Ⅱ594.刺繍職人は提出し、
「ネル!いらっしゃい待っていたわ、会えて嬉しいわ」
城門の検問を終えてすぐ、王居まで速やかに通されたネルは肩を緊張で強張らせながらプライドの待つ客間に訪れた。
馬車の渋滞に留められた時にはまだ時間が掛かるだろうと思ったネルだが、検問に入ってからは瞬く間だった。ネル・ダーウィンと、御者席に同乗していたクラークから説明が入れば名簿を確認した衛兵からの対応はネルの目にも恐ろしく早く優先的に通された。騎士団副団長の顔と、そして第一王女と定期訪問中の第一王子の待ち人いう記載があれば当然である。
たった一言でも近くの衛兵に声を掛ければ、すぐに列を飛ばし案内を速めたというのにと衛兵達を慌てさせながら、馬車は迅速に案内された。
城内から王居へと進み、積荷を降ろした時点で馬車と共にクラークやハリソンとも分かれたネルは今たった一人だ。
荷物も衛兵が次々を運んでくる中、客間へと身軽なまま廊下を歩かされる間も自分の中での場違い感が未だに慣れなかった。更には、今回は待ち構えている人物がまた違う。一人は第一王女だが、その隣に座るのはティアラでもステイルでもない。
お待たせいたしました、ご機嫌麗しゅうと頭を下げて挨拶するネルに、椅子に掛けていた王子が自ら立ち上がり、滑らかに微笑みかけた。
「お初にお目にかかります、ネル・ダーウィン殿。僕の名はレオン・アドニス・コロナリア。アネモネ王国の第一王子です」
プライドからの仲介の手間を与えず、流れるように挨拶をするレオンにネルは目を見張る。
一目見ただけで中性的な顔立ちと色香溢れる蒼色の王子に息も止まった。一瞬女性ではないかと過るほど綺麗な王子だ。
いるだろうことはわかっていたが、客間に通されてから心の準備もなく話しかけられてしまい一瞬頭が真っ白になった。ただそこに立っているだけで色香が凄まじい。怖いわけでもないのに足が震えそうな威厳を前に、ネルはすぐには挨拶を返せなかった。
美女であるプライドや美少女であるティアラとも、そして美青年のステイルとも全く違う〝王子様〟である。
十秒以上の混乱後、ひっくり返った声でやっと挨拶の言葉を返した赤面のネルにレオンもプライドも笑みで返した。腰を抜かさなかっただけマシな方だとプライドは思う。
どうぞ席に、とレオンとプライドからの促しと共にネルも二人と相対する席へ着席させられた。マリーの淹れた紅茶をロッテがすかさず彼女の前に置く。
続けて「大荷物ねありがとう」と次々と部屋に運び込まれる積荷の山を見ながらプライドに労われた。
「こんなにたくさん大変だったでしょう?馬車も城から使者を派遣すれば良かったわね」
「!い、いいえ。あ、兄が部下の方と一緒に手伝って下さったので。こんなにたくさん持ち込んでしまい、申し訳ありません」
兄?と、その言葉にレオンは軽く視線をプライドに向けた。部下もということは、それなりに立場のある人間なのだろうかとあたりをつける。
レオンの視線に、プライドは一度目を合わせてからネルに視線を変える。「彼女は……」と言葉を濁せばネル自ら「申し訳ありません」と口を開いた。
自分の兄が騎士団の副団長だと伝えれば、流石のレオンも僅かに目を丸くする。確認を取るようにプライドの背後に控える近衛騎士二人に視線を向ければ、既に把握済みのアーサーもカラムもはっきりと頷きで返した。今回レオン相手に緊張するだろうネルの為に、近衛の任務を合わさせられた昔馴染みと元同僚だ。ネルも背後に立つ二人の存在にほっと息を吐けた。
あくまで近衛の任として今は私語を慎むアーサーとカラムだが、ネルの話すその〝部下〟が何者かは考えるまでもなく理解した。
二人とも今日ハリソンは休息日であることも、そして朝から鍛錬所にも行かず外出していることも気付いている。そしてクラークと聞けば間違いない。
ハリソンが副団長のクラークを慕っていることは騎士団で周知の事実だ。
「すごいな、あのクラーク副団長の妹か。兄妹揃って才能に溢れているんですね」
「いえ、兄とは血も半分しか繋がっておりませんし、私は本当にお恥ずかしいくらい刺繍だけです」
「その刺繍が、こうして才能を開花させているのだから誇って良いと思います。僕も、一目惚れさせられちゃったから」
直後、ネルの顔色が塗ったように真っ赤に舞い上がる。
王子相手に必死に目を逸らさないようにしていたネルだが、その所為で至近距離に直撃を受けてしまった。くたりと椅子に座った状態でなければ今度こそ腰を抜かしていた。
ただでさえまだ存在にも慣れていない王子の滑らかな笑みに、色香が倍量になって宿されたのだから。
途端に傍に立っていたプライドもじゅわっと顔が火照った中、レオンの瞳の奥に映るのはネルの姿でも火照るプライドの姿でもなく、……セドリックの誕生日パーティーでのプライドの姿だった。
あの時の彼女はまた一段と美しかった。そう思い返せば自然にうっとりと笑みが零れてしまった。……同時に、溢れた色香にも気付かない。
二拍置いてから、はっと我に返ればまたやってしまったとレオンも「ごめん」と苦笑で誤魔化した。彼女もプライドも椅子に座ってくれた後で良かったと思う。
話を変えようと、レオンは早速視線をネル達から積荷へと移す。
「早速見せて貰おうかな。勝手に開けてもいいかい?」
「え、ええ!もちろ、れす……」
レオンの投げかけに、必死に舌を回すネルだが若干滑舌がおかしいままだ。
本当なら自分の手で開けて一つ一つ広げて見せるべきだとわかっていたが、まさか腰が抜けて立てないなと口が裂けても言えない。腕の力だけで積荷の方へ身体ごと向けながら、息を整える。今日一日の合計数だけで、三日分は脈が働いているんじゃないかと思う。ぱちぱちと指先で自分の頬を叩けば、そこでプライドも今度は比較速く復活し「私もっ……!」と力の込めた声で積荷へと立ち上がった。
レオンの色香を浴びたのは同じだが、今回は直撃ではなかったことと何よりネルの作品を自分もじっくりみたい欲が気合を入れさせた。椅子の肘置きに手を置いてがんばって立ち上がろうとすれば、察したカラムがすかさず手を貸した。
若干ふらつきながらもプライドもレオンの隣に立ち、宝箱を開ける気分でネルの作品を覗き確認する。
頬を赤らめて自分の横に立つプライドにこっそり愛らしいと思うレオンだが、すぐにネルの品に鑑定の目へと切り替えた。
箱一つ開けてそこに入っていたのは、繊細な刺繍が施された衣装や小物、刺繍そのものの数々だ。きゃあ!とネルの刺繍を既にいくつも目にしたことのあるプライドまで嬉しい悲鳴を上げる中、レオンも真剣に一つ一つ手に取り吟味する。中には状態が少し劣化が見えるものもあるが、これはこれで……と計算高く思考した。
「あ、その辺りは少し昔の作品で……なるべく布地が劣化したものは省いたのですが」
まとめ買いしてくれるのなら、最低限以下以外はダメ元で全て持ってきた。
ネルも売る側として、そういった交渉は心得ている。纏めて買い取って貰える強みの一つは、こういった粗悪品も含めて買い取ってくれる部分もあると、業界で生きて来た彼女は知っている。しかしレオンは彼女の言い分に「いいや」と軽く首を振った。
ネルではなく、劣化した布地と共に才能の片鱗と今の彼女の刺繍へと至るまでの歴史が垣間見えるこれの売り方は〝新商品〟とは別にある。
「むしろありがたいよ。こっちの方は勿体振ろうかな。君の支持者が増えた時に出せば価値は百倍には膨れ上がるから」
初期作品。希少。と、その言葉がレオンの頭に浮かぶ。
まだ省いたものでも売っていいものがあったら相談して欲しいと続けながら、レオンはまた一枚一枚と次々商品を手に取っていく。
ひと箱を空にしても満足せずすぐに次の箱へと移るレオンに、まさかこの箱全ての中身を一枚一枚丁寧に確認するつもりなのかとネルだけでなくプライドも思考で叫んだ。
本来であれば、もっとざっくりとひと箱に数着確認して次の箱、とあくまで質の劣悪や嵩増しといった詐欺などが含まれてないかの確認程度で終えることがほとんどだ。
しかし、レオンにとっては当然の流れだった。
貿易を司るアネモネ王国として、同じ品ばかりの並びならばまだしも、それぞれ違う品であればそれを一つ一つ吟味し確認する。食品であろうと、武器であろうと、装飾品であろうと衣服であろうと変わらない。
だからこそより良い品と、適格な商売先へと輸出も成功させているレオンの手腕の一つでもある。
ひと箱、またひと箱と一つの品に対しての吟味の時間は的確かつ短くとも、ネルが一晩以上かけて詰めた箱は膨大である。
これではレオンは定期訪問時間を伸ばさないといけないのではないかとプライドも懸念し冷たい汗を額に垂らした。ネルの作品と言うべき商品はどれも布の保存状態は置いても、どれも素晴らしいものばかりだ。むしろ自分が全部買いたいと、王族ならではの買い物欲をぐっとプライドは堪える。そうでなくても自分はネルを直属の刺繍職人として契約しているのに、過去の彼女の商品が世界中に知って貰える機会まで奪えない。
レオンが翡翠の目を貿易国第一王子の色に変える中、プライドはそっとネルへ視線を向けた。自分以上に汗で額を湿らせる彼女に、きっとこうして長時間吟味されるのも落ち着かないのだろうと理解し場を繋ぐべく話題を投げる。
「ところでこの前話した依頼なんだけれど、ジルベール宰相が是非今度の休みにでも屋敷に招待したいそうだわ。招待状を預かったから後で確認して貰えるかしら」
そう言って、視線を専属侍女のマリーへ合図する。
礼をしたマリーが落ち着いた動作で、ジルベールからの書状を取りに行きネルへと手渡した。
第一王女からの受け渡しに思わず唇を強く結ぶネルは、宰相という存在にそれだけで心臓が低く鳴った。国の上層部とはいえ、王族に手紙を託すことを許されるなどそれほどの権力者ということに他ならないと考える。
実際はジルベールもプライド伝てに手紙をネルに任せることは、それなりに遠慮した。しかし、それ以上にプライドとジルベールとの信頼関係が強固というだけの話である。
プライド自身、ヴァルとの中継で手紙の受け渡しには慣れている。
しかしジルべールとプライドの仲を知らないネルは、ただただ委縮する。
今すぐにでも目の前にいるアーサーにこの緊張を半分でも共有して欲しいと思いながら、王族二人の前で勝手な行動はできないと自分に喝をいれる。
ありがたくお受け取り致します、と丁重に手紙をバッグへ仕舞いこんだ。
ネルがバッグに仕舞い終えたのを確認してから、プライドは改めて日付けを口頭でもあらかじめ確認する。予定はない?と尋ねるが、ネルも予定を確認するまでもなく勿論ですとはっきりとした口調で返した。
駆け出しの刺繍職人の自分と、多忙は宰相では優先すべきなのはどちらかなど決まっている。
「申し訳ありません、第一王女殿下にこのような手紙の受け渡しを担って頂いて……」
「良いのよ。だって私の直属刺繍職人だもの。どちらにせよ、私に一度は許可を求める手紙が来るわ。件の花嫁衣裳の公爵からも改めて依頼は来たから」