前へ次へ
23/102

物部有理は魔法が使えない

 涙でぼやけた視界には、ボランティアに参加していた女生徒たちの姿が見えた。みんな今にも殺されそうな恐怖に怯えて、涙を流して心細そうに周囲をキョロキョロ見回している。助けなきゃと思う気持ちはあったが、そう思うだけで、自分にはそんな力がないことは痛いくらい理解していた。


 どうせ自分が戻ったところで何も出来やしない。今日出会ったばかりの連中のために、危険を犯す理由なんてない。さっさとここから立ち去ってしまえ、そして忘れてしまえばいい。有理はそう自分に言い聞かせて、広場を後にしようとした。


 その時、一人の女生徒と目があった。彼女は有理を見つけて、一瞬だけ期待を込めた視線を向けた。しかし、それはすぐに軽蔑の眼差しへと変わった。彼女はそのまま視線を仲間たちの方へ向けると、有理の時とは違い、それは仲間たちを気遣う同情の眼差しへと変わっていた。


 きっと彼女は見ていたのだろう。有理が土下座して命乞いをして、ようやく助けて貰った場面を。だから、こいつに助けを求めたところで、何も出来やしないと知っているのだ。一人だけ逃げてずるいやつだと、そう思っているのだ。


 でも、だったら、彼女だってそうすればいいのだ。その情けない姿を見て、どうすれば暴力を振るわれずに済むか学習したのだろう。なら、今すぐそうすべきだ。人間は学習する生き物なのだ。プライドなんてかなぐり捨てて、身の安全を優先して何が悪いんだ。みんなそうすればいいじゃないか! それが賢さってやつじゃないのか!


 有理は広場に背を向けると、さっさとこの場を立ち去ろうと足を上げた。しかし、その一歩が踏み出せない。足が震えて、前に進まない。逃げるのが嫌なんじゃない。今すぐ逃げ出したいくらいだ。なのに足が進まなかった。分かっているだろうに、自分が戻ったところでどうせ何も出来ないことは。捕まって、這いつくばらされて、罵詈雑言を浴びせられて、怪我をするのが落ちだ。魔法が使える彼女たちが捕まっているのだ。魔法が使えない自分に何が出来るというのだ。それどころか、相手は有理が魔法を使えないことを知らないんだぞ!? 下手したら奴らの中に、有理が魔法を使えると思い込んで、無茶をする奴が出てくるかも知れないんだぞ!? 彼女らはちょっと怪我するだけだ。死ぬまでのことは起こらない。でもただの人間の自分には死ぬ可能性があるだろう。だから逃げていいんだ。寧ろ足手まといなんて居ないほうがいい。だからさっさと逃げてしまえ!


 なのに……さっきから足が震えて動かない。こんなにも震えているのに、なんなら右に左に体がよろけてすらいるくせに、根を張ったみたいにその場から一歩も動けない。自分がここにいたところで何も出来やしない。そんな分かりきったことをあえて確認するまでもないのに。なのに、どうしても逃げるという選択が出来なかった。


 誰か助けて欲しい。誰でもいいから助けてくれ。もしも魔法が使えるっていうなら、今がその時なんじゃないのか。もうさっさと使わせてくれよ。子供の頃に憧れたヒーローみたいに、颯爽と彼女らを助けさせてくれよ。でももちろん、そんな奇跡が起きないことは分かってる。自分には魔法は使えない。物部有理は魔法が使えない。出来るんなら、この一ヶ月間でとっくに使えるようになっているだろう。自分だって少しは期待したんだ。手を抜いていたわけじゃない。出来る限りのことは精一杯やってきたつもりだ。なのに、それなのに、いくらやっても、何回やっても、どうしたって使えなかったんだ。


 無理なんだ。そんなことはとっくの昔に分かっているんだ。科学の世界の住人に、魔法が使えるわけがない。当たり前じゃないか。自分のことなんだから、自分が一番分かっている。だから今は逃げるしかない。逃げて良いんだから逃げるべきだ。


 しかし、有理の足はそれでも前にも後ろにも動かなかった。体をブルブルと震わせたままその場に立ち続けていた。また誰かに見咎められたら、今度こそ安全は保証できないだろう。そんなことは分かっているのに、彼は一歩も動けなかった。


 視界は涙ですりガラスみたいになってしまい、全身からは汗を吹き出して、心臓はずっとバクバク鳴り響いていて、前後不覚。もう右も左も分からなくなっていた。もはや冷静に考えることは不可能で、自分がどこにいるのかも分からなくなっていた。


 でも、それなのに、彼の脳裏にはある一人の人物の姿だけが浮かんでいた。この場面で、どうして彼女のことを思い出したのかは、その時の彼には分からなかったけれど、彼はその名前を、まるで誰かに導かれるように口にしていた。


「……助けて……助けてよ、桜子さん!」


 その瞬間、一陣の風が吹き抜けて、広場の上空に巨大な火球が現れた。突然の出来事に、人々が唖然する中で、その太陽みたいな灼熱の炎の塊は、ドンと弾け飛ぶと、チロチロと舌を出すヘビのように地面を焦がし、溶けたアスファルトが霧のように立ち込めて、ものすごい悪臭を放ち、デモ隊は蜘蛛の子を散らすように転げ回った。悲鳴が洪水のように轟きわたり、ビルの上からは剥げ落ちたコンクリート片がパラパラ落ちてきて、一瞬にして炭と化した街路樹が倒れ、パチパチと火の粉が空へと舞い上がっていった。


 見上げれば空には一つの影があり。その背後には無数の光球が回転しながら後光のように差している。目を凝らせばそれは人の形を持ち、遠くにあってなお人々の目を引きつけてやまない美麗な姿をしていた。ただ一つ馴染みなかったのは、風に靡く短髪で青みがかった白髪の下から覗いた耳が、人間とは違って長く長く伸びていることだった。


「異世界人だ!」


 誰かの悲鳴のような声が轟いて、どよめきが恐怖のように伝染していった。たった今までその異世界人を悪しざまにこき下ろしていた集団は、その瞬間、きっと彼女が自分たちのことを襲いに来たのだと勝手に恐れて、我先にと逃げ出し始めた。彼らは自分たちの妄想に怯え切っていた。さっきまで、無抵抗の女生徒たちをいたぶるのに夢中だった連中が、今は助けを求めて逃げ惑っているのだ。それは見る人が見れば痛快な光景だったかも知れないが、有理にはただの人間の性か、悪意の結末としか映らなかった。暴力を振るえば暴力を呼び寄せる。そんな当たり前のことを何故人間はいつまでたっても学習できないのだろうか。


 尤も、桜子さんはそんなことなど気にも留めず、ただ愉快そうに空に向かって魔法を連発していた。それが花火みたいにドンと弾ける度に、地面は面白いようにグラグラ揺れた。近隣の窓ガラスが吹き飛び、逃げ惑う人々を避けてクラクションを鳴らす車の列はもうシッチャカメッチャカに歪んでおり、完全に交通は麻痺していた。


 そのうち、どこかから警官隊が駆けつけてきたが、彼らは何をすることも出来ず唖然と空を見上げることしか出来なかった。それはさっきまでの自分と何一つ変わらない。人間には絶対に到達できない領域があることを、誰もが痛感せざるを得ない光景が、目の前には広がっていたのだ。


前へ次へ目次