遥かヒマラヤを越えて
ウダブは泥の混じった井戸水を汲み上げ、納屋に干しておいた干し草を持って厠へ向かった。水が貴重な高地だから汚物を処理するには自然の力を利用するのだが、発酵した干し草は糞便を分解するのに非常に役立つのだ。
彼は伯父の経営するドミトリーの従業員なのだが、先日転がり込んできた北欧の宿泊客のお陰で、このところ朝からてんてこ舞いだった。
ドミトリーはカトマンズとルクラの間にある、なんてことない峠道にあって、人気観光地の中間だから人通りは多かったが、宿泊客はあまりいなかった。どうせならもう少し足を伸ばしてそっちへ行ってしまうからだ。だから客と言えば、シェルパを雇ってチョモランマを目指す高地順応中の登山隊か、もしくは葉っぱ目的の不良外人くらいだった。
今日泊まっているのはもちろん後者の方なのだが、この北欧から来た男というのが困ったもので、チェックインしてすぐアメーバ赤痢と腸チフスを併発して、ずっとトイレの住人なのだ。大方、カトマンズあたりで騙されて、低品質な葉っぱでも食わされたのだろうが、一つしか無い厠に病原菌を撒き散らすから始末におえない。
伯父は、こんな男さっさと追い出してしまえと言うが、本当にそんなことをしたら、この高地で彼が生きていける保証はない。それにウダブは仏教に帰依しているから、慈悲の心で見守ることに決めた。
早朝の厠は静かだった。男も1日中クソをしてるわけにもいかないから、今ごろ部屋で死んだように眠っているのだろう。高地だから水は貴重で、厠は水を一切使っていなかった。崖の上から下までトンネルのように掘った穴の上に板を渡して、そこからボットンと用を足すという構造をしていた。穴の中に枯れ草を敷いておくと、その上に糞尿が落ちてきて発酵が始まる。毎日枯れ草を足していけば、積み上がって堆肥の層ができ、発酵が完了して出来た土を、下の穴から掻き出すという仕組みになっていた。
ウダブは厠に入ると、井戸水を使って板やその周辺を綺麗にし、それから持ってきた干し草を穴の中に入れようとした。ところが、その時、彼はどこからかうめき声が聞こえてくるような気がして、作業を止めてじっと耳を傾けた。するとそれは穴の中から聞こえてきて、驚いた彼が中を覗き込むと、壁にへばりつくようにして人が倒れている姿が見えた。
「大丈夫ですか、お客さん!?」
驚いたウダブが大声で呼び掛けても、穴の中の男は意識がないようで、返事はかえってこなかった。ウダブは、きっと宿泊客の男が落ちてしまったのだと考えて、なんとか引きずり出そうと手を伸ばしたが、せいぜい指先が届くくらいで、とても引き上げることなんて出来そうもなかった。
どうすればいいのかと焦っていると、彼は穴が崖下まで続いていることを思い出し、堆肥を掻き出せば、もしかしてそこから引っ張り出せるのではないかと考えた。すぐに納屋に行って鋤を持ち出し、慌てて崖下まで駆け下りていって、堆肥の山をザックザックと削り始めた。やがてまだ発酵途中の層にぶつかり、ものすごい臭気が立ち込めてきたが、構わず掘り進めていくと、ついに男の足が見えた。
ウダブは自分が汚れるのも構わず頭から穴に突っ込んで、男の足を掴むと全身の力を込めて引っ張り出した。反動をつけて何度かやっているうちに、ようやく男の体が動き始めて、どうにかこうにか引っ張り出すことに成功した。そしてウダブは糞尿まみれになった男の顔を手ぬぐいで拭ってやった。
すると、てっきり赤痢の宿泊客だと思っていたそれが、まったくの別人であることに気づいて彼は驚いた。一体、どこから入り込んだんだろうと首を傾げているとき、彼はまた別のものに気づいて二度驚いた。
穴の中に落ちていたその男の耳が、とんでもなく長いのだ。人間のそれとは明らかに違う、大きくて長い耳が、顔の横から突き出しているのだ。
彼はそれを見て思い出した。これは最近、世界を騒がしている異世界人というやつじゃないだろうか? 高地に住んでいる自分たちには関係ないことだと思っていたが、まさかこんなところにも現れるなんて……
それにしても、この異世界人はどこから来たんだろう?
疑問に思ったウダブがキョロキョロと辺りを見回していると、彼は見慣れた景色に変化があることに気がついた。見れば裏の林の木陰に、誰かが倒れているのだ。ギョッとして目を凝らせば、その背中がざっくりと切り裂かれて、大量の血痕が付着しているのが遠目にもはっきり見て取れた。
ウダブはカチカチと歯を鳴らした。どう見ても尋常じゃない状況である。あの傷では助からないと思いはしたが、しかしその生死を確かめないわけにもいかない。彼は慎重に息を潜めながら、倒れている男の方へと歩いていった。しかし、彼の足はすぐ止まってしまった。何故なら、その倒れている男の向こう側にも、そのまた向こう側にも、また別の死体が転がっているのが見えたからだ。
まるで川に流されてきたかのように、点々と連なるようにいくつもの死体が転がっていた。それは峠の向こう側まで続いていたが、おそらくその先にも同じような死体が転がっていることが、彼には容易に想像できた。
***
50年前。中国大陸に出現した人口二億を超えると言われた大国、鳳麟国は中国との戦争に敗れて消滅した。住人は虐殺され、生き残った者たちはゴビ砂漠やモンゴル、チベットの山々に逃れたが、執拗な中国軍の追撃の前にその生命を散らしていった。
時の皇帝テンジン11世はチベットの奥地で頑強に抵抗運動を続けていたが、最先端装備で固めた中国精鋭部隊の前についに敗走。人類には絶対不可能なヒマラヤ越えを決行してネパールへと逃れたが、そんなことはお見通しとばかりに待ち構えていた特殊部隊に追跡され、家臣は次々と討ち取られていった。
皇帝はそんな絶体絶命のピンチの中で、ただ一人、ボットン便所の中に隠れることで難を逃れたが、一晩中浴びせかけられる糞尿に塗れて過ごした一夜は、かの国への憎しみと共に、生涯忘れることは無かったという。
その皇帝崩御から18年……