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ネオメロドラマティック③

1.死んだよ


『――――本当に愛しているなら(おまえ)を傷付けるものかよ』


 あの夜だ。あの夜を境に私の全てがおかしくなってしまった。

 どうやって帰ったか覚えていない。ただあの蒼い瞳から逃げるように夜を駆け抜けたことだけは覚えている。


『おかえり涙。さあ、おいで』


 パパは何時も通りのパパだった。変わらない。何一つ変わらずわたしを大好きだって。

 安らぎと充足をくれる掛け替えのない時間はどうして……。

 仕事があるからとパパが居なくなったベッドで一人、私はぼんやりと天井を眺めていた。

 その時だ、


『どうしたの? 随分と浮かない顔をしているじゃないか』


 聞こえるはずのない声が聞こえた。


『! な、何で……どうしてあなたがここにいるの!?』


 ベッドの淵に彼が座っていた。

 こちらを見て無表情で私を嗤っている。


『どうしても何も。居ないよ。花咲笑顔なんてどこにも居ない。君が勝手に俺を見ているだけ。君が勝手に俺の声を聞いてるだけ』


 何を言っているかが分からない。

 痛む頭で近くにあった物を投げるけどすり抜けるばかりでまるで効果はなかった。


『まあ俺のことより君だよ君。で、どうしたことだいその面は? 愛する人との語らいが終わった後の女がする顔じゃないよ』

『……うるさい』

『おぉ、怖い怖い』


 あの日、天使(あくま)が私に取り憑いた。


『四六時中カリカリしてて落ち着く時と言えば夢も見ないぐらい深く眠る時だけ。

でもそれにしたって毎日じゃない。二、三時間で飛び起きちゃう。情緒不安定で寝不足。心身共にざりざりと鑢で削られているようなものだ』


 家の中、学校、ファストフード店、道端、天使さんはどこに行くにも着いて来る。決して私から離れてくれやしない。

 片時も休まず私を苛むのだ。


『そんな状態の我が子を見ても何も気付かない親に愛情なんかあるのかい?』

『……うるさい。パパに心配をかけないように私が上手く隠してるの。パパは、ちょっと抜けたところがあるから』

『いいや違うね』


 反応しなければ良い。それは私にも分かっている。

 分かっているけれど何時だってあの天使さんは私が無視出来ないようなことばかり言うのだ。


『我が子が苦しんでいたらどれだけ取り繕っても見抜く――――……それが本当の親ってものさ』


 ノイズが酷い。頭の中をずっとノイズが響き続けている。

 なのに天使の声だけはよく聞こえて。これはきっと、地獄というものなのだと思った。


『君の悪い癖(よるのさんぽ)もそう。親なら夜中に年頃の娘を一人歩きなんてさせやしないよ』


 私は生きながらに地獄の只中に居る。


「……」


 星を仰ぐ。小さい時から夜空に輝くあの光に惹かれていた。

 星に一番近い場所を探したあの日の思い出も今は遠く、無性に涙が出そうだった。


「?」


 星月夜に溺れて一番深い場所に沈んでしまえば――そんな私の思考を遮るようにデッキの扉が開かれた。

 現れたのは天使さんだった。おかしい。さっきまで隣に居たはずの彼がどうして?


「こんばんはお嬢さん。良い夜だね?」

「……何言ってるの天使(あくま)さん? さっきからずっとそこに居たのに」


 私の言葉に怪訝そうな顔をした天使さんは深々と溜息を吐いた。


「良い具合にキマってるらしい。ルイ、君と会ったのはこれで三度目だよ」

「何を」

「俺の幻覚を見てたの? 肖像権もクソもありゃしない。勘弁してくれ」


 げんなりとした顔の天使さん。こんな表情(かお)、見たことない。


「幻覚? うそつき。天使さんはいつも私をイジメてたもん」

「じゃあ別人だ。君の傍に居る天使さんは俺とよく似た別人」

「そんなの……」

「大体さ、俺が君をイジメる理由なんてある?」

「それは、だって」


 小さく肩を竦める天使さん。


「前のはちょっと苛立ってたからだ。そんな時に舐めたこと抜かすもんだから大人気なくやっちゃっただけ」


 喉元過ぎれば何とやら。

 一時間もしない内に私のことなんて“どうでもよくなった”と彼は言う。

 私の目にはそれは本当のことのように思えた。


「なら、何で」

「君を見かけたもんでね」


 くい、と顎で眼下を示す。

 少し離れた場所では五人組が何やらわちゃわちゃしていた。


「あの銀髪の――確か、何かいきなり暴れ始めた変なひと」


 覚えている。あの夜に出会った男の子。

 いきなり天使さんに襲い掛かった変質者。何でこんなところに居るんだろう。


「変……いやまあ、うん。君からすれば変な奴だけどさぁ」

「あの人がどうしたの?」

「いや分からないなら別に良いよ」


 それよりも、と天使さんは呆れたように私を見る。


「感心しないな。こんな時間に女の子の一人歩きは危ないよ」

「――ッ」

「……?」


 間違いない、別人だ。天使さんはこんなことを言うはずがないのだから。


「いや、説教は違うな。あー……どうも気まずくていけないや」

「???」

「謝りに来たんだよ」

「あやまる? 何で?」

「さっき言ったでしょ? 大人気なくってね。ムカつくことを言われたからって無遠慮に他人の心を踏み荒らすべきじゃなかった」


 本当にごめん。

 そう言って天使さん――は違うんだっけ。なら、何だろう? 笑顔くん? 笑顔くんは深々と頭を下げた。

 正直、私は困惑していた。でも、謝りたいと言うのなら……。


「謝らなくて良いよ。かわりに、聞かせて?」

「何を?」

「その……何で笑顔くんはわたしがパパとそういう、そのカンケイだって分かったの?」

「……そういうカンケイ、ね」


 笑顔くんは瞳を閉じて黙り込んだ。

 何かを堪えるように、ここではないどこかに思いを馳せるように。

 そうして五分ほど経ったかな。彼はゆっくりと口を開いた。


「――――君と似た(ヒト)を知っていたから」


 そこにどんな感情が込められているかは窺い知れない。

 それでも、確かなことがある。笑顔くんはきっとその人を大切に思っているのだろう。


「もっとも、あの女の場合は父親ではなく伯父か叔父だったけど」


 食べる? と彼が差し出したのは可愛らしい包装に包まれた苺ミルクキャンディだった。

 私はこくんと頷きキャンディを受け取って口の中に放り込んだ。甘い。優しくて、不思議と悲しい甘さだ。


「紛うことなき糞野郎さ。どこに出しても恥ずかしい真性の屑。生きてるのか死んでいるのか」


 八年前の時点では生きていたが今もそうなら……そこまで口にして笑顔くんはゆるゆると首を横に振った。

 今、何を考えているかは分からないけど――この一瞬、私は言いようのない恐怖を感じた。


「今はどうでも良いね。まあ、そんなだからさ。分かるんだよ」

「分かる?」

「君がこれからどうなるか。だから侘びも兼ねて忠告させてもらうよ」


 父親から離れろ。静かにそう告げた。


「関係のないあなたが口を挟まないで。私達は愛し合って……」

「まだ間に合う」


 声を荒げているわけではない。むしろ無味乾燥と言っても良いぐらい淡々としていた。

 しかしそこには有無を言わせない迫力があって私は二の句を告げなかった。


「今はまだ父親だけで済んでいるが……君の様子を見るに、そう遠くない内に次が来る」

「次?」

「他の男に君を売る」

「ありえない!!!!」


 気付けば声を張り上げていた。

 離れた場所で何やら木の棒を投げていた男の子達がギョっとしてこちらを見上げているがそんなことは気にもならなかった。


「わ、わたしは……わたしとパパは愛し……ッ」

「金か、それ以外のものでか。薄汚い打算の下に君を、売る。確実にね」


 その表情を見て、あれだけ荒ぶっていた感情が一瞬で鎮火した。

 笑顔くんはポケットから煙草を取り出し、口に咥え火を点けながら続ける。


「今が分水嶺だ。君という人間の未来を決める、ね。まだ取り返しはつく。でも先に進めば」


 そこで言葉を止め、深々と煙を吐き出した。

 その蒼い瞳は夜に溶けていく紫煙の向こうに何を見ているんだろう。


「女の話をしよう」


 まるで子供に絵本を読み聞かせるような優しい声色だった。


「腐った大人から受けた陵辱は少女の秘められていた魔性を開花させた」

「……」

「淫蕩で、傲岸で、醜悪で、なのにどんな男も女を求めた。甘い花の蜜に群がる蟲のように」


 その性を花開かせた男ですら手がつけられないほどの“雌性”。

 女に耐性のない男なら見ただけで達するかも、と冗談のようなことを言う。


「だが誰にでも抱かせはしない。女は知っていた。自分の価値を。

だから、選んだ。男を、自分に貢がせる価値のある客を。伝説さ、淫らでおぞましい伝説。

女の客だった男はどいつもこいつも大物ばかり。それこそ何かあれば各社が一面を飾るようなレベルのね」


 ……それはわたしには理解出来ない生き方だ。

 語られる“女”はわたしとは対極の位置に居る人種だと断言出来る。

 それでも、一人の女としてわたしは思った。


「すごいのね……!?」


 ひやり、と首筋と心臓に怖気が走った。

 いま、見えたものは何だろう? 自分の首が飛んでいた。胸に大きな穴が開いていた。

 キョロキョロと周囲を見渡すけど、何もない。


「君は、馬鹿だなぁ」

「ば、ばかって……バカじゃないもん! わ、わたしお勉強だって出来るんだから!!」


 そう抗議すると呆れたように溜息を吐かれた。


「君は人殺しがとっても上手だね」

「え」

「そう言われて素直に喜べる人間がどれだけ居る?」


 世の中にはあるのだ。花開くべきではない才能というものが。

 えてしてそういうものはその人を不幸にする。淡々と、そう言った。


「話を戻そう。ある意味で女として栄華を極めたと言っても良い彼女だけど」


 少しの沈黙。そして、


「君も女の子なら知ってるだろう――――シンデレラの魔法は永遠じゃないんだ」


 泣きそうな顔で言った。


「悪い魔法使いのせいでそうなってしまい、硝子の靴も持っていなかったシンデレラの末路は悲惨だ」

「……どうなったの?」

「死んだよ」


 息を呑んだ。


「何もかもを憎んで、何もかもを儚んで、何もかもを羨んで、何もかもを諦めて」


 透明な雫が、


「死んでしまった。死んでしまったんだよ」


 頬を伝った。


「“意味”のある死なんて本当はどこにもありはしないのかもしれない。でも生きる者がそこに“意味”を見出すことは出来る」


 流れるそれを拭うこともなく彼は語る。“女”の話を。


「それが儚い幻想(ゆめ)なのだとしても、その死に何かが見えたのならきっとそれは“意味”のある命だったんだと俺は思う」

「……」

「でもあの(ヒト)のそれは違った。生きる者に幻想を抱く余地さえくれず何もかもを抱えて独り暗い場所(ところ)に堕ちていった」


 どう言い繕うことも出来やしない。本当に“無意味”な死だった。残ったものは何もありはしない。

 祈りは届かず、虚空に溶けて消えていく――そこまで告げて彼は小さく息を吐いた。


「女の話はこれで終わりだ」


 何となく、予想がついている。それでも聞かずにはいられなかった。

 二本目の煙草を取り出し火を点けようとしている笑顔くんに私は問うた。


「……その(ヒト)と笑顔くんはどんな関係だったの?」

「母親さ。血を分けた最初の」


 ……あぁ、やっぱり、そうなんだ。


「この話を聞いて君がどうするかは分からないけれど」

「……」

「報われないシンデレラなんて、俺は嫌いだな」


 空気を入れ替えるように笑顔くんは煙草を吹かしわたしに言った。


「さて、もう良い時間だ。家まで送るよ」

「……いい。ひとりで、ちゃんとおうちにかえれるから」

「そっか。なら帰りな。最初にも言ったけどこんな時間に女の子が出歩くのは良くないことだから」


 わたしは天文台を降りて公園を後にする。

 家までは結構な距離があったけれど、考え事をしていたらあっという間だった。

 家の前まで辿り着いて、家の中に灯りが見えて足が止まる。

 それでもここでこうしていたって何も始まらない。わたしは玄関を開け家の中へ入った。


「ん? 涙か。おかえり」

「た、ただいま」


 テーブルの上にはおつまみと、お酒。

 今日は“ない”。それが分かって、どうしてかわたしはホッとした。


「ああちょっと待って」


 部屋に行こうとする私をパパが呼び止める。


「どうしたの?」

「実はね。パパのお友達に涙のことを話したら是非“会ってみたい”と言われてね」

「――――」

「その人達はパパの大切な“お友達”なんだ。涙が頑張ってくれればパパの会社はもっと大きくなるんだ」


 めのまえがまっくらになった。


「さあ、パパを助けておくれ」


 天使さんは、どこにもみえない。

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