命の別名②
1.カレーだけなら……カレーだけなら何とかなるんだが……
「しっ……!!」
短い呼吸音とサンドバッグを叩く音だけがガレージの中に響き渡る。
早朝から迷惑なことを……なんて心配はご無用。
このガレージは親父が従業員と飲み会をする時に使うために改造してあり防音設備もバッチリなのだ。空調も完備である。
(……こんなんじゃダメだ)
アイツの――ニコの拳はこんなもんじゃない。
ニコの拳はもっと速い。ニコの拳はもっと鋭い。ニコの拳はもっと重い。
傍目にはサンドバッグを殴る音が景気良く聞こえるかもしれないが、俺からすれば虚しいなんてもんじゃない。
(もっと、もっと……!)
別にニコに勝ちたいとかそういうわけじゃない。
いや、そういう気持ちがないと言えば嘘になるが決着はもうついているのだ。
ニコはそうとは認めないが他ならぬ俺が認めているのだからあれは俺の敗北である。
リベンジしたくはあるが本気で俺がそれを望み、アイツがそれを受けない限りはやり合う理由はない。
なら何だってこんなことをしているのかって?
大きな理由としては二つ。一つ目は置いて行かれたくないっていう男の意地だ。
五月に出会ってからこっち、幾度かニコの大きな喧嘩を目にした。
最初は黒狗――梅津との一戦。このあたりまではまだその背中をそう遠く感じることはなかった。
(だが、金角とのタイマン)
本人は読み勝ち。上手く嵌まっただけなどと言っているし、実際そういう部分もあるんだろう。
だがあの瞬殺劇はそれを差し引いても背筋に冷たいものが走る一戦だった。
これまでそう遠くない場所に居たアイツとの距離が分からなくなったのはまず間違いなくこの時だろう。
次はジョンとのタイマン。あれはあの馬鹿がニコをキレさせたってのを加味しても圧倒的だった。
(俺がやった狂騒の頭もそう)
作戦のために俺が相手取ることになったがニコがやっていたらどうなっていた?
雑魚みたいにワンパンで沈めるってことは……流石に無理だとは思う。
だがもっと早く、そして無傷で勝っていたんじゃないか? そういう思いがあった。
それを証明するのが三代目悪童七人隊総長、土方との大将同士のタイマンだ。
(……今思い出してもゾクゾクする)
結果だけを見るなら中学生に負けた高校生ってことになる。
だが、あのタイマンを見ていた奴なら土方が弱いなんて口が裂けても言えないだろう。
土方は強かった。大将戦の前座を務めた獅子口さん、あの人もアホみたいに強かったが仮に土方とやり合っていれば……負けていたと思う。
それだけの男を相手にニコは一歩も引かず戦い、勝利を掴み取ってみせたのだ。
俺達四天王も他のチームの人らに中坊のレベルじゃねえとは言われたがニコは別格だ。
今はまだ完全にその背を見失っちゃいないが足踏みしてたらあっという間に置いて行かれるだろう。
(そんなのは御免だ!!)
一際強く、サンドバッグを打ち抜く。
そしてもう一つ――理由としてはこれが、一番大きいと思う。
(……“もしも”ニコが止まれなくなった時、一体誰が止めてやる?)
土方にはニコが居た。じゃあ、ニコには?
出会った時から……アイツは何て言うか、仄暗いものを抱えていた。
最初は輪郭も曖昧で、漠然としたものでしかなかったが仲良くなるにつれ、その危うさが見えて来た。
(アイツは――花咲笑顔って人間は心底、自分のことをどうでも良いと思ってる)
自分が嫌いならばまだ救いはある。八朔が良い例だろう。
アイツは弱い自分が嫌いで、少しでも自分を好きになりたくて、強くなりたいと願った。
嫌いな部分を克服出来れば自分を好きになれるんだ。だが、どうでも良いと思っている奴は……どうしたら良い?
好きでもなくて嫌いでもない。自己嫌悪でも怒りでもなくどこまでも平坦に自分を無価値だと評価してる人間をどう変えてやれば良いんだ?
(痛みに無頓着なのもそのせいだろうな)
言うてニコも人間だ。ダメージによって物理的に身体の動きが鈍ることは当然、ある。
しかし痛みそのもので鈍ることはまずない。
そりゃ喧嘩の最中は脳内麻薬ドバドバで多少、痛みを感じ難くなるってことはあるさ。
だが完全に痛みがなくなるわけではないし魔法が解けたら全身が酷く痛む。
心が痛みを恐れ動きが鈍くなるのは自然なことだ。それを情けないなどとは思わない。
しかし、ニコは違う。
例えばそう。拳だ。拳が砕けていたとしよう。その状態で思いっきりパンチを打てる人間がどれだけ居る?
痛覚がないならまだしも普通に痛みを感じる人間でそこまでやれる奴は稀だろう。そしてニコは稀な人間の部類に入る。
その理由も覚悟を決めているとかなら理解出来なくはないがニコの場合は痛みや損傷を度外視しているからだ。
テツが少し前にニコにこんな問いを投げた。
『ニコちんさぁ。ひょっとして痛みを感じてないの?』
『いや普通に痛覚はあるけど?』
『じゃあ何だってあんなに動けるわけ? ジョンの時とか全然怯んでなかったじゃん。根性がどうとかのレベルじゃないでしょ』
『身体の痛みぐらい何てことはないからかな』
ニコの答えがこれだった。
痛みなんてどうってことはない。ああ、そうだろうな。
我が身可愛さが欠片もない人間にとっちゃ自分が壊れようが何だろうが知ったこっちゃねえわな。
自分の身体がどうなろうと知ったことじゃないから平気で痛みを無視出来る。
(……これで他人にも無関心だってんならまだマシなんだが)
自分にも他人にも興味がない。それならまだそこまで危うくはないが残念ながらそうじゃない。
アイツは愛想のあの字もないように見えるが、その実かなり情に厚い。
直近の例で言えば八朔が良い例だろう。
そりゃ八朔の境遇は同情に値するかもしれねえがよ。ニコにとっては関わる理由なんて皆無だ。
なのにあそこまで世話を焼いたのだ。これを情に厚いと言わず何と言う?
情の厚さと自分への無関心が合わさりニコの危うさが顕著に示されたのが……あの子の一件だろう。
(ノーパンちゃん――枯華涙だったか)
傍から見ていて一番、危ういと思ったのはあの子に関わっていた時だ。
何も聞かずに力を貸してくれ。そう言われて俺達は二つ返事で了承した。
そこに嘘はない。調べろと言われたことだけを調べ、それ以上の詮索はしなかった。
だがうっすらとロクでもない事情が透けて見えるのは仕方ないことだろう。
(……多分、ニコはあそこでかなり危ない橋を渡ったはずだ)
俺らにゃ想像もつかないが、やばいことをしたであろうってのは察しがつく。
アイツのことだ。俺らや家族には迷惑がかからないように……自分だけが泥を被るように立ち回っていたのだろう。
(自分のことはどうでも良いのに誰かのためならどこまでも身を削れちまう。どんな汚名悪名でも被れちまう)
俺が一番、危惧しているのはそこだ。
誰かのために致命的な暴走を始めてしまった時、一体誰がアイツを止めてやれる?
俺らしか居ないだろ。だが、そのためには……足りない。笑っちまうほど力が足りない。
その暴走を止めるだけの力が、俺達にはないのだ。だから、強くなりたい。強くならなきゃいけない。
ニコが土方を止めたように、俺もいざって時アイツの暴走を止めてやるために。
(……いや、本人からすりゃ暴走でも何でもないか)
ただただやるべきと思ったことをしているだけだろうしな。
ともかくだ。そんな理由で鍛えてるんだが……今んとこ目に見えるような成果が出てねえのが現実だ。
(ま、だからって諦めるつもりは更々ねえが……!!)
全力の蹴り。かんなり良い音がしたけどニコや、あの時丘野さんが見せたような蹴りには程遠い。
と、そんなことを考えていたらだ。
「――――朝っぱらから精が出るじゃねえの」
入り口の方に目を向けると扉に背を預けた親父が煙草をくゆらせながらこちらを見ていた。
どうやら集中し過ぎて親父が入って来たことにも気付かなかったらしい。ま、それはそれとしてだ。
「……親父、パンツ一丁で出歩くの止めろって。またお袋に叱られんぞ」
「るっせーなぁ。これが男の正式な寝巻きじゃろがい」
などと言っているが単に面倒臭いだけである。
寝巻きつってもシャツとジャージぐれえなんだし面倒がるなよな。
親父曰く、仕事じゃ細かいミスが許されないからその反動だとのことだが……ホントかねえ。
「しかし何だ。夏休みぐれえから毎朝毎朝やってるが……あれか、やっぱ性欲解消?」
「何をどうしてその結論に至った」
「いや俺もおめえぐらいの頃はよぉ。猿もかくやってぐらいだったからな。おめえはええかっこしいだから身体動かして発散してんのかなって」
「テメェ……マジで一発ぶん殴るぞ」
そこは素直に強くなりたくて頑張ってるでええじゃろがい。
何でそんな捻くれた――いや、馬鹿な結論に達するんだよ。
「じゃあ何かい? 強くなりたくて? バトル漫画のキャラかよっつーね」
「るっせえわ」
「やっぱアレか。噂のニコくん? に負けられねえってアレ?」
「……まあ、そんなとこだよ」
「へー、ほー、男の子だねえ」
ニヤニヤしてる親父が心底うざい。
が、口で喧嘩しても負けるのは分かってるので鍛錬に戻る。
「つーかおめー、いい加減ニコくん連れて来いや。俺だけじゃねえか会ってねえの」
「連れて来た時に限ってテメェが居ねえんだろうが」
こっち来る時は大体、秘密基地だが家に連れて来たことがないわけではない。
お袋とは既に会ってるし、何ならうちで働いてる従業員の人らとも何人かは顔を合わせている。
「俺が居る時に連れて来いって言ってんの。話だけ聞いてるから滅茶苦茶気になるじゃねえか」
冗談みたいな美形。イケメンオーラで目が潰れる。あの子が歩いた後、空気が綺麗になった気がする。
とか色々言われてるもんな。流石に後者二つはアホだと思うが。
親父に茶々を入れられながら時間ギリギリまで鍛錬を続けた。
シャワーを浴びて汗を流し、居間に行くと既に朝食が用意されていたのだが……。
「……お袋、朝からカレー。それもカツカレーはキツクねえ……?」
夕飯の残りじゃんこれ。いや夕飯の残りを朝にってのは別に良いけどさ。
カレーだけでもキツイのにそこにカツもってなるとキツイっすよ。
「何よ。朝からカレーパン食べる人も居るじゃない」
「いや居るけどライスとパンでは重さ違うくね?」
「違わないわ。大丈夫大丈夫。南は若いんだからいけるいける」
「……南はそうかもしれねえけどよぉ。母ちゃん、おら立派な中年なんだが」
「あんたも毎日身体動かしてるからまだまだ若いわよ」
「……どうしよう。若いって言われたのに全然嬉しくねえ」
と言いつつもこれ以上、何か言うとお袋キレちゃうからな。
俺と親父は大人しくカツカレーに手をつけ始めた。
(カレーだけなら……カレーだけなら何とかなるんだが……)
カツが、朝から揚げ物はキツイ。
昨日の時点で気付くべきだったわ。カツカレーつっても普通はカツワンセットじゃん? ツーセットも入ってたんだもん。
何か良いことでもあったのかと思ってたがこれはあれだ、多分揚げ過ぎたんだろう。
何か良いことあって気分が良くなったからそのテンションでついやっちゃったと見た。
「ううむ」
親父がスポーツ新聞を見ながら唸っている。
分かるよ。この時期になるとどうしてもなぁ。贔屓の球団がよ。優勝争いとは無縁なのって地味にキツイ。
いや、負けることが悪いとは言ってねえよ? そりゃファンとしては勝って欲しいけど……全力で頑張ってる姿にこそ胸打たれるわけで?
そういう意味じゃ十分、熱いものは貰ってるけどそれでも……って複雑な気持ちになるのはしょうがない。
(しかしあれだな。野球のこと考えてたら野球したくなって来た)
こないだの集会は一発芸大会だったが、今度は野球大会を提案してみようか。
そこそこ人数居るしトーナメント形式も出来そうだしな。
時間的な問題で複数回に渡っての開催になるだろうが、まあ問題なかろう。
普通のチームなら集会で何やってんだって話になるがうちは自由なのが売りだからな。
乗せることさえ出来りゃ野球大会も夢ではないだろう。
「うっぷ……ごっそさん」
「はいおそまつさまでした」
一服しようかと思ったところで、
「おーい! タッカミナー!!」
テツの声が聞こえて来たので時計を見ると、何時の間にか登校時間ギリギリになっていた。
お袋から弁当を受け取り鞄に突っ込み、俺はいそいそと家を出た。
「おはよう。何か朝からしんどそうだな」
「おぉ……朝飯がカツカレーでな。結構、いっぱいいっぱいなんだわ」
「朝からヘビーだね~」
「ヘビーと言えば確か、今日って小テストじゃなかったか?」
「うっへ、マジかよ……」
今日は厄日だ……。