追い詰められた時に人は最高の身体能力を発揮する
管理人に渡されたキーホルダーには3階の部屋番号が付けられていた。その3階まで上がってきて、防火壁を兼ねた扉を押し開け廊下に出ると、どこかでジャラジャラと雀卓を囲む音が聞こえてきた。開け放しのドアから流れてくる様々な歌謡曲が入り混じり、新たな音楽を生み出している。ぎゃあぎゃあという品のない笑い声が耳につく。果たして今晩は眠れるだろうかと心配になりながら、部屋番号を確認しつつ進んでいくと、廊下の一番端っこにその番号を見つけた。
多分、ここが自分に充てがわれた部屋なんだろう。一人暮らしと聞いた時は、嫌々ながらもちょっとは期待したものだが、そんな気持ちはとうに消え失せていた。今は少しでも静かな場所へ行きたかった。
部屋の防音は効いてるだろうかと期待しつつ、鍵を回してドアノブを引くと……
ガチャッ、ドン!
と何故かまだ鍵がかかったままだった。
あれ? おかしいな。ちゃんと開けたはずなのに……と思って再度鍵を挿入し、今度はボルトが上がる音を確認してから、改めてドアを開ける。
すると何故か部屋の中からシャンプーの香りが漂ってきて、首に巻いたタオルで自分の髪を拭いているパンツ一丁の女が、湯気をまといながらこっちを見ていた。
有理はぐるっと回れ右して部屋から出ると、
「うわあああああーーーっっ!! 見てません! 見てません! ごめんなさいっ!!」
と叫んでドアを閉じ、そのまま逃げるように廊下をダッシュした。
まったく童貞まるだしみたいな反応であるが、分かってほしい。50年前ならラッキースケベで済んだかも知れないこの状況が、今の御時世では洒落にならないのだ。
もしもこのことが誰かの耳に届いたらあっという間にSNSに拡散され、ポリコレ棒を持ったおばちゃんが世界中から大挙して押し寄せてきて血祭りにあげられてもおかしくはないのである。それくらい、今の世の中は面倒くさいのだ……ところで、おまえ童貞じゃないのかって?
それはともかく、身元を特定される前にずらからねばならない。しかし、どこへ行けば良いというのか。ここへは今日来たばかりで土地勘がなく、壁の向こうには出れそうもない。頼れる者は一人もいない。管理人が頼るんじゃねえと念を押してくるくらいだ……
と考えたあたりで、有理ははたと足を止めた。
……何かおかしくないか? 自分はそう、その管理人から部屋の鍵を手渡されたのだ。最初は、逆に閉めてしまったわけだが、その後ちゃんと開いたことからしても、実際にこれはあの部屋の鍵だったのだ。ちゃんとした説明は受けていないが、状況からしてもあそこは自分の部屋で間違いないだろう。
大体、ここは男子寮じゃなかったのか? この魔法学校とやらがいくら全寮制といっても、常識的に考えて男女混合の宿舎があるとは思えない。そこいらから聞こえてくるのは男の声だけだし、通りすがりにチラ見した時、他の部屋の中にいたのは男だけだった。そもそも、同じ建物が隣にあるのに、どうして男女を混ぜる必要があるのか。
だからこの寮内に女子がいるはずがない。じゃあ、あの女は何なんだ? そもそも本当に女だったのだろうか。見間違いじゃないのか? しかし、記憶を辿ってみても、確かに彼女が首に掛けたタオルの先には胸の膨らみがあった。うっかり見えてしまったが、ピンク色の突起もあったような気がする。思い出すと下半身がムズムズしてくるから違うことを考えよう。そうしよう。色即是空、空即是色。
とにかく、あの部屋の中にいたのは確かに女だったと思うが、鍵ならここにある。じゃあ何故、空室のはずの部屋に女が居るのだ? どう考えても状況が変すぎる。流石にこうなってくると誰かに事情を説明して貰わねば気がすまぬであるが、しかし誰に聞けば教えてくれるだろうか。パッと思いつくのは、あの人殺しのような目をした管理人か、さっきの半裸の女だが……正直言って、管理人を訪ねて行くくらいなら、女に悲鳴を上げられた方がまだマシだという消極的な理由で、有理は部屋に取って返すことにした。消極的な理由で。
ともあれ、部屋の前まで戻ってきた彼は、今度はいきなりドアを開けるというようなことはせずに、まずは「えー、おほん」とわざとらしく咳払いをしてから、コンコンとドアをノックした。すると中から、
「おー、開いてるよー。早く入んなよー」
と、やけにサバサバとした甲高い声が聞こえてきた。取りあえず分かることと言ったら、間違いなく女の声である。やはりさっきのは見間違いじゃなかったと確信しつつ、どうして自分の部屋に女がいるのか困惑しながらドアを開けると、先ほどと殆ど変わらず半裸のままの女性が、ワシワシとタオルで無造作に頭を拭いているところだった。
有理は540°スピンターンするかのように回転してから、
「だから見てねえっつってんだろっ!」
と叫んだ。
「なにー? 裸くらいでそんな顔真っ赤にしちゃって。もしかして童貞?」
「どどどど童貞ちゃうわ!」
「あははは、それ空耳で聞いた。懐かしい~」
「いいから、さっさと服を着ろ!」
「へいへい」
半分裏返るような声でキイキイ怒鳴り返したら、こっちの気迫が伝わったのだろうか、仕方ねえなといった感じのぶつくさ言う声と、ゴソゴソという衣摺れの音が聞こえてきた。そのうち何の音も聞こえなくなったが、特に何も言ってこないので振り返れず、たっぷり一分くらい待ってたら、缶のプルタブを開けるプシュッという音が聞こえてきて、もういいのかな? と恐る恐る振り返ってみたら、彼女は言われたとおりに服を着ることは着るものの、ネックがヨレヨレのTシャツと短パンという出で立ちで、殆ど何も着ていないのと変わらなかった。
上から覗いたら乳首が見えそうだし、うっかりはみパンもしそうだったが、それでも重要な部分は一応隠れていたからセーフだと思ってジロジロ見てたら、
「あれ~? やっぱり見たいんじゃないの~? どこ見てるかモロバレだよ~?」
と挑発するような声が聞こえてきたので、ムッとして彼女の顔を睨みつけた。見たくて見ていたんじゃないと抗議しようと口を開けた有理は、しかし、彼女の顔を凝視したまま固まってしまった。
いや、正確には彼女の顔を見ていたのではなく、その突起物……彼女の左右の耳が、普通の人間とは違って明らかに大きくて長いのだ。
異世界人である。
しかもエルフだ。
有理は目を丸くした。
彼は生の異世界人を初めて見たことで、自分が想像以上に驚いていることに驚いていた。異世界人の膂力は十人力という知識がプレッシャーを掛けてきたのもあるが、異世界人はみんな絵に描いたような美形揃いとは聞いていたが、こうして実物を前にすると声を失うほどだったからだ。
左右のパーツは恐ろしく均整が取れていて歪みがなく、大きな瞳と形の良い眉毛と眉間からスラリと通った鼻梁と少し小さくて血色の良い唇がちょんとついている。顎は小さくエラは張っておらず額は広いが広すぎずもせず。真っ白な頭髪は光を受けて少し青みがかった光沢を放ち、同じく青い瞳が自ら光を放っているかのように輝いていた。さっきまで無造作に拭いていた髪の毛はすでに乾いてサラサラとシルクのようにこぼれ、ボブカットのほつれ毛をその特徴的な長い耳で留めている。美人は三日で飽きるというが、多分これは一生飽きない。そんな美術品めいた美しさがそこにはあった。
「おーい、なんか言ってよ。ガン見されると、こっちもボケづらいんだけど」
その鈴のようにコロコロ響く声に今度は聞き惚れそうになったが、有理はかろうじて正気を取り戻すと、いかんいかんと首を振って視線を逸らした。すると開けっ放しのユニットバスが目に飛び込んできて、モウモウと湯気が立つ室内が濡れているのに気づき、
「あんた、シャワーしてたの?」
「そうだよ」
彼女はなんでそんな当たり前のことを聞くんだろうと言いたげにキョトンとしながら、缶ビールをゴクゴク飲んでいる。有理もそんなことを聞きたいわけじゃないんだと、彼女の方へ向き直ると、
「いや、そうじゃなくて、なんであんた他人の部屋でシャワー浴びてんだよ。つか、あれ? ここ、俺の部屋だよな? これ、ここの鍵なんだけど」
「ふーん、そうなんじゃん? 知らんけど」
「知らんけどってあんた……知らんわけないでしょ。俺の部屋になんであんたが居るんだよ。シャワー浴びてんだよ。ビール飲んでくつろいでんだよ」
っていうか、この缶ビールはどこから出てきたんだ? と思い、ふと玄関脇に冷蔵庫があるのに気づいた有理がドアを開けると、
「ビールしか入ってねえじゃねえか! 冷蔵庫占拠してんじゃないよ! おまえんちかよ!」
「なんだよー。硬いこと言うんじゃないよー」
「そういうレベルの話じゃねえだろこれもう……あー! もう!!」
有理は薄毛の男性がドキッとしそうなくらいバリバリ頭皮を掻きむしると、
「つーか、あんた誰なんだよ! なんでここに居るの!?」
すると彼女は空になったビールの缶を片手でプラプラさせながら、
「桜子」
「……え?」
「私の名前。桜子」
彼女はそう言って、退屈そうに缶ビールをくるりと回した。その仕草が手慣れていて、やけに決まっているから、なんだか本当に映画でも見てるんじゃないかと、そんな錯覚がした。