ってないのに、M検でもの凄い点数叩き出したんですって? 界隈では伝説になってるくらいだ。君とは是非、一度話してみたかったんだけど、なかなか機会がなくってねえ」

「そ、そうだったんですか?」

「はい、防衛省も何かの間違いじゃないかって慎重になってる。ならざるを得ないんでしょうねえ。最近はどの国もみんな魔法の軍事転用なんてものを考えているから。馬鹿げた話ですよ、まったく。あ、紅茶でもどうです?」

「お構いなく」


 有理の返事を聞かずに教授は部屋の中を突っ切ってポットのお湯を取りに行った。背筋をピンと伸ばして矍鑠とした足取りは、教室で見たときの印象とはだいぶ違った。多分、彼も授業には乗り気でなかったのだろう。みんな眠っていて、誰も聞いていない前で話していても面白くないだろうから。


 だから有理が質問に来たことに、彼は本当に喜んでいたのだろう。香ばしい香りの漂うティーポットを運んできた彼は、有理のために砂糖とミルクを机に並べながら、「僕は失礼して」と言ってブランデーを一口、カップに垂らした。


「これが、ここに来る日の一番の楽しみなんです。大学でこんなことやったら問題になっちゃうから……ああ、物部君はお酒臭いのは平気ですか?」

「大丈夫です。隣人が飲んだくれだから、慣れてます」


 すると教授は、ふふふと上品に笑ってから、


「そうですか。桜子さんは呑兵衛だからねえ」

「……桜子さんを知ってるんですか?」


 いきなり、教授の口から思わぬ人物の名前が出てきて有理は驚いた。しかし考えてもみれば、桜子さんは異世界人のプリンセスなのだから、研究者ならその存在を知っていてもおかしくないのかも知れない。有理はそう思ったが、意外にも彼が彼女のことを知っていたのは、もっと別の理由からだった。


「ええ、よく知ってますよ。実はね……桜子さんのあの名前。私がつけたんですよ」

「え!? 先生が桜子さんの名付け親だったんですか?」

「そう言うと、まるで私が生まれたての赤ん坊に名前をつけたみたいに聞こえますが。ええ、そうなんですよ」


 教授はブランデー入りの紅茶を一口飲んで、アルコールが回ってきたのか、ホーっとため息を吐いてから、


「大衝突のあの日、私は秋葉原に居たんです。そうしたら目の前に突然、桜子さんが現れましてね。あんまりにもいきなりだったから、心の準備なんて出来ませんよ。どっきりとして、そして私は目を奪われたんです。この世にはなんて美しい女性がいるんだろうって。それからはもう夢中になって、彼女とどうやったら仲良くなれるかって、そんなことばかり考えるようになりましたね」


 当時、あの秋葉原に居たという教授の昔話にも驚いたが、突然の恋の話にも驚いた。若かりし日の彼は、一瞬にして恋に落ちてしまったらしい。


「でも仲良くなりたいって言っても、私達は言葉が通じませんから。だから最初、私はアストリア語を話したい一心で、言語学の道を進むことにしたです」

「言語学ですか? そりゃまた今とはまるで真逆な感じですね」

「ええ。でもそうして意気込んだまでは良かったものの、言語の方は暫くしてAIがなんとかしてくれて、私はあっという間にお役御免になってしまったんですね。それで今更この道を進んでも仕方ないから、きっぱりと諦めて、魔法学へと鞍替えしたんです」

「ありゃま。なるほど」


 教授はそうまでして桜子さんと一緒に居たかったのか。それが今では東大で教鞭をとる程になったのだから大したものである。大概、一流になる人は好きが高じて自然とその道に進むと言うが、これもそれと同じようなものだろうか。


「あの頃は毎晩のように、よく一緒に飲み歩いたものです。それで私がアストリア語を、彼女が日本語を覚えていく過程で、言いにくいから桜子さんって呼ぶようになったんですが、知ってますか? サークライアーってのは、実はファミリーネームなんですよ。フィエーリカの方が本当の名前」

「え、そうだったんですか? じゃあホントにあだ名みたいなものなんだ」

「当時は気づかなかったから、そうなっちゃったんですけど、知ってたら多分、エリーとかエリカって呼んでたかも知れませんね。まあ、今更ですけど」

「俺は桜子さんで良かったと思いますよ」

「そう思いますか?」

「はい」


 有理がそう断言すると、教授は当時を思い出しているのか、懐かしそうに表情を緩めていたが、暫くしてハッと我に返ったように、


「いけない、いけない。年を取ると、つい、自分のことばかり話してしまう。若い頃は、昔話ばかりする年寄りには絶対になるまいって、思っていたんですけどね。物部君は質問にいらしたんでしたか。何か授業のことで聞きたいことでもあったんでしょうか」


 教授に話を向けられて、有理も自分がここにきた理由を思い出し、すぐに用意していた質問をしようと言葉を探した。しかし、ここに来るまでは魔法学について聞くつもりだったが、寸前に気が変わって、彼は別のことを聞いていた。


「あの、俺はどうして魔法が使えないんでしょうか?」

「……と、いいますと?」

「俺はM検ではいつも高い数値が出るし、先生たちも色々頑張ってくれてるんですが、いくらやっても、まったく魔法が使える気配がしないんです。それでもう諦めて、俺には一生使えないんじゃないかって思ったりもするんですが、テスト結果はいつも俺の魔法適正の高さを示すから、可能性を捨てきれないでいるんです」

「ふむ、だいぶ苦戦しているようですね」

「いっそ、テスト結果が間違っていればいいのにとも思うんですが、毎回、ちゃんと結果が出ることに安心もしてるんです……俺もやっぱり魔法が使えるのかな、いつか使えるようになるのかなって。どうしたら魔法を使えるようになるんでしょうか。魔法の専門家から見て、何かヒントみたいなものってありませんか?」


 気がつけば、そんな言葉が口をついて出ていた。自分では気にしていないつもりだったが、実は案外気にしていたことに気づいて、有理はちょっと意外に思った。


 自分の進路も自分で決められないこんな力なんて、無い方が良いと本気で思っていた。でも、無ければ無いで、自分の存在理由を否定されるような気がして不安なのだろう。そろそろ白黒はっきりつけたかった。だからダメ元で聞いてみたのだが、教授は考え込むように沈黙を続けたあと、やがて頭の中で整理がついたのか、思いの外はきはきとした声で言った。


「物部君はパラダイムって言葉を聞いたことがありますか?」

「えーっと、はい。名前くらいは知ってます」

「簡単にいえば、私はまだこの世界のパラダイムが切り替わっていないからじゃないかと思いますね。この世界には元々魔法なんて存在しなかった。だからただの地球人に魔法なんて使えるはずがない。ところが、そんな時に君という反証可能性が現れた。みんな驚いた。もしかして、この世界にも元々魔法は存在したのではないか? 今、その常識が切り替わろうとしているんです。だからその準備が出来たら、君にも自然と魔法が使える瞬間がやってくるんじゃないでしょうか。私はそう思いますよ」


 教授はあっけらかんとした顔でそう言い切った。つまり、時間の問題だと言いたいのだろうか? 確かにその可能性はあるが、そんな確証はどこにもない。もしかして教授は、有理をがっかりさせたくなくてそんなことを言ってるだけなんじゃなかろうか……


 なんだかしっくりこないと有理が首を捻っていると、しかし教授はこいつ何も分かっていないなと言った感じに苦笑をしてから、彼にも分かるように話を続けた。


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