159.暴虐王女は気づいてしまう。
「母上、父上。只今戻りました。」
扉が開かれると同時に、私とステイルは礼をした。私達の帰りを待っていた、女王と王配である母上と父上に。
「待っていましたよ、我が愛しい娘。そして愛しい息子。…随分と早かったですね。」
緩やかに微笑む母上と、少し険しい表情の父上と摂政のヴェスト叔父様。そして若干憂いを帯びた笑みを浮かべるジルベール宰相が迎えてくれる。
「ええ、丁度〝配達人〟が居合わせましたので、能力で我が国まで送って貰いました。」
実際はジェットコースター移動で強制的に送られたところもあるけど。
母上が、そうですか。と笑みながら私の背後に控えるステイルの手の中のものを目だけで指した。ステイルがそれに気づき、静かに私へそれを手渡してくれる。
「母上から御許可を頂きました通り、この度レオン第一王子と私との婚約は両国の合意の上で解消されました。レオン第一王子はアネモネ王国の第一王位継承者として国に残られます。また、互いの国を定期的に訪問し合う条約も締結し、これでアネモネ王国とは変わらず良き同盟関係が築かれるでしょう。」
ステイルから受け取った条約書を開き、母上達に見えるように示した。婚約解消も、もしもの時の条約締結もちゃんと母上から許可を得ていたものだし、何も問題はない。……筈なのに。
「…やはり、予知の通りになってしまいましたか…。」
はぁ…、と母上にしては珍しい低い溜息を吐いた。そのまま俯く母上を見て、父上がジルベール宰相に合図をする。頷いたジルベール宰相が私達のもとまで歩み、条約書を丁寧に受け取った。
「……確かに。双方合意の元での婚約解消、そして条約が記されております。」
全く何の不備もありません。とジルベール宰相が続け、広げた条約書を父上に、そして父上がヴェスト叔父様に、最後にヴェスト叔父様が母上に広げてみせた。三人の上層部トップが頷いた条約書を見ても、母上は更に溜息をつくだけだ。
距離があるからよく見えないけど、心なしか少し顔色も優れない気がする。
「そうですか…。」
今度は小さく肘をつき、ヴェスト叔父様と父上それぞれに目配せをした。すると、二人が周りの衛兵に命じて玉座の間から私達以外を人払いする。タタタタッと静かな足音と共に、私達六人を残して扉が静かに閉められた。
バタン…という音の後、改めて部屋が静寂に包まれた。
誰も居なくなっても尚、暫く母上は何も言わなかった。ついた肘をそのままに額に手を当て、どこか項垂れたようにも見える。たっぷり一分以上の沈黙を残した後、母上がゆっくりと口を開いた。
「…つまり、予知の通りにアネモネ王国の第二王子と第三王子の愚行が明らかになったと。」
「はい。そして国王もそれを知り、レオン第一王子に王位継承と、第二、第三王子の処罰を決められました。」
結果、やはりレオン王子の婚約解消を望まれるとのことでした。と続ける。
〝処罰〟の言葉を聞いてやっと、先程まで鋭く目を光らせていたジルベール宰相と思い切り眉間に皺を寄せていたヴェスト叔父様の黒い覇気が和らいだ。王を支える者として、許せぬ愚行だったのだろう。……私も、すごくわかる。
「プライド。…貴方は一週間前、言っておりましたね。〝レオン第一王子無きアネモネ王国は衰退の一途を辿る〟と。」
母上の問いに私は間髪入れず「はい」と答える。
そう、私はそう言って一週間前に母上を説得したのだから。
アネモネ王国とその多くの民の為に、と。
彼らがレオンの悪評を広めていたことが発覚する。そして国王がそれを知り、レオンを第一王位継承者として自国に戻したいと願う。レオンが王位を継げなかったアネモネ王国は衰退の一途を辿る。
そう伝えてやっと、母上からアネモネ王国への極秘訪問と女王代理として婚約解消と条約締結の許可を貰うことができた。
大事な同盟国の危機というだけではない。例えレオンと私が婚約して同盟関係を強固にしても、そのせいでアネモネ王国が衰退しては同盟の意味など無いのだから。
最初にそれを話した時には母上も父上も驚いていたし、いつもは冷静なヴェスト叔父様も目を見開いていて、ジルベール宰相に至っては驚愕、といった表情で床に落ちた書類にも暫く気がついていなかった。
「…まさか、あの第二第三王子がそこまで愚かだったとは…。」
溜息を何度も繰り返し吐く母上は、何故か段々といつもの威厳が萎んでいる気がする。
私の婚約者を決める時、母上や父上、ヴェスト叔父様はちゃんとレオン以外の王子とも面談をしてくれていたらしい。その中で相応しいのはレオンだけだと判断したらしいけれど…まぁ、そうなるだろう。ただ、まさか第一王子を蹴落とす為に色々やらかしていた事までは予想外だったようだ。
…レオンの〝王〟としての器が、アネモネ王国限定だったことも。
「〝予知〟はあくまで未確定な未来。…それは私が身を以て知っています。だからこそ、事を荒立てないように貴方の極秘訪問も許しました。……杞憂に終わればと願ったのも無駄だったようですね。」
項垂れたまま、母上が呟く。予知はあくまで未確定。
更には私や母上が予知を語ったとしてもそれを他国の人間に信じて貰うのは難しい。我が国ならば未だしも、予知や特殊能力は他国にとっては何の根拠も証拠にもならないものなのだから。
だからこそ、母上の手を持ってしても後手に回るしかなかった。例え母上の口から忠告をし、一時的に防いでも、弟達が別の日や違う方法で行えば今度こそ何の対策も打てなくなるのだから。
「…………………………ごめんなさい、プライド。」
ぽつり、と。
まるで水滴が一滴落ちたかのような小さな呟きだった。
突然のことに驚き、私は一瞬耳を疑う。みれば、母上が両手で頭を抱えてさっきよりも深く項垂れている。父上が焦ったように母上の肩を背後から両手で抱き、ヴェスト叔父様が目を閉じて母上の言葉を黙って待った。ジルベール宰相が一礼して、一歩背後に下がる。
「…母上…?」
一体どうしたのだろう。母上がこんなに落ち込んでいるのなんて見たことがない。私も、ステイルもきっと。その証拠に私の背後に控えるステイルも目を丸くして母上を見つめていた。
「どのような理由があろうとも、こんなに短期間で婚約解消なんて。…ちゃんと、…すぐに、今度こそ貴方に相応しい婚約者を見つけます。…。」
「い、いえ…母上。どうかお気になさらないで下さい。まだ私は女王となるにも勉強不足なところが多くあります。そう急がなくても…」
「いえ、すぐにでもッ…‼︎」
私の言葉を搔き消すように母上の声が張り上がった。何か耐えるように自分の手のひら同士を合わせ、組み、ぎゅっと握りしめた。遠目からでもわかるほど、父上に押さえられた母上の肩が震えている。暫く母上の様子を見守ると、いつもは優雅な言葉ばかりが紡がれるその唇が辛そうに開かれた。
「…やっと、…っ…やっと貴方に…母親らしいことができたと思ったのにっ…‼︎」
いつもの母上からは考えられない、甲高い悲鳴のような声だった。肩に背後からそっと添えてくれる父上の手を後ろ手で触れ、俯いたままもう片方の手が拳を作り、玉座を叩いた。
「またっ…私は間違ってしまった…‼︎‼︎」
常に堂々として、威厳に満ちた母上が私とステイルの目の前で、初めて涙を零した。
ポロポロと真珠のような雫が床に落ち、それを押さえるように両手で顔を覆った。
〝また〟とは一体どういう意味だろう。
常に女王として私やティアラの見本となってくれた母上が、一体過去に何を間違えてしまったのか。私には全く見当もつかなかった。
何も言えず、口を開いたまま言葉を無くす私達に、母上は続ける。肩に添えられた手を握り返しながら、まるで今まで張り詰めていたものが切れてしまったかのように。
「何故っ…上手くいかないの…⁈…国を、民を、どれ程に導き愛してもっ…自分の娘一人すらっ…幸せにできないなんてっ…‼︎」
なんでっ、なんで…‼︎と、長く整った爪がそのまま自身に深く刺さるほど、強く母上は拳を握り締めた。
父上が「落ち着けローザ」と母上の肩を押さえながら声をかけるが、母上は嘆いたまま父上の言葉すら入ってこないようだった。
「なんでっ…、…愛したいのにっ…愛したいのに…‼︎ちゃんと…した、形でっ…‼︎」
段々と母上の声が涙声になって滲んできた。母上のその挙動に、発言に、声に、自分の目を疑ってしまう。父上の制止も聞かずに嘆く姿は少し混乱しているようにも見える。流石のステイルも母上の豹変に戸惑いを隠せないようで、私の横にそっと移動して「姉君…」と声をかけた。
…前世にあったテレビの特集や映画で、こんな場面や台詞を見たことがある。
まるで、目の前のことが現実ではなくて本当にそのテレビや映画の一場面を見せられているような気がして、ポカンと口を開けてしまう。
あの特集や映画は、何だっただろうか。確か〝虐待に苦しむ親〟とか、そういうのだっただろうか。月並みで大袈裟な演出だと、何度も見ては思ったけれど。…いや単にテレビや映画と似ている場面なだけで、私の気のせいかもしれない。でも、目の前で取り乱す母上はどう見ても、前世で見たその場面にそっくり同じだった。前世の記憶が無ければ、私だってこの光景が何なのか理解できないし、その証拠に私より頭の良いステイルだって茫然としている。
前世の世界では沢山の価値観や倫理観がテレビやネットで溢れ、昔は単なる〝努力不足〟〝やる気不足〟〝愛情不足〟などで片付けられていたことも別の角度で見たり考えられたりされていた。
…だから、もしそうなのだとしたら。
母上が、こんなに苦しんでくれている理由は。
心の底で、これが私の早とちりだったらそれで良いと、そう思いながら一歩前に出る。
「母上、父上…御無礼をお許しください。」
泣き続ける母上を、とうとう抱き締めるようにして父上が抑える。ヴェスト叔父様がじっと目を閉じていた瞼を薄く、私に向けて開いた。背後で私を心配して呼んでくれるステイルの声が聞こえる。
そういえば、何故私はこの人を〝母上〟と呼びながら、一度もこの人に母親としての期待をしてこなかったのだろう。
前世の記憶を思い出す前から、私は一度でも母上に親として何かを望んだことがあっただろうか。
私にとって母上は〝女王〟だった。
完璧で、何一つ欠点のない素晴らしい女王。
…本当はただの人間なのに。
一歩、さらに一歩、母上に近づく。玉座に向かう小さな階段を登ろうとした瞬間、降りてきたジルベール宰相が手を貸してくれた。優しく微笑んでくれるその表情に少しほっとする。
「母上。」
私が見上げて呼ぶと、母上が言葉にならないように玉座から降り、その場にしゃがみ込んでしまった。
…母上は、いつからこんなに苦しんでくれていたのだろう。
ずっと、気づいてあげられなかった自分が嫌になる。
力なくしゃがみこみ、豪奢なドレスに皺をつくる母上を父上がそっと肩に触れた。
きっと、父上がずっと母上を支えてくれた。私達の見えないところで、…ずっと。
今までは、母上に実は嫌われていたんじゃないかとも思った。
ティアラの誕生祭まで、私と殆ど会ってくれなかったから。
それに、誕生祭後もティアラやステイルと違って、私と二人きりで会ったり話したりはしてくれなかった。
母上と個人的な会話をしたことは、記憶の中では一度も無い。
公務や女王としての心構えや権限は与えてくれたけど、前世の時の母親のような会話や交流なんて全くなかった。…でも疑問には思わなかった。
当時、最悪の我儘姫様だった私が母上に嫌われる理由なんて、避けられる理由なんてそれだけでも沢山あるから。
…だから、私は言う。
他ならない、私の言葉で。
今この時だけは、前世の記憶を持つ私ではなく、この人の娘として、この言葉を放つ。
「母上。…私は貴方に愛されています。」
ピクリ、と。
泣き伏すように肩を震わす母上の身体が一度大きく震えてから止まった。顔を覆った両手が、静かにゆっくりと顔から離されていく。
「私も愛しております。母上、父上。…私に沢山の幸せを与えてくださった、貴方方を。」
階段の段差を更に登る。残り一段で登り切る手前で、止まる。まるで少女のように泣き腫らした瞳が振り向き、私の方へと向けられる。
「私の第一王女としての人生は、八歳の時に動き始めました。予知能力を得たからではありません。父上の愛を知り、ステイルに出会い、ティアラに出会い、…母上。貴方に認めて貰えたあの時に。」
八年も前の記憶は、殆ど今は断片的だ。
それでも、ちゃんと胸に焼きついているものは沢山ある。父上を馬車から助けたり、ロッテとマリー、ジャックの存在に気付き、ステイルに出会えて、ティアラと出会えた。その時のことは全て今も鮮明に覚えている。
そして、ティアラの誕生祭で母上に貰えた言葉を。
「私は、第一王女としてこの国を、民を愛しております。ずっと、ずっと昔から。」
最後の階段を登る。
いつも玉座に座る姿を見上げて会うことが多かった母上が、私の足元に座り込んでいるのに、不思議な感覚を覚える。私もゆっくりその場に座り込み、覆った顔から離した母上の両手にそっと触れた。私を真っ直ぐに見つめながら、潤みきった瞳から今も大粒の涙が溢れている。
「母上、貴方が…あの時私に教えてくれました。」
覚えている。
初めてのティアラの誕生祭。ステイルが民の前で私を支持し、ティアラが頷いてくれた。
民が歓声を上げ、母上が私に言ってくれた。
『これは貴方への期待です、この瞬間を必ず忘れてはいけませんよ。』
「母上、貴方が、あの瞬間を忘れるなと言ってくれたからです。」
触れた母上の手を、自分の両手で包み、強く握りしめる。母上の手は信じられないほど細く、…記憶の中よりも小さかった。
唇を震わせた母上から、また涙が溢れた。年齢を感じさせない綺麗な肌を涙が伝い、流れた。ぎゅっと萎めた表情から、微かに以前よりも年の重なりを感じさせた。
「女王となるべく必要な知識も、試練も、心構えも、権限も、〝母親〟である貴方から頂きました。」
ちゃんと母上は私に色々与えてくれた。
女王として知るべきことも、学ぶべきこともずっと教えてくれた。
「愛しています、そして私は愛されています。何度でも、何度でも私は胸を張ってそう断言できます。」
私が真っ直ぐに母上の目を見つめる。今までこんなに強く母上と見つめたことなんてなかった。
母上がそのまま震える腕をゆっくり私に伸ばし、背中に回し、抱き締めてくれた。…母上に抱き締められたことも、私の記憶の内には一度も無い。私も母上の細い身体をゆっくりと抱き締め返す。
…どうか、知って欲しい。
私が知る、母親らしいことなんて殆どなかった。
女王と、第一王女。その関係としての会話ばかりだった。
それでも、第一王女として私に多くを教え、与えてくれたこの
「ッ…予知を、…しましたっ…‼︎」
…誰もが、息を飲んだ。
震える声を絞り出した、母上の言葉に。
まさか、このタイミングで何か予知を、と驚いて顔を上げると、母上の腕の力が強まった。
「十年以上前にっ…予知を…‼︎…貴方が、自分より弱者を好んで傷つけるっ…何度も、何度も傷つけるっ…っ…‼︎何度も、その予知をっ…!」
…頭の中が、真っ白になった。
母上の腕の力が強まるのに反して、私の手が震えて力が抜けた。自分でも顔から血の気が引いて行くのがよくわかる。興奮した様子の母上がそれに気付かないように私の首に手を伸ばして更に抱き寄せた。
「ごめんなさい…プライド…‼︎怖かった…貴方が人を傷つける未来がっ…女王という権威の刃で更に傷つけるかもしれないと、…だからっ…貴方の未来を見なくなる、八歳のあの時まで、…ずっと、…私はっ……!」
貴方はこんなにも素晴らしい王女として成長してくれたのに。あの時の私は貴方の未来を信じてあげられなかった、変えようともしなかった。…そう泣いて謝ってくれる母上の言葉が、私の耳を通り抜けた。
…母上は、知っていた。私の、本当の未来を。
だから、私を遠ざけていた。八歳のあの時まで。
まさか、最低女王のプライドが…私が既に八歳の時から母上を苦しめていたなんて知らなかった。
間違いなんかじゃ、ない。
私は本当はそうなる筈だったのだから。
前世の記憶を取り戻さなかったラスボス女王プライドは、そうして沢山の人々を傷つけてきたのだから。
ステイルを隷属に堕とし、騎士団に不要な被害を与え、多くの特殊能力者を隷属か処刑に処し、レオンの心すら壊し、他国すら陥れ苦しめた。
私が八歳の時から見なくなった?私が、前世の記憶を思い出したから⁇
……私、レオンの弟達に怒る権利なんて、ないじゃない。
レオンの弟達が本当のゲームの設定で国を台無しにしたように、私も本来はそうしていた。
むしろ、プライドよりも彼らの方が可愛いものだ。殺した民の数も、好んで傷つけた人の数も、傷の深さも、全部。
だからこそ、プライドは皆に憎まれ、恨まれ、必ず断罪されるのだから。
母上の言葉を聞いて、改めて思い知る。
前世の記憶さえ思い出さなければ、私がどういう人間になっていたのかを。
泣いてくれる母上を、朦朧とした意識の中で抱き締め返す。
ごめんなさい、と謝り続ける母上の声で次第に意識が戻ってくる。
…謝らなければいけないのは、私の方だ。
「…それでも私を、今の私を愛して下さり、ありがとうございます…。…怖い想いをさせてごめんなさい…。」
母上がぶんぶんと首を振って否定する。未来の最低凶悪な私を知って尚、…今の私を愛してくれた人。
八歳の時まで、どれ程に母上は私のことが怖かっただろう。未確定の未来で、私が何をするか知り、それが…自分の娘だなんて。
なのに、今こうして私を愛してくれた。
この人の気持ちに応えたい。
ちゃんと、予知した未来は変わったのだと。
もう、大丈夫なのだと…いつかそう思って笑って欲しい。
「焦ることはありません、母上。私の婚約者も、女王継承も、…私と母上も。まだ、きっと時間はいくらでもあるのですから。」
宥めるようにゆっくり語る私に、母上が頷いた。「ありがとう」と。…その言葉を囁かれた途端に涙が込み上げた。
だから、私は気付かないふりをした。
母上へ掛けたその言葉に、私自身が感じてしまった
…小さな、違和感に。