そして患う人は手を取る。
マリアンヌ・エドワーズ。
今は滅多に呼ばれることの無い…私の名だ。
昔は私の名を呼んでくれる人がいた。
「マリア」と唯一私を呼んでくれた、愛しい人。
私は今年で十六歳になる。誕生日を過ぎれば私はすぐに隣国の伯爵家へ嫁ぐことになる。
相手の人には未だ会ったこともない。ただ、私よりも二十は上のその方は、既に一度妻を亡くしていると聞いた。理由を父上からは語られなかったけれど、悪い噂だけは家の中からよく耳に届いた。
過労、暴力、本妻虐め…どれも聞くだけで身の毛がよだったが、いつからか何も感じなくなった。
どうせ、産まれる必要のなかった命なのだから。
優秀な姉が二人、既に名のある名家へ嫁ぐ事が決まっている。
父上も母上もそれに満足し、幼い頃からも姉の褒め言葉ばかりを耳にしてきた。
身体が弱かったのは九歳の頃までだった。それからは姉と同じように学び、教養を身につけてきた。…ただ、父上の望む値には届かなかった。姉よりも全て始めるのが遅かった私には、何もかもが遅すぎた。そのまま身体が今も弱いことにされ、療養という名目で隅の部屋へと追いやられてしまった。最初の頃は泣いてばかりだったけれど、すぐに諦めもついた。きっと私は結婚する為の道具として産まれてきたのだと、割り切ってしまえば。
「…ジル。」
窓の外を眺め、愛しい人の名を呟く。
あの時、この世で最も美しい景色を見せてくれた人。
その日が過ぎることばかりが日常だった私に〝次〟をくれた人。
私に、初めて恋を…愛をくれた人。
四年前、特殊能力を打ち明けてくれた彼は私を迎えに行くと約束をしてからは姿を現さなかった。
結婚相手から逃げないようにと父上が警備を私の部屋の周りに増やしてからも、いつ彼が戻ってきてもわかるように窓の外を眺め続けることだけが日課だった。
我が屋敷の裏の小道。彼に初めて出会った日は今でもよく覚えている。
…私のことを忘れてても良い。それでも、せめてどうか彼が私の分、幸せでいてくれれば…それで。
「いやいや、光栄です。まさか噂に名高い宰相殿が訪ねてきて下さるなど。」
部屋の上から父上の声が聞こえる。余程ご機嫌なのだろう。あの方角の部屋を使っているということはかなりの上客に違いない。
〝宰相〟の噂なら私も使用人や姉の会話から聞いたことがあった。加齢の為、その座を自ら退いた前宰相。その任を引き継いだのが、まだ城で働き始めて一年しか経っていない特殊能力者だという噂だ。他の候補者達を遥かに凌駕した頭脳を持つ天才。城の中でも既に信頼が厚く、現女王や次期王配にも一目を置かれているという。
「ええ、是非とも。宰相殿との交際ならば私共としても嬉しい限りです。交際と言わず、是非婚約を。長女のアニーか、いえ宰相殿の齢でしたら次女のメアリーが…」
アニーお姉様もメアリーお姉様も、私より立派な婚約者が既にいる。でもその婚約を断ってでも国でかなりの権力と王族との人脈を持つ宰相との婚姻は価値があるものなのだろう。
「⁉︎さ…三女…?もしやマリアンヌのことでしょうか。いえ、確かにおりますが宰相殿がお気に召すか…」
突然、私の名が聞こえ思わず天井を見上げた。何故、宰相が私のことを。私の名は隠されないまでも家から話題に出ることなど決して無い上、公にされることなど殆どなかった。
そう考えを巡らせているのも束の間に、父上の「今からですか⁈少々お待ちを‼︎」という声と共にドタドタと騒がしい足音が響いてきた。そのまま勢いよく扉が開かれ、父上が数人の使用人を引き連れて飛び込んできた。使用人達が急いで豪奢なドレスを持ち込み、父上が「今すぐ着替えなさい」と命じ、その間にも化粧道具や様々な物が私の目の前に用意され始めた。
訳もわからず説明を求めようとした時、父上の背後からもう一つの足音が聞こえてきた。
「構いませんよ、エドワーズ卿。」
その懐かしい声を聞いた途端に耳を疑った。
今まで四年間、忘れた事のなかった声だった。その人が入ってきたことに気づき、使用人が私を着替えさせようとする手を止める。父上が驚いた顔をして振り返っていた。
「それに、彼女は例え着の身着のままでも美しい。」
その姿が信じられず、今度は目を疑った。涙で視界がぼやけて彼の姿がはっきりと見えなくなった。それでも、綺麗な薄水色の髪とその顔はどうみても…
『必ず迎えに行く…!君が十六歳になる前に、必ず。』
何度も思い返し続けた四年前の彼の言葉を鮮明に思い出す。
彼は、言っていた。私���迎えに来ると、確かに。
『この特殊能力で、必ず城の上層部になってみせる。…そして、マリア。君を迎えに行く。』
無理だと…思っていた。たった四年では不可能だと。城で働くことができたとしても、上層部になるのだなんてと。でも、彼のその気持ちが、言葉が、あの時泣きたくなるほど嬉しかった。
彼は穏やかな笑みを浮かべ、伯爵である父上の横に堂々と並び、優雅に私へ礼をした。
「お初にお目にかかります、マリアンヌ・エドワーズ殿。私はこの国の宰相を務めさせて頂いておりますジルベール・バトラーと申します。…どうぞ、ジルとお呼び下さい。」
覚えのある切れ長な目が優しく私を捉える。
本当に、迎えにきてくれた…あの時からまだたった四年しか経っていないのに。
その為にどれほど努力をして、どれほど辛い想いをしたのだろう。
ずっと、私のことを忘れないでいてくれた。それだけでもこんなに、こんなに嬉しいのに。
「突然で申し訳ありません。ですが、もし宜しければ是非とも私と婚約を。…必ず貴方を幸せにしてみせます。」
そう言って差し伸べられた手に、涙が止まらなかった。必死に笑みを作りながらも唇は震え、喉も小さくしゃくりあげていた。
それでも。私は彼に応えるべく、涙で掠れた声で答えた。
「…マリアンヌ・エドワーズと…申します…っ。…マリアと…お呼び下さい。…っ、…喜んでっ…お受け…致しますっ…。……………ジル…。」
震える手で彼の手を取った。優しく包み返してくれたその温度に、その感触に。
このまま世界が終わってしまっても良いと本気で思えた。
そして、こうも思えた。
私は、この人に出会うためだけに産まれてきたのだと。