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どこへも行けない感情

 それから一ヶ月が経過した。結構な時間が流れたはずだが、その間、取り立てて話すようなことは何も起きなかった。


 史上最強と紹介されたはずの有理は、魔法が使えないままクラスで落ちこぼれ扱いされていた。最悪なことに、始めはペコペコしながら近づいてきたヤンキー共も、メッキが剥がれた年上のシャバ僧をこれ見よがしに雑に扱うようになっていた。基本的に、ヤンキーの序列は腕力だけで決まるから、最初にビビって頭を下げた分だけ許せなかったのだろう。


 有理は事あるごとにやり玉に上げられ、意味のない嫌がらせを受けたり、陰口を叩かれたり、休憩中にわざとらしく始まる乱闘に巻き込まれたりした。それでも自分は年上なんだからと我慢していたら、調子をくれたヤンキーについに子分扱いされ、パシリを強要され拒否った挙げ句に暴力沙汰に晒された。


 それで格好良く撃退できれば良かったろうが、そもそも暴力とは無縁の世界で生きてきた有理は抵抗するすべを持たず、ましてや相手は魔法という理不尽な力の使い手であったから、まるで成すすべもなく床に這いつくばらされた。


 年下の、物の道理もわかってないような馬鹿な子供に、一方的にボコボコにされた有理のプライドは粉々に打ち砕かれた。自分は東大生なのに。この国の最高学府に入学するための試験にパスした未来のエリート様だというのに。何故だ?


 ヤンキー共は教師にとっ捕まって反省文を書かされ、教師はそれを有理に見せた。奴らも反省しているから許してやれと言われて、それで溜飲が下る者などいるはずもない。もういいから、ここから出してくれよ、自分を解放してくれよと、どんなに懇願しても彼らは許してくれない。魔法を使えるようになって見返してやろう、きっと君なら出来るからと、補習を勧められ逆に心が折れる。もう一ヶ月も何の成果も上げられず、自分には不可能なのだと言い続けているのに、その度に検査が高得点を叩き出してしまうから、周囲が諦めてくれない。自分のことのはずなのに、諦めさせてくれない。


 ここに居る限り、自分は一生こういう扱いなのだ。誰も話を聞いちゃくれない。絶望しても、刑務所みたいな高い壁に囲まれたこの場所に、逃げ場などどこにも無い。外部と連絡を取る方法さえ何もなく、あったところで傍受されるのが落ちだった。


 こんな状況だったせいか、桜子さんの存在は寧ろ有り難かった。最初は出ていって欲しくて仕方なかったのだが、今にして思えば、もし部屋に彼女が居なかったら、精神的に保たなかったかも知れない。


 桜子さんは相変わらず人の部屋の中をパンツ一丁で歩き回ったり、他人のベッドを占拠したり、イビキはうるさいし、歯ぎしりするし、グビグビとビールを飲みまくったり、ジャブジャブソシャゲに課金したりしていたけれど、そういう彼女のだらしないところを注意している間だけは、なんとなく自分もここに居て良いような気分にさせられた。


 そう、居て良いような気分だ。本当はこんなとこ、さっさと出ていきたいのに、出ていけないから、いつしか自分はここに居て良い理由を探していたのだ。


 そんな自分の現実逃避に気づいた時、どうして自分はこんな底辺まで落とされてしまったのか。自分の何がいけなかったのか。心底分からなくなってきて。どうしようもなくなった。


 だからだろうか。その日は学校が終わっても、寮の部屋には帰りたくなくて、ぐずぐず学校の敷地内を歩き回っていた。通りすがりの生徒たちの好奇の視線に気づかないふりをして、まるでゾンビみたいにゆらゆらと。


 明日は土曜日で、学校は休みのはずだけど、自分だけは補習を言い渡されていて、明日も相変わらず詰め襟学ランを着せられて自分の意志は関係なく出来もしない発声練習を延々1日中させられることが決定されていた。


 日が暮れて夜が来て、星が輝き出し、遠くの繁華街のネオンサインが空を赤く染め、どこからか暴走族の五月蝿いエンジン音が生ぬるい風に乗ってやって来て、ぬるっと頬を撫で通り過ぎ去っていく頃、寮の隣の工事現場の階段を上っていた。桜子さんが現場と呼んでいる、新しい寮になるはずのビルだ。自分のとこの学生寮は屋上に出ることが出来なかったから、もしかしてこっちなら行けるんじゃないかと、そう思った。


 階段を上がる息が上がり、内装のされていないコンクリートの壁の中に足音が反響し、電気がないから真っ暗で、誰も居ないビルの壁をよじ登るようにして、ようやく屋上にたどり着いた時、空に吸い込まれそうになった。


 屋上を吹き抜ける風は強くて、意識していないと飛ばされてしまいそうだった。汗ばむシャツがピタリと張り付いて寒いくらいだ。晴天の空に駆け抜けるように雲が流れて、それが代わる代わる月の光を遮って、まるで自ら明滅しているみたいだった。それは心臓の鼓動のように規則正しく、それでいてどこか忙しなく人を急き立てる。


 空は息を呑むほど広く、その向こう側に待つ自由を感じさせ、大して懐かしくもないのに、故郷を思い出させた。このまま駆け抜けていってたどり着いた場所に自分の島を見つけよう。そこはきっと自分だけの楽園なのだ。自分の意思で何だって出来るし、何にだってなれるのだ。誰にも咎められない、誰にも強制されない、素晴らしい世界がそこに待っているのだ。


 魔が差してしまえ。


 そんな取り留めのない考えが頭を埋め尽くす。ふと視線を元に戻すと、ビルの縁に腰掛けて、ビールをグビグビ飲んでいる桜子さんがいた。ザーッと森がざわついて、カラスの羽ばたく音が聞こえる。今日はとても月が綺麗だ。


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