57.冷酷王女は話す。
「…っ、…マリア…駄目だ、駄目だ…っ、…お願いだ…」
視界が変わった瞬間、目に移ったのは真っ白なベッドで眠っている綺麗な女性と、その手を握り締め泣き噦るジルベール宰相の姿だった。泣き腫らした目は既に赤くなり、握りしめた彼女の手を自分の胸へ押し当て、背中を丸め、肩を酷く震わせていた。ベッドの端には看病用の従者だろうか。三人の女性が並び、辛そうに顔を背けている。
ベッドで眠る女性をまるで悼むかのように。
とても、綺麗な人だった。薄桃色の髪を流し、開いたままぼんやり宙を泳ぐ瞳は透き通った髪と同じ色をしている。
ただ、その姿はあまりにも酷いものだった。
手足が力無く垂れているのに反し、息をする胸や肺部分だけが苦しそうに細かく上下している。肌が白い人だけれど、それ以上に血色が悪さが感じられた。既に酸欠すら起こしているのかもしれない。唇が何か言おうと動いているが、もうそれすらも難しいようだった。
「プライド様…これは。」
アーサーが茫然としてマリアンヌさんとジルベール宰相を見つめている。
「ジルベールとその婚約者だ。」
背後から声がしたと思えばステイルがいた。私達を瞬間移動してくれた後、そのまま自分も飛んできたのだろう。
アーサーは状況が読めないといった表情で狼狽えている。本当はここに来る前に伝えたかったけれど、もう時間は無い。
「アーサー、マリアンヌさんに…あの人に触れてあげて。」
握ったままアーサーの手を引き、訴える。アーサーは目を丸くして「え…?」と声を漏らした。
「アーサー、貴方の特殊能力は作物に限りません。貴方の本当の特殊能力は…」
ジルベール宰相が初めて、彼女の手を取ったままこちらを振り返る。見開いた目から涙を止めどなく流しながら、一縷の希望を宿して。
「万物の病を癒す力です‼︎」
その瞬間、私の言葉を聞いたアーサーは私から手を離しマリアンヌさんのもとへ走った。
そのまま、飛び込むようにジルベール宰相が握り締めた手の上から、そしてその腕を掴むように反対の手で彼女のか細い腕を握り締めた。
…陽が、沈む。
「……………っ、…‼︎…ぁ…ッはぁっ、…あっ…!」
突如、力を失っていた筈の彼女の身体が、大きくしなった。
まるで、やっと深海から水面に出たかのようにゆっくり、そして大きく息を始めた。
さっきの細やかな呼吸ではない、しっかりと空気を、酸素を取り込み、吐きだす動きだ。
ジルベール宰相が彼女の名を何度も呼ぶ。彼女はそれに呼応するかのように強く、ジルベール宰相の手をもう片方の手で掴み、強く握った。
そう、掴んだのだ。
最後には手足の自由すら効かなくなる病で、指一本すら動かない筈の彼女が。
傍にいた侍女達が驚きのあまり、悲鳴をあげた。まさか、そんな、奇跡が、と口々に涙を滲ませながら彼女の様子を伺っている。
少しずつ、彼女の肢体が動きをみせる。久しぶりの動きだからか少しぎこちない。それでも、動く。
時間でいえば数分程度だろうか。
彼女の呼吸とともに、その顔色にも血色が戻っていた。激しい呼吸音が段々と静まり、最後に彼女は静かに長く、息を吐ききった。
「……マリア…?」
ジルベール宰相が握り締められた手を胸に、震えた声で彼女の名を再び呼ぶ。
望み、そして期待の込められた声だった。
「…………ジル。」
ジルベール宰相の方を小さく向き、彼女は柔らかく微笑んだ。先程まで言葉を発することすら叶わなかったその唇で。
「ちゃん…と…、…私は幸せよ。」
その瞬間
ジルベール宰相は彼女を強く抱き締めた。
握り締められた手で優しく彼女を引き寄せ、その細い背中に震えの止まらない自らの腕を回し、その胸に彼女をしっかりとおさめて。
そのままジルベール宰相の方が今度は言葉を発せられなくなった。あれほど流暢だった口からはひたすら叫ぶような嗚咽だけが漏れている。
「あ、あああぁぁっ…‼︎」
まるで、幼子のような泣き声だと思った。
涙が止めどなく溢れ、彼女を濡らす。まるで、自分自身が長年の苦痛から解放されたかのような、泣き声よりも叫びに近かった。…いや、まるでじゃない。きっとそうなのだろう。
全身を喜びに震わせ、膝から崩れ落ちたまま、それでもひたすらマリアンヌさんを抱き締め泣き噦るジルベール宰相は、彼自身が誰よりも苦しみ続けていたのだと感じられた。嗚咽の中から時折、マリア、良かった、すまない、という言葉が嗚咽と涙声に交えて何度何度も繰り返��聞こえた。
そして彼女も、ジルベール宰相の胸に顔を埋めながらその目から大粒の涙を零していた。まだ少し茫然として、目の前のことが信じきれないようにも見えた。ぼんやりと涙で潤んだ瞳を揺らしながら、まだ力が上手く入らないであろうその片手は、小さくジルベール宰相の裾を摘み、握った。
その光景を、誰よりも傍で見つめていたアーサーもまた茫然と彼女の手を握り締めたまま、自身が何よりも目の前のことが信じられないかのように見つめていた。
…初めて、自分の本当の特殊能力を目の当たりにして。
アーサー・ベレスフォード。
彼の特殊能力は万物の病を癒す力。
ゲームでプライドから崖崩落の真実を聞いた後に打ち拉がれ、雨に濡れる彼に歩み寄った主人公ティアラは同じく雨に濡れ、風邪を引いてしまう。
翌日に酷い高熱で寝込むティアラのところへアーサーは訪れ、前日には触れるなと拒絶した筈のティアラへ、その額にそっと自ら触れたのだ。
そして、先程の熱が嘘のように引き、目を覚ますティアラとアーサーはその時初めて彼の本当の特殊能力を知ることになる。
彼の特殊能力は凄まじく希少価値が高い。
きっと王族の予知能力よりも、ずっと。
人間だけでない、動物も、そして植物の病すら触れるだけで癒してしまう神の手だ。
その真実を知るのは、彼が人間的にも成長した今から五年後の筈だった。
私はそれを捻じ曲げた。
でも、後悔は無い。全て覚悟の上で私は決断したのだから。
暫くして、気がついたようにマリアンヌさんが次第に顔を上げ、自分の手を握り続けるアーサーの方へと向き直った。
そっと、無理がないようにジルベール宰相が彼女の細い背中を支えている。
マリアンヌさんは静かにアーサーと、その手に握られた自分の手を交互に見比べた。
小さな声で、貴方が…?と呟くと、アーサーは目を逸らしながらそれに小さく頷いた。
そのままゆっくりとジルベール宰相に支えられながら身体を起こし、自分の手を握るアーサーの手を強く握り返し、もう片方の手で包んだ。
「…………ありがとうっ…‼︎」
ぎゅっ、と強くアーサーの手を握り締め、再び彼女が わっと泣きだした。言葉にならないかのように唇を震わせ、泣き噦った。先程のジルベール宰相へ流した涙とは違う、まるで少女のような泣き顔だった。
「もう一度ジルにっ…、…ジルを、私を助けてくれて…ありがとう…‼︎」
その後も何度も何度も彼女はアーサーにお礼を言い続けた。その横でジルベール宰相も泣きながら何度もアーサーに頭を下げ続けた。
アーサーがぽかんとしながらも、ひたすら二人の言葉を受け取め続けた。
本人自身もその目から、一筋の涙を零して。