命の別名⑯
1.恩人
十七歳の冬に親友が死んだ。イジメを苦にした自殺だった。
友人の死は九十九丈一の心に深い影を落とし丈一は高校を卒業し働きに出ても尚、その死に心を囚われていた。
そんな彼に転機が訪れたのは二十歳の誕生日を迎えた日のことだ。
仕事帰り、何となく立ち寄ったコンビニで丈一はお酒コーナーで足を止めた。
『……そう言えば、言ってたな。二十歳になったらお酒を飲んでみたいって』
今日日、不良ならずともちょっとやんちゃな子供なら中学生でも飲酒の経験はあるだろう。
だが丈一もその親友も珍しいぐらいに折り目正しい学生で、手をつけたことは一度もなかった。
丈一は缶ビールとチューハイを何本か購入し、近くの公園に立ち寄った。
そして購入したアルコールを口にしたのだが、
『うぷ』
受け付けなかった。仕事で疲れているからとか体質だとかそういう理由ではない。
アルコールを口にした瞬間、まざまざと過日の記憶が蘇ったのだ。
『おげぇ……!!』
弔いのつもりか? お前にそんな資格があるのか?
友人の死はイジメをしていた不良達が最大の元凶だろう。だがお前に何の罪がないとでも?
『――――苦しそうだね』
呵責に苛まれ嘔吐する丈一の耳にあどけない声が届いた。
顔を上げると小学生がにこやかな顔で自分を見下ろしていた。
『心配してくれてありがとう。おじさんは大丈夫だから早くお家に……』
『九十九丈一、十九――いや、今日で二十歳か』
『!?』
謳うように少年は丈一の来歴を語る。
その中には、
『十七歳の冬、親友がイジメを苦に自ら命を絶つ』
決して触れられたくない傷も含まれていた。
カッとなり思わず拳を振り上げる丈一だが、直ぐに力なく腕を下ろしてしまう。
『殴れば良いじゃないか。子供だから躊躇ってるのかな? いいや違う』
薄い笑顔を貼り付けたまま、
『――――あの時の後悔を引き摺っているからだ』
少年は核心に触れた。
『本当はいじめっ子達を何時でも叩きのめすことが出来た。なのにそれをしなかった』
『……』
『何故? あなたが持つ生来の善性ゆえだ』
無法には無法を。それは悪人の理屈だ。
いじめっ子達が暴力を振るっているからといって、自分も暴力に訴え出る必要はどこにもない。
彼らと同じところまで落ちぶれることはないのだと、丈一は正道を選んだ。
学校側に助けを求めたりと、道を踏み外さないやり方で戦おうとした。
――――その結果が親友の自殺だ。
友人は自殺する少し前にこんなことを言っていた。
“丈くんは凄いな。強くて正しくて。俺じゃ、到底君のようにはなれないよ”と。
自分に対する賞賛と弱気がゆえの自虐だと思った。
だから謙遜と、そんなことはないお前も十分に凄い男だと友人を励ました。
しかし、彼が死んだことで丈一は思った。己のくだらない正義感が友を追い詰めたのではないか? と。
友人は遺書を残していた。
そこに恨み言の一つでも綴られていれば丈一も少しは救われただろう。
が、そんなものはどこにもなかった。ただただ感謝のみが綴られていた。
丈一は絶望した。どうして自分を責めてくれないのだと。
『友人を死に追いやった連中はその後も素知らぬ顔で学校に通ってたらしいね。
そいつらを見て思ったんじゃない? 殺してやるってさ。実際、やろうと思えば出来たでしょ?』
その通りだ。
暴力という土俵に上がったのなら容易く、屠ることが出来た。
だが、
『でも出来なかった。そんなことをしても結局、自己満足でしかないから』
友人を救うために拳を振るわなかったのに、自分のためなら振るうのか?
そんな考えが頭をよぎり、結局丈一は何も出来なかった。
『あなたの考えは一理あると思うよ』
でもそれはそれ、これはこれだと少年は言う。
『友人を死に追いやった屑どもが今ものうのうと生きてるのは違うでしょ?』
いじめっ子達の罪と丈一の罪は分けて考えるべきだと断言した。
そして、
『だからさ、やろうよ。復讐。あなたには到底、出来ないようなやり方でそいつらに地獄を見せてやろう』
差し出された小さな手。丈一は気付けばその手を取っていた。
『まずは資金を稼がないとね』
丈一は言われるがままに貯金を全て下ろし、少年の指示通りに運用した。
グレーゾーンどころか完全に非合法な領域にまで踏み込むこともあったが、何の問題もなかった。
面白いように事は進み気付けば半年ほどで丈一の資産は数千万にまで膨れ上がっていた。
『これだけあれば十分だろう。さあ、いよいよ本番だ』
結果、いじめっ子とその家族は一人残らず地獄に叩き落された。
詐欺グループに散々に金を毟り取られた挙句、多額の借金を背負わされどこかに売り飛ばされた。
復讐を終え、少年は言った。
『気分はどう?』
『……スッキリしたよ』
惨いことをしたはずなのに罪悪感は一つもなかった。
が、
『でも……何でだろうな……終わった、終わったはずなのに……“足りない”んだ』
スッキリしたという言葉に嘘はない。
でも、埋まらない。まだ苦しい。まだ痛い。心はまだ悲鳴を上げ続けている。
『だよね』
少年は丈一を肯定した。
『俺もそうだった。姉さんを殺した糞野郎を自殺に追いやったし、その家族は今も地獄を見ている』
驚きはなかった。
聞いたことはない。それでも少年は笑っていても何時も悲しい瞳をしていたから。
きっと、自分と同じような痛みを抱えているのだと思った。
『なのに全然だ。まあ、そりゃそうだよね。価値が違う』
大切な人とそれを奪った屑ども。価値が釣り合うわけがない。
屑を山のように積み重ねたところで天秤の傾きが変わるものか。
居なくなってしまった誰かが帰って来るものか――少年の言葉は正しい。
『どうしようもない。なら、どうしようもないまま生きろって? それじゃ、あまりにも辛過ぎるよ。
死ぬことも出来やしない。死ねば“認めて”しまうことになる。仕方の無かったことだって』
少年は泣いていた。
『ふざけるなよ。認められるか。姉さんは……姉さんの死が仕方の無かったことだなんて……!
この胸の痛みがどうしようもないことだったなんて認めてたまるか!!』
血を吐くような叫び。気付けば丈一も泣いていた。
『……俺達だけじゃ、ないと思うんだ。復讐を果たしても区切りがつけられず、暗闇の中でもがいてる人はきっと大勢居る』
これが、
『――――だから、さ。俺に力を貸してくれないかな?』
九十九丈一と哀河雫の始まりだった。
2.そして最終局面へ
「…………夢か」
そんな昔のことではない。たかだか数年ほど前の話だというのに随分遠いところまで来たような気がする。
丈一は残った睡魔を振り払うように軽く頭を振り、テーブルの上にあったミネラルウォーターを口にした。
乾いた身体に染み込む水分が疲れた心身を優しく包み込む。
雫と共同で全体の指揮を執りながら丈一もまた襲撃に加わっているのだ。その疲れはかなりのものだろう。
力のない者なら指揮だけに専念出来るのだろうが、丈一はルーザーズにおいて二番目の戦力だ。遊ばせておく余裕はない。
今もこうして隠れ家の一つで休息を取っているが、一時間もすればまた出なければいけない。
「考え事をする暇もないな……」
あるいは、それも雫の目論見なのだろう。
ケジメのつけ方はあの日あの時、雫の手を取った時に決めたことだ。
雫からすれば今更それを覆せないのも分かる。
「……でも、俺はお前に生きていて欲しいよ」
普通の人間でも時間を共にしていればそれなりに愛着が沸くのだ。
同じ痛みを知る輩なら尚更だろう。丈一にとっては逝ってしまった親友と同じぐらい雫は大切な存在になっていた。
「そうするしかないのだとしても」
納得出来ない。しかし、何も出来ない。
既成事実を作り上げて自分が全て泥を被る策はあっさり失敗してしまった。
丈一からすれば乾坤一擲の手だった。直ぐにそれ以上のものが思いつくわけがない。
どうすれば良いのだと懊悩していると、
「ああ、目が覚めたんだ。おはよう」
「……雫か」
目の下に薄い隈を作った雫が部屋の中に入って来た。どうやら今の今まで働いていたらしい。
雫自身が前線に出張ることは今のところ殆どないが、その分指揮や後方支援などである意味誰よりも忙しくしている。
市内全域の不良を相手取って一方的に殴り続けられているのは雫の手腕あってこそだ。
「それより丈」
「うん?」
「――――“そろそろ”限界だ」
「……まだ、四日だぞ?」
限界、というのは終わりが近付いて来たということだ。
一方的な攻勢が出来なくなってもしばらくは粘れるはずだと丈一は問う。
彼からすれば少しでも長く終わりを先延ばしにしたいからだ。
「存外、敵も厄介だってことさ。有象無象の不良ならともかく名のある連中が特に面倒だ」
螺旋怪談の烏丸。秤大我、骨喰龍也、元三代目悪童七人隊の土方隼人に市村光輝。
指折り数えながら挙げていく名前は丈一も知っていた。
Reをばら撒き始める時、彼らに露呈しないよう事を進めていくようキツク言われていたから。
「そして塵狼――――白幽鬼姫こと花咲笑顔だ。彼が一番、厄介だ」
何せ同類だからねと雫は笑う。
「塵狼全体で動いてるってわけじゃないが南くん以外の四天王を使ってちょこちょこ、こっちの邪魔をして来る」
ルーザーズがこれまで戦況を優位に進められたのは常に先手を取り続けて来たからだ。
ゆえにその流れを塞き止められてしまえば後はじわりじわりと潰されるだけ。
ゴリ押しで流れを止める堰を壊すのは不可能だと雫は言う。
「有象無象ならともかく彼ら相手にゴリ押しで事を進めようとしてもこっちが消耗するだけで成果は望めない」
「……」
「だから、彼らが対応し切る前に新たな手を打つ」
最終段階への移行だ。
「まずは足並みを乱そう」
「……仕掛けるのか?」
「うん、塵狼を孤立させる」
これまで塵狼や螺旋怪談には襲撃を仕掛けていなかった。
やったところで成果と損害が釣り合わないからだ。しかし、最終局面に移行するのであれば話は別だ。
「南くんとの出会いは偶然だったけれど、彼なら……彼らなら……ふふ」
雫は笑う。
「花咲くんは俺が最終的に命を絶つことまでは言ってないだろう。
精々、無惨に食い荒らされて終わりって程度だと思う。なら南くんは動くはずだ。南くんが動けば塵狼も動く」
「……高梨南は花咲笑顔の親友だろう? 関わらせようとするか?」
友達が目の前で死ぬところを見せるとは思えない。
丈一の指摘は尤もだが、
「するよ。花咲くんはね。俺と同類ではあるが堕ち切っちゃいないからね」
覚悟を決めた南ならば自分を止められるかもしれない。
僅かな希望であろうとも笑顔はそこに賭けるだろうと雫は言う。
「花咲くんは自分に持っていないものを過大評価してる節がある。
ああ、俺も綺麗なものは確かに綺麗だと思うよ。自分にはない輝きを眩いと思うさ。
でも彼のように殊更、神聖視するつもりはない。南くんのことは心底から好きだし認めちゃいるけど、だからって俺が決めた終わりを覆すほどじゃない」
南ならばという期待を抱く笑顔の弱さにつけ込む。
塵狼がルーザーズを庇うような立ち位置に回れば、状況はこの上なくカオスになるだろう。
最終決戦に相応しい舞台が整えられそうだと雫は笑う。
「だから、さ」
雫は真っ直ぐ丈一を見つめ、言う。
「丈も、覚悟を決めてくれ。俺を想うなら……俺を最後まで全うさせてよ」
「雫……」
あの日、あの時から始まった無明の道行き。
復讐を代行し、そこで救われた人が居た。そこでは終われず旅に加わった人が居た。
本当は市内を足掛かりにしてもっと先へ進むはずだったが躓いてしまったものはしょうがない。ここが自分達の終着点だったのだと雫は語る。
「俺達が始めたことなんだ。俺達で終わらせなきゃダメだろう」
長い長い沈黙と葛藤の末、
「……そう、だな」
丈一は頷いた。迷いが消えたわけではない。
それでも、もう止められないと分かってしまったから。
「ありがと。君に出会えて本当に良かった」
「……こちらこそ、ありがとう。お前に出会えて本当に良かったよ」