王座の行商
むかしむかし、とあるところに豊かな国がありました。
豊かな国の人々は美しい自然に囲まれ、大地の恵みを糧に幸せな生活をしていました。
しかしある時、山に封じられた悪魔が目覚め、豊かな国を見下ろしていた白く美しい山を突き破って地上にその姿を現しました。
悪魔が地上に現れた山からは三本の火の柱が天を貫いて立ち上り、豊かな国は泥と塵で一晩にて埋もれ、なくなってしまいました。
多くの人々が亡くなり、住む場所を失いました。
嘆きが人々を包んだとき、一人の若者が女神様の啓示を受けて立ち上がりました。
――西へ行く。そこに、約束された土地がある。
人々は呪われた土地を捨て、塵に覆われた荒野をひたすら歩き続けました。
三つの大河を超え、三つの山並みを超えたその先に、彼らは女神に祝福された土地を見つけました。
女神から啓示を受けたその土地に、女神様は『ノーウァセムリャ』の名を与え、国を作られました。
「――これが、わが国の建国神話となっています」
彼女は、そう宰相が語るのを、応接間の隅で立ったまま聞いていた。部屋の真ん中では、テーブルをはさんだ状態で彼女の雇い主の職人の男が、張り付けたような笑みを浮かべながら黙って年老いた宰相の話を聞いている。彼が机の上に並べた紙――木から作る紙は、どうやらこの国では一般的らしい――に何やら書いていて、それを職人の男が笑顔で相槌を打ちながら時折視線を動かして見ている。きっとこれからの『仕事』に関わる契約書なのだろうが、生憎彼女の立っている場所から書いてある内容を窺い知ることはできないし、興味もなかった。
長い話が終わると、宰相は一息、と言った塩梅でテーブルの上に置いた銀製のゴブレットから、香草と果物で香りと味を付けた水を静かに飲む。机の上にゴブレットが再び置かれる頃には、宰相の瞳は職人を見据えていた。
「さて、では前置きはこれくらいにしておいて」
「――仕事の話、でしょう?」
青年と言うには老いているが、中年と言うにはまだ若い男の職人が宰相の言葉を遮るようにして言う。顔には笑顔を張り付けたままなのを忘れていないあたり、その仕草もあえてそうしたのだろうか。
「おっといけない。すまないね、歳をとるとどうしても長話が癖になる」
「お構いなく。こちらも、貴重な話を聞くことができてよい経験でした。これからの仕事にも、きっと役立つでしょう」
「そうなってくれるとありがたいね。はは――まぁ、君がここに呼ばれているということは聞いての通り、玉座の件だ。なぁ玉座職人君?」
男は張り付けた笑顔を絶やさない。宰相は話を続ける、
「この度、ジョージス10世が即位し、この国も建国400周年を迎える。そこで、玉座を一新しようという話が上がった」
宰相は応接室の壁にかかっている、歴代国王の絵画を横目で眺めた。職人の男も、一瞬目を絵画に向けるが、すぐに向き直る。
「今陛下が使われている玉座は、初代ジョージス1世がありあわせの材料で作ったという逸話の玉座だ。歴史的価値はさながることながら、その座の持つ意味も大きい」
「ですけれど――」
「そうだ、近年、国同士の交流も増え、他国の使者を迎える機会も増えてきた。そこで、あの玉座はあまりにも、その」
言葉に詰まる宰相。職人の男の眼が細まり、口角が小さくつり上がる。
「宰相閣下、それが我々をここに招き寄せた理由と言うのは、十分把握しております」
「すまないな。まぁ、議会であの玉座は王立博物館に寄贈。新たな、他国の使者を迎えるにふさわしい物を、新たに作り直すというのが上がり、先陛下の後押しもあった」
「先陛下の?」
「ああ。先陛下も、400年という年月の意味を重く見ておられる。古いものと新しいものの入れ替わり、それをしていくべきなのだと」
宰相は立ち上がり、窓のそばまで歩いていく。彼の深く皺の刻まれた顔には、この国の歩んできた歴史が刻まれているようだった。
「新たなものは常に産まれ続ける。老いたるは、ただ消えるべき時もあるのだ。過去を忘れぬように、刻みながら、な」
話は、その後すぐにまとまった。
城下の街を、職人の男と女――女は雇われの用心棒で、長い付き合いだった。――が歩く。女は麦畑の様な金色の髪を緩く三つ編みにまとめていた。金属プレートを革でつなぎ合わせた中装鎧を時折ガシャガシャと鳴らしながら、背中に二本の剣と盾を背負って職人の男の後ろを早歩きで歩く。強気な青い瞳でにらみつける先には、黒い髪を後ろで束ねた男が相変わらず、悪巧みでもしているかのような怪しげな笑みを浮かべていた。
「なあライール」
女が前を歩く職人の男に話しかけた。
「なんだユディト」
「いや、今回の依頼だが、私が出張るようなことはないだろうな?」
するとライールは、困ったような顔で肩をすくめた。彼の灰色の瞳が揺れる。
「それは、その時々、と言うことで」
「貴様が『そういうこと』に首を突っ込む予定があるのか、と言うことを聞いているのだ馬鹿者! 通常の護衛は報酬に入っているが追加の戦闘は追加報酬をいただくぞ」
「わかっているさ。持ちつ持たれつ。お互い良きビジネスパートナーで、な」
「本当に分かっているのかこいつは……」
ライールの仕事は、王の座る椅子。つまり玉座を作る職人であった。彼は国々を、依頼を受けて飛び回り、その国で依頼に合った玉座を作る。彼以外の『王座の行商』を見たことはないが、いるという噂は聞いている。その中でも、依頼の頻度を見るにライールは、腕利きの方ではあるらしい。
国々を飛び回り、一つの国に制作として数か月、時には季節が一巡りするほど留まってまた次の国へ向かう。ライールという人間にいずれかの国家に属するという雰囲気はなく、ユディトもライールがどこの出身かというのも聞いたことがなかったし、聞く気もなかった。
ユディトはそっと自分の肩に触れる。肩についたアーマーに、引っ搔いたような傷。傷の下には何かの紋章の様なものが見えるが、その上についた傷が深く、広く削り取っているせいで、紋章が何を描いていたのか、最早断片的にしかわからない。
「で、今貴様はどこに向かっているんだ?」
「いいや、さっきの会話で言っていただろう? 立派な博物館があるそうじゃないか。まずはそこから当たるべきだな」
彼がそう言うのにも理由はある。玉座と言うものは大抵その国家を象徴する存在、たいていの場合国王が座るため、『国を示す』のに必要な要素が必要とされる。大抵はその国家で取れる名産を彫り込んだり、場合によっては素材としたりすることもある。そして、今回の依頼は最も多い例の――。
「歴史の時間だ、さあ張り切っていくぞ! もちろんこれも報酬の範囲だ、さあ駆け足!」
ユディトは、静かにため息をついた。
白い石造りの王立博物館は、王宮のややはずれにひっそりと佇んでいた。訪れる人も少なく、まばらだ。高い石柱を並べた門の奥に見える入口の脇に、全身鎧をまとった警備兵がたたずんでいる。ライールは肩から下げた鞄から書類の様なものを取り出すと、ずかずかと入口に向かって歩いていく。ユディトもそのあとを追う。
「止まれ! 王立博物館は許可を得た者以外は――」
「その許可を得たものだ、上に取り次いでくれ、『宰相の許可を得てライールが来た』とな」
ライールが手に持った紙を見せびらかしながら、大きな声で叫ぶようにして言う。警備兵が一瞬顔を見合わせるのを、ユディトはあまりこの警備兵は腕がいいわけではなさそうだと解釈する。まだ確認も取れていない身元の人物から目を離すのは論外だ。
あるいは、それもこの国が平和だということなのだろうか。露店、にぎわう市場、活発な経済活動。教育水準も高く、街や街道に『標識』があるのも珍しい。議会と王の二頭政治による立憲君主制を採用していて、議会では多数の議員が国民の声をもとに政治を行う。これまで巡ってきた国家の中で、間違いなく良い方に入るだろう。
中にはひどいのもあった。戦争でしか外貨を稼ぐ手段がない国、上流階級の腐敗が進み、国民がひたすら搾取される国、国が商会に多大な借金を負い、国の運営そのものが乗っ取られかけている国。
そう言った国々と、この国。違うのは何だったのか。ユディトのアッシュブルーの瞳はただひたすら警備兵の二人とライールの背中を眺めている。
「失礼しました。ライール様ですね」
入口を開けて現れたのは、淡い色をした長い髪をなびかせた、若い女性だった。身体を覆い、シルエットを隠すような白い司祭服には、この国の宗教の物だろうか、草の様な薄緑色の刺繍が施してある。しかし、何よりも目を引いたのは、彼女の耳。まるで麦の穂の様に、伸びているそれは、彼女の種族を何よりも語っていた。
エルフ。
「宰相閣下から話は伺っております。どうぞこちらへ」
彼女に導かれて、王立博物館内を歩く。ガチャガチャとユディトの鎧の音だけが響く中、鏡の様に磨かれた床を奥へ向けて歩いていく。
導かれた先にあったのは、ユディトの背の倍はあろうかと言う巨大な扉だった。見上げていると、女司祭がゆっくりとした動作で手を差し出すと、歌うような調子で聞きなれない言葉を紡ぎ出す。
「精霊魔法か」
世界のシステムの一部として存在する、何らかの知性。それをエルフたちは『精霊』と呼び、それらに語り掛けることで望みの物理現象を引き起こすことができる。ライールもユディトも、エルフに出会ったことは初めてでもなかったし、珍しいわけでもなかった。
――ただ、決まった定住地を持たないとされるエルフで、しかも精霊魔法を使えるような個人がこうして人間の国家で、それなりの役職を得ているというのは、どうにも珍しかった。
彼女が言葉を止めると、巨大な扉がひとりでに動き出す。扉の先の部屋は暗く、一寸先も見えない闇が広がっていた。女司祭が再び精霊魔法を使うと、部屋にいくつも白い光の玉が浮かび、そして壁に光で描かれた模様が輝いて、暗い部屋を照らしていく。
「先代の陛下から、エルフの大規模な移住を推し進めていまして」こちらの視線に気づいたのか、エルフの女司祭が語り出す。「こうして、私の様に公の職に就くことも珍しくはなくなったのです」
「ほう、それは」
興味深い。そうライールが口には言わずとも、心でそう唱えているであろうことをユディトは長年の付き合いから、何となく理解していた。
「私もこうして教会の司祭として、ノーウァセムリャの為に働かせていただいている、ということです」
その言葉は、どこか誇らしげな様にも、ユディトは感じた。
展示室と言うより、そこは資料室であった。いくつも並んだ棚に、石板や木版、絵や本、羊皮紙で出来ているであろう巻物が並んでいる。真ん中には机があり、その上に精霊魔法の光の玉が浮かんで机の上を白く照らしていた。
ライールが奥に歩いて行こうとすると、女司祭が机の上に置いていた物――巨大な立方体の形をした水晶を、格子で押し込めているものに、取っ手を付けたもの――を取り、近くを浮かんでいた光の玉にかざすと、光の玉は中央の水晶に吸いこまれ、その中で白く輝いた。それを女司祭がどこか恭しくライールに渡すと、彼は小さく礼を言って受け取る。ランプを使わないのは、火気厳禁と言うことか。便利なものだな、とユディトは思った。
ライールは光源を掲げて棚の間を歩く。棚と棚の間は横に寝そべれるほど広く、左右の棚に並んでいるものを眺めていく中で、目当ての物を探した。
ライールの持つ光源の光が奥に小さくなっていくのを見ながら、ユディトは机に並べてある椅子を引いて座った。部屋の壁で光っている模様は、よく見れば司祭服に刻まれている模様と同じだった。
「さて、仕事の時間だ」
少しすると、ライールが戻ってくる。手にはこの国の歴史書だろうか、枕にできそうなほど分厚い本がいくつも積み重ねられていて、それを机にどこか慎重に置くと、ミシリと机がきしむ。
「随分かき集めてきたな」
「同じ事象を別の人が書いている。そういうのをいくつも集めた。多角的に判断せねば、真の姿はみえてこない」
「だが、ここは王立博物館だぞ?」ユディトは周囲を見渡しながら言う。「王家と議会の審査を通ったものが並べられている、そういうことではないのか?」
「だからこそお前を雇ったんだ」ライールはにやりと笑う。薄暗い部屋の中、光源に照らされた彼の顔はさも怪しげに見えた。「頼りにしてるぞ、元騎士団長殿」
やめてくれ、その呼び名は。そう言ってユディトは呆れたように腕を組んで他所を向く。ライールは、くつくつと笑いながら本を開いた。
この国の歴史は、基本建国の時点から記録が始まる。これはどの国にも当てはまるのだが、基本記録と言うのは現在に近くなるほど正確で、過去に行くにしたがって不正確なものとなっていく。ライールが複数の文献を統合して得た情報でも、先々代の国王の治世の情報はすべての歴史書でほぼ同じ記述がされているのに対し、それより過去になっていくと次第に書籍によって記されている歴史が変わっている。
下手をすれば、この合戦があったのかどうか、そもそもこの大臣は実在したのか、と言う域にまで達していた。
「これは骨が折れるだろうな……」
ライールが漏らすが、その口元はどこか愉快そうに歪んでいる。その様子を、ユディトは無感情に眺めていた。
この男はいつもそうだった。国家に帰順する意識が極めて薄いくせに、国家、そして歴史と言うものを愛している。それは偏執的でもあり、狂気的でもあった。この男は何を歴史に見出そうとしているのか。ユディトは彼と巡った国々で見てきた、様々な『歴史』を思い返す。ゆっくり上を向いて瞼を閉じると、まるで目の前で見てきたようにそれらの光景が浮かんできた。
人の歩みの愚かさか?
あるいは、人間自体の――。
「おい、ユディト」
ライールが声をかけてきて、ユディトは追憶から現実に速やかに戻ってきた。
「どうした、ライール」
「この記述を見てくれ、こいつをどう思う?」
「どう思うって……」
ユディトは彼が差し出してきた歴史書――待て、こんなのあったか?――を見ると、そこに小さく書かれた記述。ひっそりと、隠れるようにして、膨大な文章の中にぽつりとその記述はあった。
「……先住民がいたってだけだろ? 珍しいことじゃないだろう。この土地は豊かだったんだろう」
「そう、それだ」
ライールの声が絞られる。その灰色の瞳はギラギラと、どこか薄暗い資料室の中で輝いていた。
「豊かな自然、移民が押し寄せてもすぐに養うことができる環境。それなのに、先にいた存在のことは何も記述されていない。いてもおかしくないのに、何一つ」
ユディトの瞳に困惑が浮かぶ。ライールはその反応が欲しかった、とばかりに愉しそうな表情を浮かべると、小声で続けた。
「どの歴史書もそうだ。『女神によって導かれた豊かな土地で、王の祖先が国を建てました』だ。建国の過程は一切記されていない。過程が省略され、結果だけが記されている。そんな中でこいつだけが違った」
ライールがユディトに見せた本を閉じて表紙を見せると、著者として一人の歴史学者の名前がある。
「この歴史学者はこれ以外の著書はない。結果だけみればモグリもモグリだ。だがそんな学者が書いたはずの歴史書が、なぜかこうして王立博物館の蔵書として棚を占拠している。そして、この一冊だけに先住民の記述が書かれている」
その言葉を聞いて、ユディトは目を丸くした。
「まさか、王と議会が内容を見て、ここに並べるに値すると判断したって、そう言いたいのか、お前は?」
その通り、ライールがにやりと嗤った。
「そしてこの歴史書が書かれたのは、今から36年前。これは、先代の国王が即位して間もなくのことだ。そして今回、玉座を一新するという案を議会から施行に通したのも先代王。二つのまったく異なる出来事が先代王で収束している。奇妙な一致だと思わないか?」
ユディトは、黙って頷く。
その二人の背中を、女司祭は黙って見つめていた。
「で、お前がこうして私に酒を奢るってことは何か厄介事を依頼する気なんだろうな」
すっかり日も暮れたころ、ユディトがカップに注がれたエールを豪快に飲み干しながら言う。香草が効いていて、目の前に並べられ、今はすっかり影も形もない肉料理の油を口内から流し去っていった。珍しく、まるで雪解け水の様に冷やされている。
「良く分かっているじゃないか、相棒。まぁ今回は不明な点も多い」
ライールが小さな手帳を取り出すと、テーブルの上に広げる。飛竜皮ででき、金属の輪で穴の開いた紙を綴じた手帳は、使い古されて端が黒ずんでいる。広げられた内容には、先程王立博物館で調べた内容が纏められている。ページを彼がめくると、展示品をスケッチしたのだろうか、丁寧な濃淡で描かれた文様やら絵画の複写やらが広がっていた。
『王座職人は椅子職人であると同時に歴史学者でもある』
前にライールが言っていたことをユディトは思い返す。こういう芸達者で多芸なのも、公平に歴史を見るためでもあるのだろうか。ライールが行った先で『言葉が通じない』という事態に陥るというのを彼女は見たことがなかった。
「ちょっとした伝手を使ってな、あの歴史学者の足取りをたどってみた。本人は5年前に死亡。あの歴史書を編纂した時点で、だいぶ歳は行っていたらしい。大往生だ」
彼がペンを取り出す。炭を細かく砕いた粉を、油で練って焼き固めた芯を、細長い木で包んだものだった。削るだけで書けるそれは、出先で重宝していた。
「で、面白い事実が浮かんできた。あの男、ただのモグリの歴史学者じゃなかった」
「ほう?」
ユディトが目を細める。
「先々代の国王の宰相、そして先代国王の教育係だった男、それがあのモグリの歴史学者の正体だ」
「――宰相が、あれを書いたのか?」
ライールの言葉に目を丸くするユディト。
「そうだ、ここでも出てきた、先代国王。一体彼らは何に気付いたんだろうなぁ?」
そう仰々しく言うライールは、そのまま腕を高く上げ、ウェイトレスにエールの追加を頼む。
「で、そこで私の出番と言うわけか」
「話が早いじゃないか。これを見てくれ」
ライールがメモをめくると、そこには地図と思われるスケッチがこれまた無駄に丁寧なスケッチで描かれていた。記述でわかるのは、特徴的な形の山並みと、王都、そしていくつかの街に、遺跡――遺跡だって?
「おい、これはなんだ」
「今回の依頼はこれだ。この遺跡を探し出しつつ、遺跡内部の探査を行う。その探索と護衛が君への依頼だ。もちろん戦闘や探索の難易度によって報酬は弾む。これでどうだ?」
ユディトは眉を訝し気に寄せると、手元のエールをぐい、と飲み干す。苦みが冷たさを伴いながら腹に落ちて行って、じんわりとした熱が上がってきた。
「あのなあ、どこかもわからない遺跡を探しつつ、その内部の詳細不明の遺跡の探査の護衛をしろだって? 馬鹿も休み休み言え。それにいいか、傭兵ならだれでも知ってる言葉がある」
「『妙に高い報酬、そして仕事内容が不明な依頼は受けるな』だろ?」
「よくわかってるじゃぁないか」
ユディトが言う。彼女の顔には酔いが回ったのか、朱が差し始めていて、いつもライールを睨みつけてくるその青い瞳も、どこか蕩けているような様子だった。
「まず探索に関しては君に十分なアドバンテージがある。アルギュロスなら見つけるのはたやすいだろう」
「だからそれがどうした! 第一遺跡の中に何があるか不明な状況で、よく『さあ行こう』と即決できたものだな! お前らしくもない」
声を少し荒げながらユディトが言うと、ふっ、とライールの顔から表情が抜け落ちる。
「――例の宰相は、この遺跡に行った形跡がある」
ユディトの動きが、止まった。
「それも一回ではない。少なくとも3回、おそらくは5回ほど、この遺跡に足を運んだ形跡がある。そしておそらく最後の調査ののち書かれたのが、例の歴史書だ」
とんとん、とライールが手帳に描かれた地図の遺跡を指で軽くたたく。その表情にいつもの様な軽薄さはない。
――『素』を出すなんて、珍しいじゃないか。
その様子に思わずユディトも、黙ってライールの話を聞き続ける。
「先代王、先代宰相、消えた先住民、王座。すべての謎の答えがここにある。この国が隠したかった、だけど隠すわけにはいかなかった、その葛藤の理由がここにある」
彼の言葉が、嫌に耳にしみわたってくる。ユディトがここにいる理由、それが心の中で傷跡の様に広がり、答えを求め続けている。その欲が、この先の景色を見たいと叫ぶ。
「――わかった、引き受けよう」
少しの熟考ののち、ユディトは首を縦に振るしかなかった。
おまたせしました、とウェイトレスがエールを運んでくる。金色の、どこか若草色が混じったような不思議な色の髪を三つ編みにして、愛想よくテーブルにエールの入ったジョッキを置いた彼女の耳は、麦の穂の様にとがっていた。
「またエルフか」ユディトが言う。「この国は珍しいな。エルフの大規模な移民の政策を実施している。こうして就労機会も与えているあたり、本格的に取り込むつもりか」
「まぁ、この国以外で、こうして街中で働いているエルフを見ることなどないからな」ライールがジョッキを手に取りながら言った。「基本、彼らは流浪の民で、根無し草だ」
僕らと同じようにな。彼がそう言うのを、ユディトは黙って聞き流した。そこで彼女は、新たなジョッキが二つあることに気付く。
「おい、私は頼んで――」
「これは前報酬ってやつだ、さあ、君と僕の新たな契約に、乾杯」
そう楽しそうに言うライールの顔には、既にいつもの様な軽薄そうな表情が張り付いている。ユディトは黙って自分のジョッキを持つと、盃を合わせた。
「乾杯」
喉を鳴らしてエールを流し込む。冷えた苦みが喉を滑り落ちていった。
「なぁ」
ジョッキの中身を一息に半分ほど煽って、ユディトが呟く。
「傭兵の格言には、もう一つある」
ライールはほう、と楽し気に聞き返してきた。
「『前払い報酬が妙に高い依頼も、受けるべきではない』だ」
ジョッキの中の琥珀色の海は、十分過ぎた。
「アルギュロス!」
ユディトが声を上げる。
早朝。王都の外れにある竜舎。燃えにくい木で作られたそれは、円柱を縦に切ってそのまま横に倒したような、何とも言えない形をしている。その入口の扉を開け、中に彼女が呼びかけると、のそりのそりと重い音と共にそれは這い出してきた。
頭から尾の先まで、歩いて40歩ほどもあろう、老いた鈍い銀色の竜。首の後ろには鞍が備え付けられ、そこに二人跨れるようになっている。
「今日も元気そうだなアルギュロス。私はいつお前が寝たまま起きなくなるのかが怖くてしょうがないよ」
にこやかな表情でユディトが両手を広げると、竜は鼻先をゆっくりと彼女にこすりつける。目を心地よさそうに細めながら、ユディトがゆっくりと撫でるのに、されるがままになっている。
その様子をニヤニヤと眺めていたライールは、アルギュロスから離れたユディトが睨みつけてきて、肩をすくめた。彼は探索で必要な荷物、そしてユディトの剣と盾を、涼し気な表情で担いでいる。
「さぁ、行くんだろう? 生憎だが時間が惜しい。そもそもこいつが着陸できないとなるなら、陸路での移動を考えないといけない」
「わかっている。アルギュロス!」
ユディトが叫ぶと、竜は翼をばさりと大きく広げ、羽ばたかせた。ぶわりと爆風の様な羽ばたきの風が周囲を吹き荒れ、土埃を舞い上がらせた。
――いつでも行ける。
それが、アルギュロスとユディトの間での、合図だった。
ユディトは鞍の状態を確かめる。右側、左側と見て、ハーネスや固定具に異常がないことを確認。異常なし。彼女は軽やかにアルギュロスの鞍に跨ると、自分の身体に取り付けたハーネスと鞍についた固定具を接続し、自分の身体を鞍に固定する。最後に手綱を軽く引いて、アルギュロスがちゃんと答えるかどうかを確かめる。異常なし。
「来い」
「はいよ」
それだけ言うと、ユディトがライールに手を差し出し、その手を掴んだライールが鞍上に強引に引っ張り上げられる。彼は慣れた仕草で鞍に跨ると、同じように自分の身体を鞍に固定した。目の前には、ユディトの背。彼はためらいなく腹部に手を回して自分の上体を支える。返ってきたのは金属の鎧の感触だった。
「アルギュロス、行くぞっ!」
「――!」
ユディトの声に、竜が答える。竜はのしのしと、重々し気に、そして力強く地面を踏みしめると、竜舎からつながる広場に出る。助走路は広く、他の竜はいない。助走路の前でいったん停止し、右腕を掲げる。すると、奥に建てられた櫓で緑色の旗が翻った。
離陸を許可する。
アルギュロスを操り、助走路に出る。空に雲は少なく、青空とその向こうにうっすらと『父の月』が浮かんでいる。『父の月』の縞模様が、今日は良く見えた。空は静かなようだ。
「さぁ飛ぶぞっ!」
どこか高揚しているような様子で、ユディトがアルギュロスの首元を二回蹴ると、アルギュロスはぐぐ、と上体を沈めた。地面が目の前に迫ってくるような光景。しかしユディトも、竜も、見据える先は空。
竜が駆けだした。翼に幾何学的な模様が浮かび、世界が竜に屈服し、翼が大気を捕まえる。その羽ばたきと共に重力の鎖は解かれ、竜は空に身を投げ出した。ごう、と土煙を上げながらぐんぐんと空の中に吸いこまれていく竜は、緩やかに旋回しながら東を目指す。
「地図は覚えているなっ!?」
ライールが吹きすさぶ風の中叫ぶと、ユディトは拳を中ほどまで上げて答えた。『肯定』のサイン。それを見てよし、と彼はつぶやいた。
ユディトは巧みに竜を操り、それにアルギュロスは答える。風に乗り、見えざる大気の谷を潜り抜け、雲の列が起こす波に乗って空を滑るように駆けていく。眼下の緑の大地は見る見るうちに後ろに吸いこまれていき、前から新しく湧き出してきた光景も同じ光景を繰り返す。
彼女はこの景色が好きだった。空からは境界線など見えない。ひたすら続くひとつなぎの大地、ひとつなぎの空。人間の定めた理を超えて、切れ目のない世界が広がる。そこには『国』なんてものはない。空を支配する法則はただ一つ。より高く、より鋭く、より速く飛べばいい。空は、それだけだ。
ライールが右腕で軽くユディトの腹部の鎧を叩いた。コツコツという振動が彼女に伝わり、彼女は彼の意思に気付く。彼女が下を見下ろすと、ライールが回した手の親指を立て、右方向に向けて振っていた。そちらの方を向く。
あったのは、一面森が続く中、ポツンと現れたとがった山。まるで何者かがそう加工したかのように、平原の中からぽつんと急に立ち上り、中腹ほどで3つに分かれて空をついている。
地図にあった、あの山だった。
ユディトは方位磁針を確認する。今日の方位は『荒れて』いない。針は正確に北を指示しているのは、離陸前に竜舎で他の竜乗りからも情報共有されている。地図に示された大まかな方位と位置関係、そして見える山の形から照らし合わせて、ユディトは冷静にその座標を導き出した。
彼女が手綱に力を入れる。アルギュロスが即座に彼女の意思を理解し、応答した。ぐん、と右に傾き、そのまま滑るようにして右に旋回していく。羽ばたきをせずとも、竜の身体は空を滑らかに切り裂いていった。
地面を睨みつけていたユディトを、違和感が襲う。森の一角が、不自然に途切れている。もしやと思ってその上空をフライパス。すると、森に囲まれた一角に、不自然に開いた広場が見受けられた。その端に見えたのは、間違いない、人工物。
ユディトが竜を操る。大きく右に傾き、傾いたまま『上』に向かって進路を曲げる。翼が大気を受け止めながら、高度と速度を殺していく。翼の先端から、薄い雲の糸がたなびいて、空に溶け込んで消えていく。らせんを描きながら降下。最後の周回で大きく円を描き、着陸地点を目の前にとらえる。向かい風。アルギュロスは翼を大きく広げ、大気にぶつかる角度を大きくとりながら、揚力と抵抗を同時に増していく。速度が落ちて行く中、滑らかな線を描いて着陸地点に吸いこまれるようにして降りていく。
大きく竜が上体を起こした。水平の速度が一気になくなり、翼から風が剥がれた。竜は大きく翼をはためかせると、地面に生い茂っていた草が放射状に一気になぎ倒された。ばさり、ばさりと音を立てながら、人ふたりほどの高さを殺し、竜は音もなく地面を踏みしめた。翼から幾何学的な模様が消え、竜は翼を畳んで地面に寝そべった。
「着いたぞ。ここで間違いないな?」
手慣れた様子でハーネスを外し、ユディトが地面に降り立った。草を踏みしめると、青臭い香りがあたりに漂う。彼女から少し遅れて、ライールも地面に降り立った。
「それは調べてからの問題だ。まぁせいぜい歩かずに済むといいな。頼りにしてるぞ、ユディト」
ライールが背負った荷物から盾と剣を下ろして、彼女に手渡してくる。彼女はそれを受け取って、背負う。二本の直剣と盾は、ベルトにズシリと重くのしかかった。
ライールが歩き出すとユディトはそのあとをついてく。彼のリュックは大きく、様々な道具やロープ、ランタンなどがぶら下がっている。彼は何らかの痕跡がないか、足元を注意して見つつもずんずんと歩いていく。重い荷物を背負い、膝丈ほどもある草むらを歩いていく彼の姿は、とてもじゃないが玉座を彫る職人の姿とは見えない。良く言って歴史学者、普通に見れば探検家か冒険者だ。彼が踏み倒して作った即席の獣道をユディトがついていくと、ふとピタリとライールの足が止まった。ユディトは静かに片方の剣に手をかける。
「思ったより早く見つかった」
ライールはそう言うと、地面にしゃがみこんで地面の様子を探る。薄く土が被せてあり、その上に草が生い茂っているが、土が浅いせいで草の種類と背丈がそこだけ違う。軽く踏んだ時の音も違和感があった。生えている草をぶちぶちと引っこ抜き、土を掘り返すと――木が見えた。
「ユディト、手伝ってくれ」
「了解した」
ライールが土を掘り返す横にユディトが来て、掘り起こされた板を掴む。彼の合図で力を入れて持ち上げると、土が盛大に滑り落ちながら木の板が持ち上がる。木の板の厚さは彼女の手の長さほどもあり、表面こそ土をかけられて腐っていたものの、裏側はそのような様子はなく、乾いた木の色が広がっていた。
しかし、何よりも目を引いたのは木の板を持ち上げた、その先。
「これは……」
ユディトが息をのむ。現れたのは、地下へと続く階段。元は斜めの洞窟だったのだろうが、『誰か』が来て調査をしたのだろうか。木でできた階段が奥まで続いている。
「『当たり』のようだな」
ライールは愉し気につぶやくと、背中のリュックからランタンを外し、地面に置く。腰のポーチから、小さな黒い爪を取り出すと、ポーチから乾燥した苔を取り出して地面に置き、その上に爪を置く。ライールはナイフをベルトから引き抜くと、切っ先を黒い爪に押し当て、そこで一気に力を込めた。
パキリと言う小さな音と共に、手元で炎が燃え上がる。乾燥した苔に一瞬で火が付き、転がっていた枯れ草を一本拾うと、燃え上がるこぶし大の炎に突っ込む。一瞬で先端に火が付き、それをランタンの中のランプに押し付けると、緑色の炎が燃え上がった。
――酒精を燃料としたランプに、ランプの芯に重晶石を焼いてできた粉を編み込んだライール手製のこのランプは、特徴的な緑色の強い光を放ち、洞窟や遺跡の探索にこれまで多大に役に立ってきた。芯はまだ十分残っているが、また材料をそろえに『泥の谷』に出かける必要があるだろう。ライールは火食い鳥の爪で起こした炎を踏み消して土で埋めながら、そんなことをぼんやりと考える。彼はランタンの取っ手を掴んで持ち上げると、そっと洞窟の入り口に突っ込む。火は消えない。入れそうだ。
「よし、行ってもよさそうだ。ユディト、行くぞ」
「了解」
緑色に輝く炎を閉じ込めたランタンを前に掲げながら、ライールが階段を一歩ずつ降りていく。このあたりが、あまり雨が降らない地域と言うのもあるのか、階段はあまり痛んではいなかった。それを考慮しても、この階段は作られてそう古くはないだろう。
ぎしり、ぎしり、と一歩ずつ足元を確かめながら降りていく。その中でもライールはランタンを上下させ、時折地面の方に近づけつつ、その炎が弱まったり消えたりしないかを注意深く見ていた。火の煌めきはそのまま命の煌めきにつながる。ランタンの火が突然消えたりでもしたら、息はできなくなる。窒息はごめんだ。
5階建ての建物ほど下っただろうか。階段が唐突に終わり、突き当りに広がっていたのは、延々と左右に延びる洞窟だった。ユディトが背中を伸ばして手を真っすぐ上に伸ばせば、天井に手が届きそうな高さの、半円柱形の洞窟。足元は平らだが、人の頭ほどある石がゴロゴロと転がっている――いや、この石は新しい。『片付けられた』痕跡がある。きっとそのあとに落ちてきたものだろう。
「ユディト。頭上に注意しろ。崩落があるかもしれん」
「わかった。しかし、これは……」
ユディトが左右を見る。ランタンの緑色の灯りが照らす範囲から外は真っ暗な闇が口を開けている。その先は闇の帳に隠されて、見えない。
「どっちに行くんだ?」
「ふむ……」
ライールが壁の近くにランタンを寄せながら言った。洞窟は黒い岩石で出来ていて、それが洞窟の暗さに拍車をかけているようだ。今のところ彫刻や壁画と言ったものは見受けられない。どのみち進まなければ、ここまで来てなんの手掛かりも得られないだろう。
手当たり次第に行くしかないか。そうライールが思った時、ふわりと風が彼の頬を撫でた。ユディトもそれを感じ取ったようで、ライールと思わず顔を見合わせる。
「今の、感じたか?」
「ああ。こっちから吹いてきて、出口に向かって抜けてった。入口があるはずだ」
ユディトが風のきた方向――洞窟の奥を指さす。彼女は竜に乗る関係で、空気の流れを読み取る能力に長けている。もう片方に延びる洞窟には風が行かなかった辺り、そちらはすぐに行き止まりになっているだろう。
「よし、では風の吹いてきた方に行こう。何もないにしろ、出口はあるだろう」
ライールが歩き出す。ユディトは直剣の片方を引き抜くと、その後を追った。良く磨かれ、手入れされた鉄の剣の表面が、ライールの持つランタンの緑色の光に照らされて煌めく。
よく見ると、洞窟は緩やかな坂になっていた。緩やかな坂を上るようにしながら二人は洞窟の奥へ奥へと進んでいく。その間もライールは洞窟の壁や床、天井にランタンの光を当てて何かの手掛かりがないかを目を皿のようにして探す。
「――おおっと」
しばらく歩いたところで、ライールが急に足を止めた。ユディトもつられて止まると、目の前には人一人の高さほどはある段差。上を見上げると、彼女は目を見開いた。洞窟の天井が、薄く光に照らされている。あの先に、出口がある。目の前の段差を見ると、木でできたはしごがかけられていた。ユディトがライールの方を見ると、ライールが顎をはしごに向けてくい、と振ってきた。彼女はそれを見て直剣を背中の鞘に仕舞い、右足をはしごにかけて登ろうとしたところで――。
盛大な音が響き、はしごがバキバキと倒れる。思わずユディトはとびのき、バランスを一切崩さずに地面に降り立った。折れたはしごは洞窟の床に渇いた音を立てて転がった。
「……こりゃ駄目だな、腐ってやがる」
しゃがんだライールが、はしごが折れた箇所を見て言った。木は入口を塞いでいた板のそれと違って黒ずんでいて、彼が触れるとボロボロと剥がれ落ちた。
水分が、ある。
「この先には何かがあるようだ――ユディト、手伝うぞ」
「わかった、頼む」
ライールが中腰になり、背中のリュックをクッションにして段差によりかかる。見えない椅子に座っているような格好になり、背中を思いっきり壁に押し付けた。ユディトはライールの膝に足をかけ、階段を登るようにして彼の肩に足をかけてぐい、と身体を持ち上げて段差の上に両手をかける。そのままかけた手で身体を持上げて、段差の上に身体を投げ出した。段差の上には洞窟が続いていたが、急に傾斜がきつくなっていて、その向こうが光っている。
「ライール、引き上げるぞ」
彼女は床に寝そべって、段差の端から手を伸ばした。ライールがランタンを渡してきたので、受け取って横に置く。彼の腕をつかんで、引っ張り上げた。ライールは段差のわずかなくぼみに足をかけ、彼女の補助を使って段差を登ってランタンを拾う。
「さて、この向こうに答えがあることを祈ろう」
ライールが呟く。その顔は露骨に笑みを浮かべていた。ずんずんと歩き出して光に向かって歩いていくのを、同じくずんずんと追いかける。気付くと、崩れていたり落石に隠れていたりするものの、階段の様なものが石で作られていた。近い、と彼女もそれを理解した。
光にたどり着いたとき、彼女の眼は光に刺し貫かれた。すぐに視力が戻ってくる。
そこに広がっていたのは、邸宅がすっぽり収まりそうな、巨大な空洞。底は緑に覆われて埋まっている空洞は、大まかに卵型になっていて天井の一部が崩れてそこから光が一筋、空洞内に差し込んでいた。しかし、それよりも彼女が目を奪われたのは――。
「見ろ、大当たりだ」
ライールが指さした先。平らになった洞窟の底の奥。緑に覆われた先に、洞窟の壁に埋まるようにしてそれはそこに存在した。
「あれは……神殿、か?」
「見えているだけで細かい彫刻が見て取れる。そしてこんな場所にあるなら、用途はほぼ確定しているようなものだろう――行くぞ」
ライールが進みだす。一瞬呆けていたユディトも後を追った。
岩の瓦礫の山を、浮いてる石に気を付けながら降りていく。よく見ると、石の瓦礫の山の下には石でできた階段の様なものが見えた。埋まる前の様子が何となくだが、ユディトにも想像できた。
石の瓦礫の山の間から草が顔をのぞかせてくる。そこから少し下ると、辺りは背の丈の倍ほどの木に覆われた林となった。下草やツタが生い茂って、前に進むのに骨が折れそうだった。
バッグの脇から鉈を引き抜いて生えた草を乱雑に切り裂きながら前に進む。腰丈まで生い茂った草には露がついていて、服を濡らしてくる。鉈を振るうたび、青い臭いが鼻を刺した。鉈に断ち切れなかった草がまとわりついて、少しずつ鉈が重くなっていく。動かせなくなったところで引き抜くと、ぶちぶちと音を立てて草がちぎれた。
こうしてしばらく道なき道を進んで、空洞の反対側まで来た頃だろうか、とユディトが頭の中で空洞と自分の位置関係を把握していると、唐突に林が途切れた。草と落ち葉が腐ってできた土から、わずかに湿った石の床に変わる。開けた視界には、先程入口から見えた神殿らしきもの。平らな石を並べてできた床は、暗い入口の奥に向かって続いていた。ライールが鉈をバッグに戻すと、ランタンを高く掲げる。緑色の光は神殿の奥に吸いこまれてしまっていて、暗い入口をただ晒していた。
神殿の入り口はほぼ長方形で、よく見るともとからあった岩を掘って作られていた。丁寧に磨かれた表面はそうやって加工された石材のようで、一瞬石柱を組んで作られているのかの様にユディトは錯覚した。表面には不思議な模様が彫り込まれているが、彼女にはそれがどこかで見たような覚えがありつつも、思い出せなかった。
「行くのか?」
ユディトがそうライールに尋ねると彼は静かに頷き、歩き出す。彼女も彼の後に続いた。鎧が小さな音を立てる中、ライールとユディトは灯りを掲げつつ、暗い神殿の中へ踏み込んだ。
神殿の中は完全な闇で、唯一の灯りは入口から差し込む光とランタンの光だけだった。入口から差し込んだ光が、まるで暗闇の中に一本の道の様に続く中を二人は歩く。ランタンの緑の光が周囲の暗闇に吸いこまれて、消える。光の道の先にはまるで何もないかのように。
ふと、ふわりとユディトの頬を風が撫でた。
「……!」
無言で彼女は左手の握りこぶしを顔の高さまで上げた。『止まれ』の合図。ライールは視界の端ですぐにそれに気づき、歩みを止める。
そのまま彼女は親指を立てて入り口の方に向け、二回振る。掌を入り口側に向け、見えない何かを押すように後ろに動かした後、再び拳を握りしめ、掲げたまま二回前後に振った。
――下がれ。後ろで待って居ろ。何かがいる。
彼女のハンドサインを理解したライールが音を立てずにゆっくりと後ろに下がる中、彼女はゆっくりと右手で背中の剣を引き抜きながら、盾を構えた。左手の盾を前に構え、右手で剣を握りしめながら目の前から感じた『いやな気配』に向けて歩みを進めた。
じわり、じわりと前に進むにつれ、気配は濃くなっていった。喉元を嫌な汗が伝ってく中、吹きあがるように気配が目の前で膨らむ。まるで暴風の様に、実体を持たないはずのそれが吹きすさぶ中、彼女の瞳は暗闇の奥でうすぼんやりと光を放つそれを確かに認識していた。
きしむような金属音。重いものを引きずるような音。ごり、ごり、と石畳を何かが引きずるような音がして、彼女の注意が自然と闇の奥に向かう。暗闇に慣れ始めた瞳、そしてそれが放ち始めた淡い光が、暗闇の中にその正体を現し始めた。
暗闇の中から重い金属音を立てて現れてきたのは、重装の甲冑。異様なのは、決して低い方ではないユディトの、倍ほどもある高さの甲冑だった。元は銀色に輝いていたのだろう、その表面は今や錆と汚れでくすんでおり、劣化したと思われる部位が歩くたびに時折地面に落ちて硬い音を立てていた。がしゃん、がしゃん、と鎧の音を立てて歩くそれの足取りは、次第にぎこちないそれから確かなそれへと変化していき、そうしているうちにそれが引きずっていた物も見えてきた。
甲冑は、ユディトの背丈より一回りもあるほどの長さの諸刃の『片手剣』を、引きずっていた。もはやグレートソードのそれに近いそれを、確かになった足取りで甲冑が構える。フルフェイスのヘルムの奥にぼんやりと宿った青白い光は、確かに彼女を見据えていた。
「――っ!」
甲冑が、その巨体、その重量に見合わぬ速度で駆けた。ユディトの胴体と首を両断せしめようと、空気を切り裂く唸り声を上げてグレートソードが真横に振るわれる。とっさに彼女は身体をかがませた。頭上を通過する質量。掠めただけなのに、心をごっそりと削られたかのように寒気がした。
一撃でも当たったら、終わりだ。
しゃがみこんだ姿勢のまま、彼女は上体をゆっくりと――彼女の感覚では、だが――前に倒し、獲物を見据える。まさに身体が地面に倒れ込まんとする寸前、彼女の踏みしめる石畳が、ミシリと音を立ててひび割れた。
弾かれるように前方へ飛び出す。時の流れがまるで泥の様に感じられる中、床を踏み割りながら恐ろしく低い姿勢で彼女は駆けた。狙うは、右足。
振りぬいてがらんどうになった胴体へ、右手の剣を斜め下から振り上げるようにして滑らせる。剣先が床のほんのすぐそばを通って、完全な軌跡で鎧に向けて振るわれた。右足のふくらはぎの具足、錆びてもろくなった箇所へ――。
「っ!」
刃が甲冑の右足を撫でた瞬間、彼女の表情が驚愕に変わった。甲冑は咄嗟に右足を傾け、ユディトの剣の刃を表面で滑らせた。火花が散って、甲冑の表面から弾けるように咲いた。
金属音。きしむような音。ユディトがハッとして甲冑を見ると、そいつはすでに振りぬいたグレートソードを再び構え直していた。早い。回避、間に合わない。とっさに盾を斜めに構え、グレートソードが振りぬかれる瞬間に備える。
衝撃。
腕が無くなったのではないかと勘違いするような衝撃が腕に走った。彼女は反射的に、グレートソードを横っ腹から殴りつけるように盾を振るった。爆発の様な音。どん、という似つかわしくない音が響いてグレートソードが無理やりその進路を曲げられる。目の前には大きく体幹を崩され、よろけた甲冑。
ユディトの右手の剣が、煌めいた。
彼女が身体ごと甲冑の懐に踏み込み、右手に持った片手剣を、深々と鎧に突き刺した。滑らかな曲線を描くボディプレートに、ほぼ垂直に差し込まれた片手剣の切っ先は、けたたましい金属音を立てて胴体に突き刺さる。大きく突き刺さったそれを、両手でつかんでさらに奥へと押し込んでいく。ず、っと一気に剣が突き刺さった。貫通したらしい。
左足で胴体を蹴り、無理やり剣を引き抜く。
――だが次の瞬間、彼女を甲冑の蹴りが襲った。
「がっ!」
何とか直撃を避け、受け流すように体をひねったものの、十分すぎる威力が彼女に伝わっていた。空中をまるで球をけり飛ばしたかのように跳び、空中で後方に一回転して地面に背中から落ちる。
地面に触れた瞬間、彼女は衝撃を、身体をくるりと一回転させて受け流した。横に殺しきれない速度。地面に剣を突き立てて、ガリガリと音を立てて後退して止まった。左手に持った盾は、蹴りを受け流した反動でひしゃげていた。もう役割を果たせないと一瞬で判断。地面に投げ捨てる。残された装備は、今使っている剣と、背中に背負ったもう一つの――。
「ユディトっ!」
後方に下がっていたはずのライールからの声。彼女はそれを、眼前の甲冑から目をそらさずに背中で受け止めた。
「見つけるんだろうがっ! お前の『答え』をっ!」彼の叫びに、ハッと頭に再び冷静さと、闘志が戻ってくる。「後のことは気にすんな、そんな障害、焼き尽くしちまえ! ケツを拭くのも俺の仕事だ!」
そうだ。こんな所で止まるわけにはいかない。見つけなくては、探さなくては、問わなくては。
その答えを、見出すために――。
彼女は床から剣を引き抜く。防ぐものはない。剣先を真正面に構えつつ、顔の横で剣を握って腰を低く落とした。すっ、と小さく息を吐く。
――ぼんやりと、彼女の瞳が金色に輝いた。
彼女の姿が掻き消えた。石が裂ける悲鳴のような音。わずかに瞳の残光を残しながら、女剣士は彼我の距離を一瞬で詰めた。
甲冑は即座に反応。重いグレートソードが真上から叩き落すように振るわれる。完全な軌跡を描いて、まるで背後の景色が歪んでいるかの様な錯覚。ユディトはその中へと、迷わず突き進む。
刃が頭に触れる寸前、彼女は紙一重でかわすようにグレートソードの側面へと身体を滑り込ませた。叩きつけられるグレートソード。地面を砕きながら、半分めり込んだそれへ、彼女は飛び乗った。
剣が煌めいた。わずかな残光を残して、振り下ろした状態で固まっていた甲冑の両腕の内側が切りつけられる。飛び散る火花。弧を描いて残った切っ先の光を突き破るように、ユディトは甲冑の腕、肩と軽やかに踏んで甲冑の真上から、真後ろへと躍り出た。
甲冑が反応する。地面にめり込んだグレートソードを手元で四分の一回転。地面をガリガリとこすりながら右から振り上げるようにして、振り向きざまに切りつけた。しかし彼女はそこにはいない、剣が振りぬかれる瞬間、まるで影の様に姿勢を低くし、グレートソードの下を潜り抜けた。頭上を剣が通り過ぎる中、振りぬいてがら空きになった胴を撫でるようにして切りつけた。飛び散る火花。引き裂かれる鎧。
甲冑の騎士がグレートソードで、体術で、応戦するも、まるでユディトは絡みつく影の様に攻撃を縫い、潜り抜け、越えて甲冑を切りつけていく。交差のたびに残光を残して切っ先が煌めき、火花が宙を舞い、甲冑に切り傷が刻まれていく。致命打を与えたが効いてはいなかった甲冑も、物理的な損傷で動きが鈍ってくる。
甲冑が、咆えた。
「っ!?」
甲冑の内側から青い光が立ち上がり、まるで炎の様に関節や切り傷、損傷部位からあふれ出してくる。それと同時に、グレートソードに光がまとわりつき、金属の武骨な大剣を、巨大な光の一振りの剣へと変えていく。
光が、爆発した。
とっさにユディトは身構えるも、光が実体を持っているかのように、彼女の身体は再び吹き飛ばされた。地面をこすりながら再び着地すると、甲冑が、今やその身長の倍ほどの丈になった光の剣を、真上に掲げている。
――デカいのが、来る。
ユディトは、背中のもう一つの剣に手を伸ばした。鞘の留め具を外し、柄を握って引き抜いてく。まるで抵抗するかのように、ズシリと重く感じるそれを、鞘と言う閉じた世界から解き放っていく。
その剣は、ごく普通の諸刃の直剣の様に見えた。強いて言うならば、先まで使っていた物よりも、質が良さそうなのが見て分かるのと、刃に、見慣れない模様が刻まれていること以外は、すべて。
――かつて、世界には『竜』がいた。
『竜』達はその知性を持って、世界の法則を解き明かし、世界そのものに干渉する術すら明らかにしていた。
『竜』達は、本来形無きその術を言葉に封じ込め、世界へ対する『命令』としていた。
ある時、『竜』達は忽然とこの地上から消えうせ、後には『竜』達を世界が真似て作った『まがい物』と、『竜』の血脈を継いだ人々だけが残った。
剣に刻まれた模様が輝いた。はじめは淡く、そして膨れ上がるようにしてまばゆく。それは赤であり緑であり青であり、金色に輝いていた。
ユディトの血族に継がれた、『竜』達の知識。それを完全に引き出せる才能を持っていた彼女。剣に刻まれた言葉が世界に対して紡がれ、それを彼女が形にしていく。彼女の瞳は、今や金色にまばゆく輝き、その瞳孔は縦にすぼめられている。
剣の文字が輝く。かの『竜』達がいたなら、その言葉の意味を読み解くことができただろう。
>>時間制御、加速状態。加速閾値を指定。固有時間軸生成。命令実行。<<
世界が、暗転した。
光の大剣が振り下ろされた。洪水のような光の奔流が、彼女を消し飛ばさんと襲い掛かった。光に飲み込まれて、彼女の姿が掻き消える。
次の瞬間、金色の閃光が甲冑を貫いた。
閃光は一本、二本、三本とその数を増やしていく。まるで世界がそこを中心に引き裂かれているかのように、光の筋が幾重にも甲冑を貫いていく。だが、その光景は、泡が弾けるよりも遥かに早い時間の中、繰り広げられていく。
甲冑の目の前。青い光を背にして金色に瞳を輝かせたユディトが、甲冑の首めがけて真横に剣を振りぬいた。
世界がねじ切れるような、凄まじい轟音。金色の光の殺到が、青い光を砕けたステンドグラスの様に切り裂く。光が切れるという摩訶不思議な光景を見ながら、ライールは入口の影から中を覗く。
そこにあったのは、まるでかがり火の様に、見るも無残な姿に切り刻まれながら青い光を炎の様に立ち上らせるかつて甲冑だったものと、そのそばにたたずむユディトだった。
彼女は肩で息をしながら、まだぼんやりと光る竜の言葉が刻まれた剣を背中の鞘にしまい込む。鞘から漏れていた光は、吸いこまれるようにして消えていった。
「――今夜は奢ってやる」
そう、ただライールは彼女の横に立ち、言葉をかける。ぜぇぜぇとした息遣いにまぎれて、小さく、あぁ、とだけ返ってきた。
彼はしゃがみこんで彼女が斃した甲冑を観察する。見ると何でもない。甲冑の内側に、木と土で出来たゴーレムが仕込まれているだけだった。単純だが、強い組み合わせだ。極めつけはさっきの膨大なエネルギーの放出。作ったのは一流の魔術師と職人だろう。
「鎧自体は比較的新しい……ははん、そういうことか。だと思ったさ」
それこそ、数十年前にここを訪れたであろう、それなりの地位を持った『誰か』なら、作るに十分な人脈と資金は持っていただろう。ライールには何となくだが、予想はついていた。何のために、こんなものを配置したのか。
「ユディト、いけそうか? この先に答えがある」
焚火のように光る甲冑の残骸。それに照らされた洞窟の奥の壁を見据えて、ライールが言う。ユディトは、小さく頷いた。
二人は歩き出す。残骸をそれぞれ左右に避けて、洞窟の奥の壁にたどり着いた。
鉄板で、塞がれた入口。だが明らかにそこだけ周囲の岩壁のそれと違う。明らかにこの構造物が作られた、ずっと後にできたもの。何者かが、この先にあるものを塞いだあと。
「……どいてろ」
まだ息も上がったままのユディトが、乱暴に壁を蹴った。轟音。鉄板が真ん中からひしゃげて、入口から吹き飛んで少し奥に転がる。
「乱暴だな、ユディト。少し休んでろ。あとは俺が――」
「邪魔、を、する、な」
まだ息もついていない様子で彼女が言う。彼女の瞳は、まだうすぼんやりと金色に輝いている。ライールは眉をひそめて彼女の様子を見つめる。
「この、先に、この国の、答えがあるんだ。国とはなにか、それに近づけるのなら、それは――」
「――いいから、まずはお前が落ち着け」
ライールは腰のポーチから煙草を一本取り出すと、ランタンの炎に先端を突っ込む。火がついて、彼が少し吸って煙が出てきたところで、それをユディトの口に押し込んで、吸わせた。周囲にふわりと広がる、薬臭い、鼻をつく臭い。いくつかの香草を乾燥させて刻み、巻いた、特性の気付け煙草。その煙を深く肺に吸いこんだ彼女の瞳から、徐々に光が薄れていく。
「……すまない」
少しの間、そうしていただろうか。ユディトの口から言葉が漏れて、ライールは苦笑いで返した。
「いや、いいさ。焚きつけたのは俺だ。なら尻拭いをするのも俺さ」
へたへたと、どこか力が抜けるようにユディトが床に座り込む。
「先に行ってくれ、後から追いつく」
あまり遠くには行かんさ、とライールは言うと、ランタンを持って歩みを進めた。
緑色の光が暗闇を照らす。足元に何かないか注意しながら、封じていた戸のあった場所を越えた、その時何かが足元に当たった。
「……そういうことかよ、くそったれ」
ライールは足元に転がっていた、それを見て、悪態をついた。
転がっていたのは、人骨。それも一つではない。いくつもの、大量の人骨が、折り重なるようにして床を覆い隠さんばかりに転がっている。
ライールはバッグを下ろすと、中から一本の、ズシリと重い棒を取り出す。棒の先端、紙がねじってあるところをランタンの火にかざすと、火がつく。バッグを背負い直すと、片手にランタン、片手に棒を持ってライールは足元に注意しながら歩みを進める。火が紙の根元まで来たとき、まばゆい赤い炎が、棒の先端から噴き出た。その炎が周囲を紅く、明るく照らす。
ユディトが扉をけ破った先の部屋は、どうやら神像が置いてあった、所謂神殿としての機能の中核部分だったようだ。奥に、神像だったと思わしき像が建てられている。風化がひどいが、その像がどの部族が信仰する神の物なのか、生憎ライールにはすぐにわかってしまった。
エルフの神、か。ライールは小さくつぶやいた。
足元の人骨の一つを、そっと手に取る。頭蓋骨だが、小さい。この大きさでは、間違いなく子供のそれだろう。側頭部には特徴的な、丸い穴が開いていた。頭蓋骨の中に、何か入っている。傾けてみると、床に落ちてきたのは矢じりの先端だった。
「状況がつかめてきたぞ……」
床に転がっている骨は、大きさや形、それを見る限り女子供だらけだ。そしてそのどれもに、剣や弓、槍と思われる傷がついている。できるだけ踏まないようにして神像にまでたどり着くと、像の土台、何らかの碑文が書かれていたであろうその上に、無理やり刻んだようにして何かが書かれている。のぞき込んでみると、ライールにはそれが理解できた。古エルフ語。今では語ることのできる者も減ってきている、死滅寸前の言語だった。
『東の山を裂いて三本の火が天を貫いた。月が三度欠けたのち、山から耳の欠けた悪魔共がやってきた。悪魔共は我らの国を焼き、民を殺しつくし、我らを奪いつくした。我らの生き残りに、どうか創造主の加護を。そしてあの悪魔共へ、途絶えぬ呪いを。我らが忘却に消えても、ずっと先の赤子まで』
息も絶え絶えな状況で刻んだのだろうか。ところどころ歪んだ文章。土台の根元には、土台によりかかるようにして、一人の人骨が転がっていて、その手にはナイフが握られていた。その頭蓋骨の形は、まぎれもない。エルフのものであった。
「ライール、これは……」
後ろからライールにユディトが話しかけてくる。彼女も周囲の光景を見て、状況を理解できたらしく、その声がかすかにふるえている。彼女の手には、半分ほどまで吸われた香草煙草が握られていて、きつい臭いの紫煙を静かに立ち上らせていた。
「ありきたりな話さ」ライールの声は、乾いていた。「『約束された地』は、約束された地ではあったんだ。ただ、約束した先が違って。それだけだ」
ライールが文章を指でなぞる。エルフの古の言語にあって、今の言語にはないものが、そこにはあった。『国』という、単語が。
「これが、この国の、真の姿だったって言うのか」彼女の声は、小さく震えている。「おびただしい血と屍を、埋め立てた大地の上に建っている、そんな国が」
「別に。どこだって一緒さ。人が人を纏めて、違う意見の奴を排除する。そうやって群れが産まれ、村になり、町が興き、国が建つ……どこも、一緒だよ」
「だが、国とはなんだ――境界なんて、曖昧なもののために、私達は――」
ライールは言葉を発さない。彼女の問いには、答えない。
暗い洞窟の中、二人はしばらく、立ち尽くしていた。
遺跡から帰ってきた二日後、ライールとユディトは与えられた工房にいた。ライールは部屋の中央で広げられた紙に玉座の図案を書き込み続けている。日の登る前から始まって、日が空の中央に来るまで、ずっと彼はそうしていた。
「……っく。いったん休むか」
ライールが独り言のようにつぶやくと、ペンを図案の脇に置いて背を伸ばす。パキパキと音を立てて彼の背中の骨が音を立てた。ユディトは、そんな彼の様子を部屋の隅のソファから眺めていた。彼女は一応護衛としての任を果たすために剣こそ腰に差しているが――新調したものだった――、普段の鎧は着ておらず、街中で着るような身軽な装備で、背を丸めて両手を足の間に力なく垂れさせている。顔に垂れた金色の前髪の間から、彼女の青い瞳は、ぼんやりと彼の様子を見つめ続ける。
「調子は戻ったか、元騎士団長サマ」
「やめてくれ、その呼び名は」
ユディトの隣にライールがどかりと音を立てて座る。ソファがわずかにきしむ。両腕を広げ、足を投げ出すようにして座り込んだ。彼の両手は、炭で指先が黒くなっていた。
「……彫るのか、あの場所のことを」
「そりゃあ、な」
ライールが懐から香草煙草を取り出して、ソファ横の燭台の炎に突っ込んで火をつける。深く息を吸いこんで、吐き出す。ぼふ、と短く息を吐くと、煙の輪が空中に立ち上った。
「『歴史を刻もう、国を背負う人が座る椅子に。光も影も、人の歩んだ道筋を』」
ライールが謡うようにつぶやく。ユディトにも、聞きなれた言葉だった。
「玉座職人の間に伝わる唄だよ。俺たちはあくまで記録者だ。どう考えるかは、俺らの仕事じゃない。あまり深入りするな、この問題は、この国に生きるものが考えて、答えなきゃいけない問題だ」
「そうか、そうだな……」
力なく返すユディト。ああいうものは見慣れたと思ったが、直前に『竜』の言語を使ったのも相まって、まだ立ち直れていないらしい。彼は小さくため息をつくと、ぽつりぽつりと語り出す。
「これは俺の考えなんだが――」
ユディトが力なく、彼の方を向く。
「この真実を知った先代王と宰相は、だから俺等を呼んだんだと思う。歴史の当事者が消えていく中で、決して闇に葬ってはいけないと。エルフの移民政策も、それなのかもしれない」
彼の言葉を、ユディトはただ黙って聞き続けた。
「境界を作っても、境界をただなくすだけでも駄目なんだ。だけどこの国の人々は、共に歩める、という道を信じて、それを選んだ」
ライールは、香草煙草を吸う。チリチリと小さな音と共に、くすぶる炎が煙草を灰に変えていく。
「それも、また答えの一つなんだと思う」
ユディトは、そうか、とだけ返した。
王都の通りは盛大に賑わっていた。あちこちから絶叫とも聞こえるような、熱狂的な喚声が上がり、新王の即位を祝っている。
「荷物はすべて持ったな、ライール」
「あぁ、報酬も含めて、な」
そう言って嗤う彼の表情に苦笑いをしつつ、彼女は彼に尋ねた。
「で、これからどこに向かうんだ?」
「ここ以外、あらゆる所へ――とでも言いたいところだが、次の依頼がすでに入っている。こっちが仕事を終えたその日に送ってきやがった。次の王国はセヴェン王国だ」
「南の方だな。また長い旅になりそうだ」
「頼りにしてるぜ、ユディト」
彼女は、小さく微笑んだ。
二人は人ごみを歩く。王城から背を向けて、街の外へ。アルギュロスが竜舎で待っている。空を飛んで、用のなくなったこの国を離れる。何回も繰り返してきたこと。人ごみに逆らって、二人ともずんずんと歩みを進めていく。
「――おっと、すまない」
ユディトがふと人の肩とぶつかった。浅くフードをかぶったその人物の顔は、一瞬見えただけだったが見覚えのある顔だった。酒場にいた、エルフのウェイトレス。彼女は同じようにユディトにすみません、と小さく謝ると、人ごみの中へ消えていく。その後ろ姿をしばし、ユディトは眺めて、背を翻す。人ごみを抜け、街を抜け、国の外に向かって。
後ろからは、ずっと絶叫とも聞こえるような喚声が、聞こえ続けていた。