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流されるように落ちていく

「ぷはあっ!!」


 唐突に息苦しさを覚えて、人間は呼吸しなきゃ生きていけない生き物であることを思い出した。脳みそに酸素が充満し、虚脱するかのように全身から力が抜けていった。地面に尻をぶつけるかのようにへたり込むと、どっと汗が吹き出した。深呼吸を繰り返し、荒い息を整える。


 一体あれは何の騒ぎだったのだろうか? たった今、自分が目にした光景が未だに信じられなかった。実際、夢じゃないかと思いもしたが、まるで交通事故現場みたいに残された血痕と、バリバリに砕け散った強化ガラスの残骸が現実逃避を許さなかった。


 間違いない。たった今、眼の前で昭和のツッパリ漫画みたいな連中が何故か殴り合いの喧嘩を始めて、吹っ飛んできた男がガラス窓を突き破って、怒った教師が暴発するロケットみたいな勢いで突っ込んでいって、狂った水飲み鳥みたいに暴力を振りかざし、蜘蛛の子を蹴散らしたかのようにヤンキーどもが散り散りに逃げていったのだ。もちろん、自分は正気である。正気じゃないのは現実の方である。


 どうしよう……有理は地べたにへたり込みながら考えた。工事現場の機械音を除けば辺りに音を立てるものはなく、人っ子一人見あたらない。今なら誰にも見られない。逃げ出すチャンスなんじゃないか。しかし、どうすればあの高い壁を越えられるかが分からない。いや、そもそも逃げ出してどうするのだ。家に帰っても親はもう敵だし、一生山中に潜伏でもするつもりなのか。やはり逃げ出すにしても、ちゃんと手続きを踏んでからでなくてはならない。


「うーむ……」


 しかし手続きを踏むと言ってもどうすればいいのだろうか? 魔法学校なんて行きたくない、という希望は散々伝えてきたつもりだし、伝えてきてこのザマだ。こうなっては多分、彼らが満足するまでこの茶番劇に付き合うより方法はないのだろう。しかしそもそも彼らとは一体誰のことなんだ? 誰を満足させればいいのだ?


「魔法……魔法ねえ……」


 有理はため息交じりに立ち上がった。なんにせよ、ここが思った以上にやばい場所であるということだけは分かった。大方連中も無理やり連れてこられて鬱憤が溜まってるとかそんなところだろう。


 というか、なんなんださっきの連中は。マガジンから飛び出してきたのか。サンデー派は絶滅したのか。ちょっと気になるのは、彼らが本当に漫画みたいな学ランを着ていたことだった。コスプレじゃないなら、あんなものに用があるのは今日日、中高生くらいのものだが、じゃああれは高校生だったのだろうか? 鈴木は生徒にはいろんな年代がいると言ってた。まさかあれと机を並べろと言うのだろうか? こっちは東大生だぞ、東大生……一度も通えなかったけど。


 逃避するかのように、そんなどうでもいいことを考えていると、視界に見覚えのあるバッグが映った。有理のボストンバッグである。鈴木が飛び込んでいった際に、放り出していったのだろう。バッグはエントランスホールの隅っこの壁にもたれるようにして落っこちている。


 取り敢えず、あれは回収しておかねばいけないだろう……正直、まだ敷居をくぐりたくなかったが、諦めていよいよ中に入る。


 風通しが良くなったガラス窓の隣の自動ドアの前に立つと、何事もなかったかのようにスーッと開いた。それが逆にシュールで乾いた笑いが漏れてきた。諦めの境地でドアをくぐり、ボストンバッグを回収しに向かう。


 一度壁に叩きつけられたせいか、開きかけたファスナーからカバンの中身が見えていた。母は何を詰めたんだろうか? と確認してみると、シャツが二枚とズボンが一本とパンツが三枚しか入ってなかった。


 こんなんでどうしろと言うのだ。旅行に行くんじゃないんだぞと舌打ちをしながら、せめて敷地内に購買くらいはあるだろうかとあれこれ考えていると、


「おい」


 いきなり背後から声を掛けられて寿命が縮んだ。


「ひぃぃーーっ!」


 飛び上がるように振り返って土下座するような姿勢で見上げれば、そこにはエプロン姿のタバコを咥えた長身の男が、人を殺しそうな目つきで有理のことを見下ろしていた。


「おまえ、物部有理だな」


 何故か知らないが認知されている。その事実が余計にプレッシャーを掛けてくる。ダラダラと汗を吹き出しながら、あ、これ死んだわと絶望に目眩を覚えていたら、男はタバコの煙を無遠慮に吐きかけながら、


「これ」

「え……?」

「おまえのだ」

「え?」


 彼はビニール袋に入った詰め襟の学ランと、三本の鍵が束ねられたキーホルダーを押し付けるように手渡してきた。なんだこれは? と戸惑っていると、


「飯は朝7時から9時、夜は6時から8時。風呂は夕方4時から11時。門限は8時だ。破るな。俺の手間を増やすな。わかったな。俺を頼るなよ」


 彼はさっさと踵を返すと、エントランスホールの脇にあった鉄扉の中へと消えていった。


 その扉の上部に付けられたプレートには、管理人室と書かれてある。つまりあの間違って人を殺しちゃいましたてへぺろとか言い出しそうな男がこのビルの管理人ということだろうか。とてもそうは見えない。いや、実際、彼が管理人だというなら、さっきの騒ぎはなんだったんだよ。止めろよ。


 改めてとんでもないところに来ちゃったな……と自分の不幸を呪いながら鍵束を見れば、部屋番号らしき札がついていた。この数字から推測するに、部屋は3階にあるようだ。高すぎず低すぎず、暮らすには最適と思ったところで、自分が既にここに順応しようとしていることに気づいて泣きたくなった。


 閑散としたエレベーターホールで見上げていたら、ランプは全部上方の階に止まったままで、いつまで経っても降りてくる気配がなかった。横を向いたら階段があったので、別に三階くらいならと、歩いて登ることにする。


 足音が反響する階段を上がっていたら、上からキャッキャッという声がひっきりなしに聞こえてきた。女の子たちが楽しそうにしてるようなキャッキャッではなく、猿山から聞こえてきそうなキャッキャッである。それがそこかしこから聞こえてくる。おそらく、1日中聞こえてくるのだろう。きっと夜になれば夜行性の動物が起きてきて、バラエティ豊かになるに違いない。ウホウホとかフシュルルルとかパオーンとか、今から楽しみである。ちくしょう……


 と投げやりになっていたら、バン! っと大きな音を立てて二階から誰かが駆け下りてきた。必要以上に壁に寄って道を開けると、二人連れのちっちゃい少年たちが、誰このおじさんとでも言いたげな表情で素通りして行った。


 有理はそれを見送りながら唖然としていた。今のはどう見ても中坊にしか見えなかった。そして自分が今、手に持っているブツに目を落とす。


 そういえばさっきあの殺し屋みたいな男が鍵と一緒に渡してきたが、この学ラン……なんのつもりなんだ? まさかこれを着ろというつもりなのか? こちとら高校なんざ去年とっくに卒業済で、浪人していた身だぞ? 普通に考えて、学生服なんて二度と着ない年齢のはずだぞ?


 本気でこの学校の年齢層はどの辺りなのか心配になってきたが、詳しいことを聞きたくても頼れそうな人間に心当たりがまったくなかった。鈴木はどこへ行ってしまったのだろうか。

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