ビルの上でビールを飲んだ
暗闇に閉ざされた工事中のビルの、階段を上り切った先のポッカリ空いた出口の向こう側には、だだっ広い屋上が広がっていた。まだ柵はなく、その先にはどこまでも空が続いている。風が吹き抜け、押し出されるように中程まで足を進めると、ビルの縁に腰掛けている桜子さんの姿が見えた。巨大な青い月に照らされ、まるで神話の女神様みたいだ。そういえば、元々は伝説上の生き物だったんだなと思うと、ちょっと笑えた。
「落ちたら死ぬぞ、そんなビルの端っこに座っちゃ危ないじゃないか」
「死にゃあしないよ。あたし飛べるもん」
桜子さんはこれ見よがしにビールをぐいっと呷ると、プハーッと幸せそうに息を吐いた。こっちまでゲップの臭いが飛んできそうだ。有理は鼻を摘んで眉を顰めて、当たり前のように彼女の隣に腰掛けた。ぷらぷらと足を投げ出す。地面は真っ暗で見えず、闇に吸い込まれそうだった。桜子さんは手持ちのビールを差し出した。
「飲む?」
「いいの?」
「20歳になったんでしょ?」
「んー……まだ」
「かまやしないよ。いったれいったれ」
プシュッとプルタブを引き起こす。隣でもプシュッと音がする。桜子さんの横には、まだ中身の入った缶ビールが、汗をかきながら、いくつもいくつも転がっている。まるで冷蔵庫の中身を全部持ち出してきたみたいだった。有理は言った。
「子供の頃、お祖父ちゃんに酒ってどんな味がすんのって、ビールを飲ませてもらったことがあるんだ」
「へえ、どうだった?」
「こんな苦いもん飲んで、馬鹿じゃないかって思ったんだけど」
「……大きなお世話ね」
「今は分かる気がするね」
「そう? 美味しい?」
「美味い」
喉越しを過ぎる苦みを嚥下して、有理はフーっと息を吐いた。
「どうすればいい?」
「え?」
「俺に、魔法を使って見せてくれよ、桜子さん。異世界人は息をするように魔法を使っていたんだろう。教えて欲しい、どうすれば魔法が使えるのかを」
「無理ね」
「どうして?」
「あたしが魔法を使ったら、ユーリが被爆しちゃうでしょ。だからあたしは使えない。強制送還されちゃうもん」
「そういやそんな縛りがあったな……」
異世界人の使う魔法は、放射能汚染を撒き散らしていた。50年前の戦争でそれに気づいた地球側は、勝っていたのに休戦を急がねばならなかった。以来、国家の中枢に近ければ近い人ほど、魔法を毛嫌いしていたはずだが、
「日常的に使っていた人は使っちゃいけなくて、出来ない俺には使うことを強要するなんて……なんて理不尽な力だ。魔法ってやつは」
有理は自虐的にヒヒヒっと笑った。その声が夜に溶けて消えると、一瞬の凪が訪れた。ざーっという木々のざわめきが波のように収まっていき、遠くの方から虫の声が聞こえてくる。防衛省の広大な敷地の殆どには何も建っておらず、月は出ていても辺りは異様に暗かった。彼は言った。
「桜子さんは、どうしてここにいるの?」
彼女は何食わぬ表情で返した。
「ここはあたしの現場だからね。たまにビルを見回ったりもしてんのよ。こうして、悪いやつが入り込んだりしないようにね」
「そうじゃなくて」
「んー?」
有理は遠くを見つめたまま、ビルの縁から投げ出した足をぶらぶらさせながら言った。
「50年前。こっちの世界に来ちゃった時、理不尽だって思わなかったの? 帰りたいって思わなかったの? 俺たちのこと……恨んでないの?」
桜子さんは缶に口をつけたまま、暫く考えるように間をおいて、
「あんたはこっちの世界って言うけど、あたしからすれば、ここはあたしたちの世界なんだよね。そこに突然あんたたちが現れて、ここから出ていけって言われたの。だから理不尽だなあとは思うけど……」
「けど?」
「帰りたいとは思わなかったかな。あたしたちは幸いなことに、この国にいたから血みどろの戦争にはならなかった。あなたたち日本人はあたしたちの味方をしてくれた。だからこそ、出ていけって言われた時はショックだったけど……ある程度は、理解も出来たんだよね。今は耐える時だって。またここに帰って来るためにも。自分たちの故郷に戻ってくるためにも。感情的になってはいけないって」
「ふーん……」
「それに、別離だけじゃなく出会いもあった。50年前、あたしはこの国で大勢の人と出会った。彼らともう一度会いたいと思った。一緒に泣いて、笑って、共に過ごした、あの日々を、もう一度過ごしたいと思ったから、だからかな、こうして戻ってきたのは。それがあたしがここにいる理由。ユーリには、まだそういう人はいないの?」
「それが、これっぽっちもいないんだなあ」
「それじゃあ、つらいねえ」
「ああ……」
有理は頷いた。
「ホントに」
ここで桜子さんがいるとか、月がきれいとか言えたら自分もモテるんだろうに、有理は心の底から出ていきたいとしか思っていなかった。ここから出ていけるなら何だってやるんだ。そう決意してここに来た。
その時、一陣の強い風が吹いて、彼女が飲み干した空き缶を吹き飛ばしていった。カラカラと転がる音が鳴り響く。桜子さんは追いかけもせず、あーあと面倒くさそうに目で追っている。有理は手持ちの缶ビールをぐいっと飲み干すと、こみ上げてくる吐き気を抑えて立ち上がり、
「それじゃ、俺は部屋に戻るよ」
「もう? 食堂閉まるにはまだ早いよ?」
「どっちにしろ、酒の臭いさせては行けないだろ。今日はもうシャワーでも浴びて寝る」
有理はそう言って手をヒラヒラさせながら、空き缶の音を追いかけていった。桜子さんはそんな彼の背中が屋上の入口に消えるのを見送った後、また彼が戻ってきやしないかと、暫くそのままの格好で待っていたが、やがてビルの下を彼が歩いていく気配を感じて、ほっと息を吐くと、ビルの外壁の角っこで踊るように立ち上がり、つま先立ちになって、夜空に浮かぶ月を掴まんとばかりに手を伸ばした。
そして彼女はビルの上から飛び立つと、ふわりと風に乗り空へと舞い上がっていった。月に浮かぶそのシルエットを見たら、きっと人々は月世界のお姫様のことを連想したに違いない。だが、その影を見る者の一人もなく。そして間もなく、彼女は夜の静寂に溶けて消えた。