実はパンツの枚数が足りなくて
「安心しろ。別に飛び降りやしないよ」
ビールを受け取った彼女がプシュッとプルタブを引き上げる。有理もプシュッと上げながら近づいていく。以前と違って屋上の縁にはフェンスが張られており、彼女は避雷針が立てられたコンクリート壁に背もたれて、ゴクゴクと喉を潤しプハーッと息を吐いた。
「あの晩、俺がここに上ってきた時、あんたが居たのは、俺が変なことしやしないかって見張っていたからだろう?」
「どうかなあ……? そんなことないと思うけど……」
「別に気なんか使わなくていいよ。そんなつもりは無かったんだからさ。ただうんざりしてたから、夜風に当たりたかっただけなんだ。本当さ」
桜子さんは缶に口を付けたまま、上目遣いにこっちの様子をうかがっていたが、暫くして諦めるようにため息をついてから言った。
「……あの日、あたしがいるって、どうして分かったの?」
「どうしてって……? ああ」
そんなの一目瞭然だろうと、一瞬首を傾げたが……
彼女はここでビールを飲んだ晩のことではなく、その翌日、あのデモ隊にボランティアの女生徒たちが囲まれてる場面に、都合良く現れた時のことを言っているのだ。
あの時、確かに有理は彼女がそこにいると確信していて、だから彼女に助けを求めた。
「まあ半分は勘だったんだけどね」
「勘?」
「実は最初っから疑っていたのもある」
「……どういう意味?」
有理は肩をすくめて見せてから、
「文字通りの意味でさ。殆ど無理やりに連れてこられた政府の施設に、何故か最初から異世界人が居座っていて、適当な理由でっちあげて俺と同居してるんだから、こいつ俺のこと見張ってるんじゃないかって、想像くらいするだろ」
「あ、そう……そうなんだ……」
彼女は本当に気づかれていないとでも思っていたのだろうか? どうやら本気でショックを受けているみたいだった。有理は苦笑いしてから、
「あの晩、ここであんたに愚痴ったら、いきなり補習が無くなって、ボランティア活動なんかに駆り出されたもんだから、それで確信した。ああ、桜子さんってやっぱり俺の見張りなんだって。しかしまあ、まさかそれが異世界のお姫様とまでは思わなかったけどね」
「じゃあ、ユーリはあたしがこっそり尾けてきてるって最初から知ってたんだ。だからあの時、あたしの名前を呼んだんだね」
「だから半分は勘だって。実際そうじゃないかと思って、ゴミ拾いの最中、あんたの姿を探していたんだよ。でも見つけられなかった。全然、まったく、これっぽっちも。だからあんたが居てくれるかどうかは賭けだったのさ。本当に……上手いこと隠れるもんだよなあ。全然分からなかったよ」
「それが第2世代魔法ってやつなのよ」
「ニュージェネレーション?」
桜子さんは頷いて、
「この学校に集められてきた混血2世・3世が、あたしたち旧世代とは違う魔法を使っているって話は知ってるでしょう? それは放射性物質を撒き散らす心配がないってことばかりが強調されているけど……それ以前に、今まであたしたちの世界に存在しなかった、未知の魔法がいくつも確認されているのよ。例えば、認識阻害とかね。あの日、あたしはあの場にいた。なんなら、ユーリに触れられるくらいすぐ傍にね。なのにあんたはあたしには気づかなかった」
「……全然気づかなかった。本当に居たの?」
「うん、あたしはあそこにいた。目の前で、あたしの大事な臣民が傷つけられているのを黙って見ていたのよ」
桜子さんは憎悪に燃えるような目で虚空を睨みつけている。彼女は気持ちを落ち着けるように大きく深呼吸すると、
「もし、あの時、ユーリの要請がなければ、手も足も出なかった……だからあんたには感謝してる」
「どういうこと?」
有理は感謝される謂れはないと首を傾げる。桜子さんはそんなことはないと首を振って、
「あんたの推理通り、あたしはあんたの護衛としてずっと傍にいたのよ。もしもユーリに危害が加えられるようなことがあったら、全力で守るようにって。そういう約束でね。だからあんたが助けを求めてくれなければ、あの場面であたしは何も出来なかったんだ」
「そういうことか……しかし護衛をつけたってのは、一体誰が? あんたたち異世界人じゃないよな?」
「日本政府ね」
「……なんでそこまで俺に?」
わざわざ護衛をつけたり、便宜を図ったりする理由がわからない。有理が疑問に思っていると、桜子さんはそれこそ当たり前だろうと言いたげに、
「いま言ったみたいに、第2世代魔法はあたしたちの魔法とは毛色が違う。言い換えると。あたしたち旧世代に対するアンチマジックでもあるわけよ。おまけに放射能汚染を引き起こさない上に、能力次第では色々と応用も効く。今回の隠密行動とかね。そんな技術を、各国が黙って見過ごすわけないじゃない。世界各国は、この新たな能力を利用しようとして、今しのぎを削っているのよ。特に、魔法研究で遅れを取ってる中国なんかは必死ね。例えば……今回の騒動、ちょっとおかしいと思わなかった?」
「ちょっとって、何が?」
有理が首を傾げる。桜子さんは缶ビールを片手で弄びながら、
「彼女たちは痩せても枯れても魔法使いなのよ。ちゃんと授業で技術を学んでいる、優等生よ。普段から、一般人に向けて魔法を使わないようにとは言われているけど、あの場面で全く無抵抗なのはおかしくない?」
「……確かに」
「彼女たちが本気で抵抗したら、仮に男性であっても一般人は敵わない。ところが、彼女たちはあっさり捕まってしまった。つまりあのデモ隊の中に、第2世代の魔法使いがいたわけよ」
「そんな馬鹿な!? あれは異世界人排斥運動のデモ隊だったんだぞ? なんでそんな連中が、魔法使いとつるんでるんだよ……」
有理は、始めは困惑気味に喋りながらも、その途中でカラクリに気づいたのか、トーンダウンしていった。桜子さんは肩をすくめながら、
「つまり、そういうことね。この国にはとっくに、あちこちからスパイが入り込んでいる。東アジア人も、その混血も、見た目ではあなたたち日本人とはまったく変わらないから」
「……まいったな」
「そんなわけで、第2世代魔法の解明ってのは、西側諸国にとっても緊急の課題なわけよ。とくにアメリカは世界の警察として、なにがなんでも世界初の魔法部隊を創設しようと躍起になっている。中国やロシアはそれを邪魔しようとしている……それであたしが呼ばれたってわけ。
来たるべき新時代の秩序のために、日米、そしてあたしたちルナリアンの力を結集しましょうってね……あたしたちにも異存はなかった。実は、あたしたちは魔法なんて力を使っていながら、それがどんな力なのか、良く分かっていないのよね。だから自分たちの力を解明するためにも、科学陣営と協力するのは悪くない考えだった。それでこの学校が創設されたんだけど……」
彼女は一言区切ってから、ここが重要だと言わんばかりに言った。
「そんな時にユーリが現れたのよ」
有理は、自分が思っていたよりも、とんでもない事に巻き込まれていることを知って、唖然とするしかなかった。つまり、今の話を総合すると、有理は無理やり学校に入れられただけでなく、西側諸国のキーマンとして保護されたと言っても過言ではないのだ。
「あとはあたしが集会で言った通りよ。魔法が使えないはずの地球人が、もし魔法を使えるようになれば、差別はなくなるし、研究も進む。そのために、ユーリが魔法を発動する瞬間をどうしても観測したいのよ。本当に、地球人にも魔法は使えるのか。もし使えるのなら、それはどういう条件なのか。そのために、あんたを辛い目にあわせていることは分かってるし、もしかしたら、全部無駄になるかも知れない。それでも……あたしたちのために協力してくれない?」
桜子さんはそういって探るような目つきで有理の顔を見つめた。有理はその視線を受けながら、手にした缶ビールに口を付け、一口飲み込んでから、プハーッと息を吐き、
「まあ、いいけどね」
「いいの?」
有理は頷いた。
「どうせ今から東大に戻っても今年は休学扱いだろうし、俺の存在が明るみに出れば、どっちにしろ身の安全は保障できないんだろう?」
「……そうね」
「ちゃんとした理由があるなら協力するのにやぶさかじゃない。それに……」
「それに?」
彼は口ごもった。本音を言えば、彼は自分が必要とされていることが嬉しかったのだ。
実は、東大東大言い続けていたけれど、彼は別段、東大に行きたいわけじゃなかった。ただ、そうするのが当たり前の家庭で育っただけなのだ。だから大学に進学したところで、特に彼には目的がなかった。その目的がはっきりした今、寧ろスッキリしているくらいだった。
魔法が使えるかどうかは分からないが、可能性があるなら、今は付き合ってみるのも悪くないだろう。もしかしたら空が飛べるのかも知れないんだし。
彼は自虐気味に微笑しながら、それから一言付け加えた。
「いや、なんでも。ただ、一つだけ条件があるんだけど」
「なに?」
桜子さんは、彼が何を言い出すのかと警戒気味にその目を覗き込んでいる。しかし彼はそんなに警戒しないでくれと言いたげに手を小さく振って、
「事情は分かったし、もう逃げないから、一度外出許可をくれないか?」
「……外出許可って、どこか行きたいとこでもあるの?」
今の話を聞いて、それでも行きたい場所とはどこだろう? 彼女はどんな言葉が飛び出てくるのか緊張していたが、
「実はパンツの枚数が足りなくて。毎晩、シャワーで手洗いしてるんだよ。たまに生乾きのまま学校行かなきゃならなくて……もうこんなのは懲り懲りなんだ! だからそのへんのコンビニでいい。俺を外に連れ出してくれないか?」
桜子さんも、まさかそんなしょうもないセリフが出てくるとは思わなかったのか、暫く呆けたような表情のまま固まっていたが、すぐに気を取り直したように頷くと、
「……それは気が利かなかったわ。すぐに事務方に手配する」
「ほんとお?」
「ホントホント」
「ああ、あと、ビール飲むのを手伝ってくれ。どっかの不良外人が置いていって、まだ大量に冷蔵庫に入ってるんだよ」
「それも考慮するわよ……なんなら今からコンビニいく? 酒の肴も欲しいしね」
「いいの!?」
「かまへんかまへん」
そして二人は屋上の出入り口に向かって歩き出した。缶にはまだビールが半分くらい残っていて、有理は慌ててそれをぐいっと飲み干した。
ビールの味なんて一生分かるわけないと思っていたのに、今はそれがどうしようもなく美味しくてたまらなかった。
(第一章:了)