164.暴虐王女は眠り、
「おやすみなさいませ、プライド様。」
「どうか良い夢を。」
「おやすみなさい、ロッテ、マリー。」
専属侍女のロッテとマリーが挨拶をして、小さな灯りだけを残して、消灯してくれる。
扉が閉じられ、暗くなった天井を眺めながら私は一息ついた。
今日は、なんだか…色々あった。
一日の出来事とは思えない程に。 今朝までアネモネ王国に居たなんて、正直自分でも実感がわかない。
レオンが立ち上がり、第二第三王子が処罰され、婚約解消と条約締結をし、レオン様に感謝の口付けをされ、…放心状態で宿に帰り、カラム隊長に説かれ、国へ戻ってから母上に報告をし、母上の傷の一端に触れ、八年前までの予知を知り、そして今度はステイルが私が抱いてしまった怒りに気づいてくれた。
…凄く、恥ずかしかったけれど。
まさか、ステイルに気付かれてしまうだけでなく、あんなに泣いてしまうなんて。
あの時に湧き上がったエルヴィンとホーマーへの怒りと、重ねてしまったラスボス女王プライドへの…自分への怒り。
自分が前世の記憶さえ無ければ、彼らよりもどうしようもない人間になってしまったのだと思うと辛くて、嫌で嫌で堪らなかった。
彼らが本来なら犯した罪。私が本来なら犯した罪。そして今、目の前の彼らが犯した罪。全てが怒りのあまりグチャグチャに混ざり合い、身体が裂けるように悲鳴を上げた。
私の前世の記憶のことは、きっと一生誰にも言えない。全てを〝予知〟の一言で誤魔化さないといけない。
母上が私の…前世の記憶を取り戻す前のプライドを予知した時のように、私もこの記憶を最後まで抱えていかなければいけない。でも…
『大丈夫です、プライド。貴方は絶対にあの二人のようにはなりません。』
ステイルの言葉が、凄く優しくて。
抱き締めてくれたその腕が強くて、暖かかった。
突然のことに驚いて、一瞬で顔が熱くなった。
弟であるステイルの前で醜い自分を曝け出してしまう自分が凄く嫌で、泣いてしまうのが恥ずかしくて、情けなくて。
それを全部受け止めてくれたのが、嬉しかった。
どちらが姉なのか兄なのかわからないと思いながら…それでもあの時のステイルの優しさに、気づけば甘えていた。
気づいてくれたのがステイルで良かったと、心からそう思えた。
…こんな駄目駄目な姉にも、こんなにも優しくしてくれるステイルが、凄く誇らしい。
子どもの時から、ずっとずっと助けて貰ってばかりだ。
前世の記憶さえなかったら、彼にも酷い傷を与えていたことだけが、強く胸を引っ掻く。
ステイルだけじゃない。ティアラやアーサー、ジルベール宰相、レオン、他にも沢山の人達に私は消えない傷を作っていた。その事実だけが、胸が締め付けられる程に辛い。
思わず考えてしまうと今度は段々と喉が苦しくなってくる。乾いてない筈なのに苦しくなって喉を両手で押さえる。
『大丈夫です、プライド。貴方は絶対にあの二人のようにはなりません。』
…また、だ。
また、ステイルの同じ言葉が胸を過ぎる。同時に喉のさっきまでの苦しさが治って、自然と深く呼吸できる。
『俺達が信じる貴方を、…どうかもっと見て、信じて下さい。』
…そうよね。きっと、大丈夫。
あの時の暖かな気持ちを思い出し、嬉しくなって思わず口元が緩む。
寝返りを打ち、首にかかった長い髪を手で背後に払って目を閉じた。
『ちゃんと、居ます。絶対に、俺は貴方の味方です。』
…まさか、アーサーと同じ言葉までくれるなんて。
クスッ、と気づけば思わず息に混じえて笑っていた。
本当に、ここは暖かい。
前世の記憶を思い出した時は辛かったけれど、こんなに優しい人達のいる世界に転生できて良かったと思う。
段々と微睡んできて、うとうとしながらぼやけた頭で昨晩の事を思い出す。
あの時の言葉も、すごく…すごく…嬉しかった。
……
…
何度も、何度も寝返りをうっても眠れない。
レオン様を酒場から保護して、まさかの薬を盛られていて、…そしてまだ目を覚まさない。
少し窓の外から音がしただけで、あの弟達がレオン様が保護されたのに気づいて取り戻しに来たのではないか。何か物音がしただけで、レオン様が目を覚ましたんじゃないかと思って落ち着かなかった。
…大丈夫。明日することは決まっている。
彼を説得して一緒に城に向かい、弟達の悪行を明らかにして婚約解消しレオン様を国に返す。そして私達はフリージアに帰って母上に報告する。それだけだ。……それだけ。
余りにもすることが多過ぎて、頭の中がモヤモヤする。それに、明日私は〝女王代理〟として国王に会う。行方不明になっていたレオン様と一緒に。あまりにも不安要素ばかりだ。
もし、レオン様が立ち上がってくれなかったら。
もし、レオン様が弟達に陥れられたことを覚えていなかったら。
もし、弟達に上手く言い逃れられてしまったら。
もし、女王代理の私のせいでフリージア王国の評判すら落としてしまったら。
もし、上手くいかなくてアネモネ王国との関係に亀裂を作ってしまったら。
もし…
カタッ、カタカタッ…
突然扉の向こうから物音がして飛び起きる。
私の扉の前はアーサーとエリック副隊長が守ってくれているけど、この音は更に向こうの方から聞こえる。
もしかして、レオン様が目を覚ましたんじゃっ…
激しく鼓動する胸を両手で押さえ、ベッドから降りて扉の前まで歩み寄る。耳を澄ませばやはり扉の更に向こうの方から声がした。
「…どうかしたのですか?」
扉に耳を当て、扉越しに居るであろうアーサーとエリック副隊長に小さく声をかける。
「…誰か来たようですね。また衛兵だとは思いますが…自分が見てきます。ついでに部屋の見回りも行ってくるからアーサーは引き続きここで護衛をしていてくれ。」
エリック副隊長の言葉にアーサーが「いや俺が」と返したけれど「お前は近衛だろ?」と優しく断られる。
タン、タン、と落ち着いたエリック副隊長の足音が段々と扉の前を遠ざかっていった。
「………………眠れませんか。」
少し沈黙が続いた後、エリック副隊長を待って扉の前から動かない私を察してか、アーサーが静かに私に声をかけてくれた。
ええ…と、折角私達が休めるように護衛してくれているアーサー達に申し訳なく思いながら返すと、すかさずアーサーから「大丈夫ですよ」と言葉が返ってきた。
「レオン王子も無実だったみてぇですし、明日になればきっと目を覚まします。ちゃんと城にお送りして、第二第三王子の悪事も明らかにして、…レオン王子と国に帰れます。」
アーサーの言葉に胸が詰まる。まだ、アーサーにもステイルにも婚約解消のことはちゃんと話していない。予知のことは話せても〝女王代理〟の権限として与えられたこれは、その時の判断まで容易に話す訳にはいかない。
「…プライド様は、幸せにならねぇと。」
レオン王子と…一緒に。と、扉越しに聞こえるその言葉は凄く優しかった。
独り言のように呟かれたけれど、確かに私に向けての言葉だった。まるで、彼らを騙しているような罪悪感に胸が締め付けられる。
アーサーも、ステイルも、アラン隊長も、カラム隊長も、エリック副隊長も、任務とはいえ私の為にここまで協力してくれている。私と、…婚約者であるレオン様の為に。
ごめんなさい、の一言を伝えられずに口の中で消えた。その間も私がずっと黙っているのをアーサーは気にしない様子で静かに言葉を重ねてくれた。
「みんな、味方です。他でもない、プライド様の。」
一言ひとこと区切るように語ってくれるアーサーは、いまどんな表情をしているのだろう。トン、と扉に寄りかかるような音がした。同時に再び彼の言葉が紡がれる。
「アラン隊長は、すっげー強いんです。剣術もすげぇし…あ、でも剣だけなら俺も負けねぇ自信があるんですけど!…でも、剣無しの格闘とか素手での模擬戦とか、本当に強くて。俺も未だ負けることばっかで。父上やクラークもアラン隊長のことをいつも褒めてて、特攻とか先行とかを任される一番隊の隊長で、戦闘ではすげぇ格好良くて、頼りになる人なんです。でも、才能とかだけじゃなくて、本当に信じられねぇほどの鍛錬を毎日してて、真っ直ぐな人で。あの人に背中とか任せると、本当に安心して戦えるっつーか…戦闘が得意な一番隊でも皆にその実力を認められている凄い人なんです。」
アーサーの声が、心地良い。心から慕って、憧れる人を語る時の声だ。聞くだけですごく、すごく…ほっとする。
「エリック副隊長は、努力する人なんです。俺の本隊入りする一年前に一番隊に入隊したらしいんすけど、…そうとは思えないくらい実力あって、苦手なもんはねぇんじゃねぇかって思うくらいに何でもできて、剣も、格闘も、馬も、狙撃も、ンで頭も回って、…全部新兵の時、一気に今の域まで向上させたすげぇ人なんです。隊は違いますけど、あの人が演習や訓練で手を抜いたりするところを一度も見たことがないです。ただ努力するだけじゃなくて、それをちゃんと血肉にできる人なんです。今年は副隊長にまで昇進されて、一番隊とかはウチの隊と違ってそんな隊長や副隊長の入れ替わりは激しくねぇのに。…それでも副隊長任されちまうような人なんです。」
アーサーがどれだけ先輩騎士をわかって、尊敬しているのかがよくわかる。子守唄のような静かな声にじっと耳を澄ませる。
「カラム隊長は、すっげぇ人で…昔っから人の気持ちとか、奥底の想いとか悩みとか…そういうのに気づいて、答えをくれる人なんです。俺も、他の騎士の人達も、本当に隊とか関係なく皆お世話になってる人で…皆に慕われている人なんです。カラム隊長に憧れて三番隊を希望する騎士も沢山いたぐらいで、父上とクラークの次に優秀な騎士です。プライド様もきっと何度か公式な場でもお会いしたことあると思いますけど、…それくらい優秀な騎士なんです。優秀なのに全く傲ったりすることなくて、むしろ誰にでも気を配ってくれて…五年前の崖の一件の時も、まだ初対面でただの口の悪いガキだった俺のことまで気遣ってくれたことがあって。……そのせいで、今でもなんか頭上がらないんすけど。」
ハハッ、と笑うアーサーは、言葉とは裏腹に、なんだか照れ臭そうな…嬉しそうな声だった。
「先輩の騎士達は皆、本当にすごい人達で…今回の任務もあの人達と一緒だって聞いた時はすげぇ心強かったぐらいで。先輩方、皆…プライド様を慕っていて、守りたいって思ってくれてて…強くて立派な騎士で、…あの人達なら絶対プライド様を守ってくれます。今日も、明日も、……ずっと。」
だから、大丈夫です。と再び私に言ってくれる。私を安心させる為に言ってくれているのだと、本当に真っ直ぐアーサーから伝わってきた。
「それに父上やクラーク、騎士団の人達皆も、あとジルベール宰相やマリアンヌさん、セフェクとケメト、…俺はいけすかねぇっすけどヴァルも…皆、誰でもなくプライド様の味方っすから。」
指折るように一人一人の名前が出てくる。その名を聞くたびに目を閉じればその人達の顔が頭の中に浮かんだ。
「例え、何があっても貴方の味方です。それにずっと昔からプライド様の傍にはティアラとステイルも居ますし。」
カチャ、と金具の音が聞こえた。アーサーが腰の剣を握り締めた音かもしれない。
「ステイルは本当、能力無しでもすげぇ強くて、剣も格闘も稽古で経験積めば積むほど強くなって、俺がジルベール宰相から学んだ体術も俺からアイツに教えたらすぐに身に付けちまうくらいで。それに誰よりも頭も良いから何かあった時も頼りになるし、…アイツの傍にずっといれば絶対安心です。プライド様の為になら命を張れるぐらい…いや、それは俺も同じなんすけど。…でも、それくらいプライド様のことを大事に想ってます。正直、俺もずっとプライド様のお傍に居てお守りしたいぐれぇなのに有事の時しか居られないのは歯痒いっすけど…アイツがプライド様の傍に居てくれる、って思うとすげぇ安心できます。」
ステイルへの信頼。ずっと長年二人で剣を磨いてきたからこその絶対的な信頼が、確かにそこにはあった。
「…それに、俺も。」
ふいに、アーサーに更に潜めた声で「少し扉を開けても良いっすか」と尋ねられた。
内側から鍵を開け、流石に寝巻き姿だったので遠慮するように少しだけ扉を開けてみた。
拳一個分の隙間からゆっくりとアーサーの腕が伸びてくる。
後ろ手で腕だけ伸ばしてくれているのか、私に手のひらを向けた状態のアーサーの手がまるで招くように閉じ、そしてまた開かれた。
恐る恐るその手を掴むと、しっかりとした力で優しく私の手を握り締めてくれた。騎士らしい逞しい手が、私の手を包み、握る。
「俺も、います。」
私の手を何度も確かめるように握力だけで握り直すアーサーの手は、凄く暖かかった。
「俺も、プライド様を守る為にずっと剣を磨いてきました。貴方を護りたい、ってこの気持ちだけは…誰にも負けねぇつもりです。今夜何があっても、明日何が待ち受けていても、…これから先、例え何があろうとも。絶対に俺は貴方の味方です。この名に、命に賭けてそう誓えます。ずっと傍にいます、ずっと守ります。…何度だって、貴方の前で誓います。この先も、もっともっと強くなって何者からも貴方を守ります。貴方が不安な時は、…何度だって俺の方からこの手を掴みとってみせます。」
ぎゅっ、とアーサーの私の手を握る力が優しく強まった。
その優しさが嬉しくて、私もぎゅっとアーサーの手を握り返した。その途端、アーサーの腕が驚いたように小さく震え、また強く握り返してくれた。
「…プライド様は、本当に本当にすごい方です。俺や…他の誰にでもいつも手を伸ばしてくれて、欲しい言葉をくれて、…気付いてくれる。そんな貴方だから…俺もステイルも皆、貴方を信じて何処までもついていけるんです。」
褒め過ぎだ、そう言いたかったけれど今はただそう言ってくれるアーサーの気持ちが嬉しくて、思わず口を噤んだ。
「だからプライド様もどうか、俺達が信じる貴方をもっと見て、信じて下さい。」
アーサーの手を握ったまま、ゆっくりと壁にもたれる。私が疲れたのかと気にしてくれたのか、私の動きに合わせるように繋がれたアーサーの手も動き、二人でその場にしゃがんだ。
「ちゃんと、居ます。絶対に俺は…貴方の味方です。」
さっきまで不安だった気持ちが透き通るように晴れていく。不思議と肩に張った力が抜けて、楽になる。
居てくれる。味方だと…そう言ってくれる。
今の私に、それがどれだけ力強い言葉か。
「…ありがとう、アーサー。」
目を閉じ、ゆっくりと息をする。
そうだ、私にはちゃんと皆がいてくれる。例え明日何があっても、…そして婚約解消になったってちゃんと私にはもう、大事な人達がいてくれる。レオン様が自国とその民を愛するように、私も自国と民…皆を愛してる。
段々と力が抜けて、気がつけば指先にしか力が入らない。途切れ始める意識の中、感謝の気持ちを込めてアーサーの手を握る指先だけに力を込めた。
「大好きよ。」
微睡み、薄れる。…でも、さっきのベッドの中よりずっとそこは心地が良かった。