ゾンビから世界を救うはずだった男の異世界召喚

作者: ジェームズ・リッチマン

 

 勇者召喚。

 それは異世界における救世主たる人間を引き寄せる大魔術だ。

 世界の覇権を握る神聖フンボルト帝国においても、その大魔術は易々とは扱えない。


 宮廷魔術師団総勢千名が三十年の歳月をかけて魔法陣を描き。

 国一番の戦士を十人も擲たねば殺せないという星竜の逆鱗の根元からのみ採取できる小指の先程の極光魔石を山と積み。

 国を傾け得るほどの美貌を持つ聖処女の生き血で湖を張り。

 儀式そのものさえ、正しく謳い上げるためには五十日もの長時間を必要とする。


 到底現実的ではない出血を強いる召喚術だが、それを建国より既に十回近く行えているのは、つまるところ神聖フンボルト帝国がそれほどまでに強大な力を有しているという事であった。

 世界は既に魔族と人族による最終戦争に直面している。

 かつてあった人族の内乱はフンボルトによって鎮圧され、各亜人の排斥こそあれど概ね人の領域はフンボルトの名の下に統一されていたのだ。


 今まさに、山の如き巨大さを誇るフンボルト城の中央塔にて、勇者召喚の儀式が行われようとしていた。


 翼を広げた火龍を横たえてもなお余裕のある広大な大理石の広間には、儀式に携わる多くの人と、そしてフンボルト王がいた。

 紅玉の鎧を着込んだ王は幾重もの壁のように並び立つ精鋭騎士により堅く守られ、豪奢な金の玉座に腰を下ろしている。


 目線の先には巨大な魔法陣。

 今もなお魔術師団によって聖歌が謳われ、周囲では神聖治癒団や竜狩り部隊が悠然と佇み、儀式を見守っていた。


「時はきた、か」


 老王は輝きを増す魔法陣を前に目を瞑ることなく、ただ見つめた。


 召喚の儀はそれを行うたび、人間社会に素晴らしい影響を与え、繁栄をもたらしている。

 今この国で当たり前のように使われている砲も、一部の暗殺部隊が携行している秘密兵器も、その他様々な加工技術も。

 異世界より招かれる勇者なくしては持ち得ないものばかりであった。


 現フンボルト王は年老いていた。これが生涯最後の儀式になるだろう。

 しかしその人生で二度も勇者の召喚に立ち会えるというのは、歴代を顧みれば幸運である方らしい。


 ならば最後に相応しい勇者を招こうではないか。

 王の意気込みに、富める国は応えることができた。

 今回の召喚には歴代最高の貨物と触媒を用いている。

 これによって招かれる勇者は、間違いなく人間世界を救う救世主であるはずだった。




 魔法陣から風と、光と、莫大な魔力の波動が吹き荒れる中、それが凪いだ時、黒ずんだ魔法陣の上に立っていたのは白い衣を羽織った一人の人間であった。


「こ、ここ……は? さっきまで……!? 人が、こんなに……!?」


 招かれた勇者は酷く狼狽えていたが、それは珍しいことでもない。異世界から突如として呼び出されれば、それなりに混乱もするだろう。代々受け継がれてきた経験から、それを弁えていない帝国側ではなかった。


 それよりも気掛かりなのは、男の装いだ。


「これは……前回よりも」

「ええ、明らかに我々よりも上。技術力には期待できそうですな」


 裾の長い白い衣服。質が良いかは定かでないが、靴や眼鏡を見る限り洗練されてはいるらしい。魔導工作部隊の副長ミズニュートは、召喚者の外観から強い文明の香りを嗅ぎ取っていた。

 しかし彼の白い袖にはなんらかの魔獣に噛まれたのか、牙で負ったらしい損傷と赤い鮮血が滲み出ているのが見える。ただちに問題はない傷だろうが、速やかな処置を施さなければ出血によって死に至るだろう。


 そして彼の右手に収まった、概ねL字型の小型器械。

 それは王国側の知る秘密兵器「銃」に酷似しているように見える。

 勇者とはいえたったの一人。しかし、一人であってもあの銃は危険だ。わずかな緊張を抱きつつも、一人の老人が男の前に進み出た。


「ここは神聖フンボルト帝国である。私は此度の勇者召喚の儀を一任する宮廷魔術師団団長、ウェルクムント。異世界より喚び出されし勇者よ。我らは何時の来訪を心より――」

「ここはどこだ!? 感染者は!?」


 ウェルクムントの言葉は悲鳴に近い叫びによって掻き消された。

 男は見るからに錯乱しており、手元の銃をこちらに向けるのも時間の問題であるかのように思われた。


 男は召喚されし異世界の勇者。それも高度文明の世界からやってきた、極上の知恵を携えた者。

 手荒い真似は避けたかったが、ここには壁を隔てずに帝王の姿が晒されている。

 視線だけで意志を交わした部隊長達の行動は早かった。


「いでよ“鹵獲の蔦”」


 魔術師団団長ウェルクムントの魔法は事前動作もなく速やかに発動し、急成長する魔物の蔦によって男が手にする「銃」を奪い去る。


「あっ……!?」

「暴れてくれるなよ」

「ぐえっ」


 同時に勇猛な騎士団長ジェノバが黒豹のような早さで背後へと回り込み、丸腰になった男を組み伏せる。

 魔術と剣術、異なる二つの頂きに立つ両者の捕縛は、ある程度熟達した一般兵の目にも止まらぬほどであった。


「は、離してくれ……カプセルガンを、返せ! それがないと……!」

「おい、落ち着けよ勇者君。“ガン”といったか? 残念だがそいつはできない相談だ。ミズニュート殿から銃やガンの類の排除は最優先で行われなくちゃいけねェんでよ」

「お、お前たちは誰だ!? まさかアメリカ……!? と、とにかく返してくれ、完成したばかりでまだ生産は……!」

「何をごちゃごちゃ言いやがる……おーい! 勇者殿を落ち着かせたい。神聖治癒団を!」

「ええ、ただちに」


 騒然とする中、一人の優しげな顔立ちの女性が歩み寄ってきた。

 最上位法衣に身を包む美しき聖女は、神聖治癒団の最上位僧侶サティス。

 回復魔法に特化した僧侶部隊の長を務める若き英雄の一人である。


「き、キュアーの装填数は三つある。だから、一回だけでいい。研究室で噛まれたんだ。俺に使って……」

「まあまあ、ひどい傷。獣の噛み傷でしょうか……? 抉られていないのであれば、完治は難しくなさそうですわね」


 聖女は傷の具合を診断し、騎士団長は男を取り押さえ、魔術師団長は魔法陣に飛び散った血液を見て眉をひそめ、魔道工作部隊長は渡された「銃」の構造を確認している。

 兵は一風変わった風貌の勇者とその騒動にざわめき、王は予定通りの事の運びに沈黙を守っている。


「これよりあなたの傷を魔法で治癒します。肉体を活性化させ、傷ついた体を修復するのです。理解はできないかもしれませんが、我々は決してあなたの敵ではありません。だからどうか、暴れないでくださいね」


 自愛の微笑みを向け、聖女は男の傷口に白い杖を当てた。


「ひっ……な、何を!」

「おい暴れるな。サティス様直々の治癒を与えられるなど、そうあることではないんだぞ」

「じっと、そのままでいてくださいね……」


 白い杖に暖かな気配が収束する。

 それはあまりにも幻想的すぎて、科学を信仰する男にとっては不気味なものに見えた。


「頼む! キュアーを……カプセルガンを返してくれ! それは世界の……我々人類の最後の希望なんだッ!」

「“慈悲深き聖なる神よ、彼の者の身体を癒やし給え”」

「あ、あああ……!」


 治癒の輝きが男の腕を包み込み、肉体の傷を修復する。

 科学では説明できない力によって代謝を促進し、活性化させる。


「あッ、ぐ、あぁああぁッ……」


 帝国随一の治癒術は、噛み傷であろうとも傷口を残すことはない。


 だが。

 男の傷口に潜んでいた“目に見えない悪魔”は急速な代謝によって強く活性化され。

 またたく間に男の血と肉を巡り、その脅威を隅々にまで行き渡らせた。


 皮膚は青ざめ、血管はどす黒く変色して浮き上がり、目は濁る。


「ひゃぁっ!? な、なぜ……!? 治癒は確かに……!」

「グアアアアッ! カエセッ!」


 それはまさしく“ゾンビ”であった。


「な、この力……ぐッ」

「ガエゼェエエ」


 ゾンビへと変わり果てた男は、先程まで組み伏せられていたとは思えないほどの膂力でもって、騎士団長を跳ね除ける。

 そして保護するもののない手の甲に噛みつき、黄ばんだ歯を深々と突き立てた。


「アンデッドかッ……!? くそぉッ!」

「ガァッ」


 だが騎士団長の対人戦闘能力は凄まじいもので、人外の化物相手にも後れを取ることはない。

 ワイルドベアとの徒手格闘に打ち克ったジェノバの丸太のような腕は、すぐさまゾンビの噛みつきから逃れ、再び組み伏せることに成功した。


「アンデッドだ!」

「なぜ勇者がアンデッドに……!?」

「聖水を用意せよ! 治癒団はターンアンデッドの詠唱を始めるのだ、早く!」


 先程まで無害そうな様子だった勇者の唐突なアンデッド化に、広間は混乱に陥った。

 そして何が起こったのかは、その場で見ていた誰にもわからない。治療を受けた勇者がとても考えられない速度でグールのように変貌し、襲いかかってきたのだ。混乱の渦中にいるのは彼らも同じである。


 儀式は確かに成功した。

 男は先程、自らの口で世界を救うなどとも言ってみせた。

 救世主にあたる人物であることは疑いようもない。

 しかし、何故彼はこうも暴れ、アンデッドへと変貌したのか……。


「いってぇえ……この野郎、勇者じゃなければ殺してたところだぜ……!」

「グァ、グァアアッ、ガエゼッ、ガエゼ!」

「くっ、暴れるんじゃねえっ、両腕を折ってやろうか……!?」

「ジェノバ様! は、はやく傷の手当を……!」

「ああ頼む聖女様。こいつは抑え込んでおくから、心配はいらない。クソッ……騎士団よ、念のために王をお守りしろ!」


 聖女サティスが震える声で詠唱する間にも、運ばれてきた聖水の小瓶が矢継ぎ早に運ばれ、次々に白衣の男の頭へと注がれてゆく。

 拘束されて身動きできないこともあって、ぞんざいに水に濡れゆくばかりの男は落ち着いたようにも見える。

 通常、アンデッドは聖水を浴びれた煙を吐いて激しくもがき苦しむものだが、そのような劇的な変化はない。


「“彼の者の傷を癒やし給え……”」


 だからこれで全てが終わるはずだった。

 アンデッドに聖水を浴びせ、騎士団長の負った傷を治癒し。

 ひとまずはこの騒乱が落ち着くかと思われたのだ。


「うッ」

「えっ?」


 だが悲劇は終わらない。

 これは始まりに過ぎない。


「う、っう……あ、あああ、ガァアアアッ!」

「ひ――」


 全身を青白く変色させた騎士団長が、獣のように吠える。


「グァウッ」


 人間だった頃でさえ人外の領域にあった脚力は、変異によってさらなる力を得た。


「は、ひぇ?」


 ジェノバはただ一度の跳躍によって、何十メートルも離れた場所に置かれた玉座にまで肉薄した。

 白く濁った騎士団長の目の前には、守るべき老王がいる。

 老王は長年誰にも見せることのなかった呆けた表情を浮かべ――。


「グァ」

「はギャ」


 喉を食い破られた。


「と……取り押さえろ――ッ!」


 王は死んだ。


「アンデッドだ! ジェノバ様がアンデッドに!」


 騎士が死んだ。


「聖水が効いていない……!? きゃ、やめて! 嫌ぁっ!」

「勇者が動いてるぞ! サティス様がっ……早くこいつをどうにかするんだ!」

「治癒師団動け! 王が! 王がジェノバ様に噛まれてっ……!?」


 城内に恐慌が伝染する。


「いてぇ!? くそぉ引っ掻かれた! こいつ、犬みたいに噛み付いて……!」

「治癒術を頼む! 怪我人が!」

「おいどうしたんだよお前! な、やめっ……」

「ターンアンデッドはどうした!? 何故浄化されないんだ!?」

「誰かジェノバ様を止めろッ!」

「良かった! 王が生きておられ……王? 何を――」


 不潔な牙が肉に食い込む。黒ずんだ爪が皮膚を切り裂く。

 未知なる力によって培養された“目に見えない悪魔”はまたたく間にその数を増やし、伝播し、人々を支配下に叩き込んでゆく。


「魔法じゃ! アンデッドを魔法で仕留めよ! 浄化は諦めるのじゃ!」

「ジェノバ様がッ、うわぁあああ」

「王!? やめっ、ぎゃぁあああッ」

「頼む、治癒をかけてくれ! 血が止まらないんだ……!」

「竜狩り部隊! グールを殺せぇッ!」


 攻撃魔法が磨き上げられた大理石を砕く。

 さきほどまで友人だった兵士たちが剣に貫かれて死んでゆく。


「い、たい……痛い、けど、治療……しなければ……」

「サティス様お願いしますッ、広範囲治癒魔法を……!」


 プラスチックで出来た異世界のカプセルガンが血の海にこぼれ落ちる。

 しかし今や、ちっぽけな物に目を向ける者は一人としていない。


「“傷つける者達に”……“癒やしの雨を”、“お恵みください”……」


 片足を食いちぎられた聖女が力を振り絞り、白杖を掲げる。

 暖かな光が広間に満ち溢れ、傷ついた兵たちの肉体を修復してゆく。


「グァ……」

「ガァァアアアッ……」


 訪れる沈黙。


「――なんで」


 そして、新たなる呻き声。


「なんでこんなことに――?」

「ア、グぁ、チリョウ……シナケレバァ……」




 神聖フンボルト帝国は一夜にして滅び去った。

 城も街をも奇妙なグールが覆い尽くし、家畜も魔獣も正気を失い、恐るべき怪物へと成り果てたのだ。

 何が起こったのか。国はどうなったのか。

 伝える者は誰もいない。




「お、斥候のワイバーンが戻ってきたようだ。戦闘でもあったのかねぇ?」

「ケケッ、随分と遅かったじゃねぇかよ」


 三日後。魔王軍の領域に、人間の領域へ偵察に出したワイバーンが舞い戻ってきた。


 目を白く濁らせた、手負いのワイバーンだったという。