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土方の中心でラジオ体操第二を踊る

 翌朝。目が覚めて、自分がどこにいるのかを認識するのに手間取った。きっと脳が昨日起きた全ての出来事を、無意識に否定したかったのだろう。覚醒していく頭の中で、嫌でもそれを思い出し、ため息を吐きつつ体を起こすと節々が痛かった。床で寝ていたのだから当然である。


 その元凶はどこ行ったんだとベッドを覗き込めばそこは空っぽで、代わりに外からラジオ体操第二が聞こえてきた。見れば土方の中心で、桜子さんが大きく体を捻って反らせて斜め下に曲げる運動をしている。あの人、本当に鳶職なんだなと、妙に感心する。


 シャワーを浴びてから、何か食べ物がないかと冷蔵庫を漁るが、ビールとチーズしか見当たらなかった。時計を見れば、食堂が開いている時間だったので、あくびを噛み殺しながら下へ降りていった。


 昨日はヤンキーのせいで飯の味がしなかったが、今日こそは堪能してやろうと意気込む。幸いなことに、あの手の不良は夜行性と相場が決まっているから、今の時間なら出くわすことも無いだろうと、トレーを持って列に並んでいると、突然、背後から、


「コラーッ! そこーっ! 朝食は制服に着替えてからだといつも言っているだろうがーっ!」


 いきなり怒鳴られ、持っていたトレーを落としてしまった。バランバランっと食堂全体に景気がいい音が響き渡り、回転するトレーが止まるまでの間に、顔を真っ赤にした鈴木がズカズカ向かってくるのが見えた。有理がポカンとしながら佇んでいると、彼は自分が怒鳴った相手が誰だったのかにようやく気づいたらしく、


「む……おまえは、物部じゃないか。そうか。昨日は案内の途中だったな。なら仕方ないか」

「え? あ、はあ……あの、なんかまずかったですか?」


 腕組みをして何かに納得しているような素振りを見せる鈴木に対し、なんで怒鳴られているのか分からない有理が腰を低くしながら問いかけると、彼はぐるりと周囲を見回しながら、


「実は朝食を取った後、部屋に戻って二度寝して、学校をサボるやつが続出してな。それ以来、学校に行く準備が出来てないやつにはメシを食わせないというルールが出来たんだよ。分かってると思うが、ここは学生寮だからな」

「はあ……」

「見てみろ、ここにいる連中は物部を除いて、みんな制服を着てるだろう?」


 言われて辺りを見回してみると、鈴木が言う通り、確かにみんな制服を着ている。いわゆる詰め襟の学ランである。みんな高校生か、下手すると中学生にしか見えない。だから学校指定の制服を着ててもおかしくないのだろうが……


「だからおまえも、朝食を食べたかったら制服を着てこなきゃいけない。それがここのルールだからな」

「はあ……はあ!?」


 有理は素っ頓狂な声を上げた。


「制服? 制服って、その、みんなが着ている、あれ?」

「他に何があるというのだ?」

「いや、だって、これ学生服でしょう? 学ランでしょう? 高校生とかが着るやつでしょう? 俺、19歳ですよ? 来月もう20歳ですよ? 高校なんかとっくに卒業して、4月から大学生なんですよ?」

「大学生でもバンカラとか、応援団とかは普段から学ランを着てるじゃないか」

「いや、俺、そのどっちでもないし。つーか、学校指定の制服なんてもんがあるんですか? 一体、この学校ってどの辺の年齢層をターゲットにした、どういう学校なんですかね……?」


 いよいよ怪しくなってきたと思った有理は、昨日聞きそびれたことを詳しく問い質そうと詰め寄ったが、その時、周囲がざわついていることに気がついた。


 生徒たちは、有理を指さしながらヒソヒソやっている。「20歳」とか、「大学生」とか、そんな単語がやたら聞こえてくる。出来れば年齢のことは伏せておきたかったが、どうやら自分から目立ってしまったようだ。やぶ蛇だった。有理は口を噤んだが、


「とにかく郷に入っては郷に従えだ。一度部屋に戻って制服に着替えてきなさい。おまえも目立ちたくはないだろう」


 鈴木に促されて、釈然としないものを感じながらも、有理は逃げるようにその場を後にした。


 このまま、周囲と違う格好のままでごね続けて、余計に目立ってしまっては元も子もないだろう。戦略的撤退だと自分に言い聞かせて、彼は部屋に走って戻ると、バタンと後ろ手にドアを閉めてからため息を吐いた。


 部屋の隅っこには、ビニール袋に入れられたままの学生服が転がっていた。昨日、殺し屋みたいな目をした管理人に手渡されてから、出来るだけ意識の埒外に置くようにしていたから忘れていたが、どうやら本当に、この学校に通うにはこいつを着なくてはいけないらしい。


「学生服だろう……?」


 昔は自分も毎日来てたのだから、それほど恥ずかしい格好というわけではない。しかし、本来なら自分はこんなものはもう卒業しているのだ。着なくていい学年なのだ。何が悲しくて応援団の真似事みたいなことをしなければならないのかという情けなさもあったが、それ以上に、これを着て行く学校というところには、どういう年齢層の人々が通っているのだろうかということの方が今は不安で仕方なかった。さっき食堂で見た寮生たちの姿を思い出す。あれ絶対、中学生とか混じってなかったか?


 ともあれ、背に腹は変えられないので、制服を着てから食堂へ戻ると、あれだけ混んでいた食堂の人影は減っていて、朝から怒鳴り合う気力がないヤンキーたちが気怠げに飯を食っていた。さっきの騒ぎで有理のことを認識したのだろうか、そのヤンキーたちがジロジロと遠慮のない視線を投げかけてくる。お陰で今朝も飯の味はしなかった。


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