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真昼を超え、


「あ、あのっ……ははははハリソンさん、こちら宜しかったら召し上がってください……!」


バッグへ手を伸ばした位置から、それ以上近付くこともできずその場でバッグから引っ張り出す。

昨日、荷造り前にヘレネさんと焼いたマフィンだ。最近はヘレネさんとお菓子作りを練習するようになったお陰で、わりと美味しく焼くことができるようになった。

ハリソンさんが手伝いに来るならせめてこれくらいと焼いたけど、……兄さんにも手間をかけるくらいあんなにギリギリになるなら素直に荷造りをすれば良かった。

騎士団へ会いに行くなんてとてもできないし、直接渡せる貴重な機会と思ったらどうしても焼きたかった。


心臓がバクつきながら両手でマフィンを包みごと持ち、身体ごと向き直る。

視線の先ではハリソンさんが表情も変えず紫色の眼差しで真っ直ぐと私を見ていた。目が合ってしまったと思った瞬間、気付けば視線を伏してしまう。見られてると思えば思うほど指が震えそうになる。爪の先まで力を込めたら、……不意に手の中が軽くなった。


「ありがとうございます」

短い風が吹いた気がするのと同時に聞こえた声に顔を上げれば、再び仰け反った。

折角距離を取った筈のハリソンさんが、またいつの間にか眼前まで来ていた。思わず悲鳴を上げそうになった口を、ぱしりと両手で覆い塞ぐ。一度ならず二度までも叫ぶわけにはいかない。なんとか声を放たずには済んでも、心臓はひっくり返った。


すぐ隣にいた時と違って、今は真正面で風に浮く前髪の動きまで目で追えてしまった。

しかも本人は私を見ていない。いつの間にか受け取ってくれたマフィンの包みを眼前で早速剥がしている。アワアワと唇を震わせる間に、そのまま一口目までいってしまった。あまりに心臓の準備ができない。表情も変えずに食べ進めるから美味しいかまずいかもわからない!


「ああああの、お口に合いましたでしょうか……?もし変な味とかしたら遠慮しないで良いので」

「問題ありません」

「そ、ですか……良かった、です……」

全く表情が読めない。

顔がぎこちない形で笑ったまま、目の前で食べる姿を眺めても我慢してるのか本当に美味しいのかわからない。今まで私の周りにいた人は嘘でも本当でも「美味しい」と笑ってくれる人ばかりだったから、余計に。

指を何度も組み直しながら、目を泳がせる。この時間すらも気まずい。


もっと十代の頃はもっときゅんきゅんわくわくできていた気がするのに、今はただただ心臓が痛い。荷車の外を見回してもまだ城まで時間がかかりそう。

食べてはくれているけれど、本当に毎日食べるパンと同じくらい表情が変わらないのが逆に怖い。本当はまずくて我慢してない⁈

どうしようこれはこれで耐えられない。

さっきの誤解の恥ずかしさも手伝って、口の中を噛んでしまう。


「あ、ハリソンさん、は……この後どのようなご予定で……?」

「護衛後、騎士団演習場へ戻ります。何か御命令とあれば何なりと」

「ッいえそんなとんでも!」

私は一般人なのに‼︎

心の中で叫びながら、思わず背筋がガチリと伸びる。両手を胸の前で何度も左右に振り、断る。兄さんの部下ということはわかっているけど、どうしてここまでしてくれるのかしら。

最初に騎士団演習場へ行った時、対応してくれた新兵を押し退けるように兄さんの元までの案内をと名乗り出てくれた。トランクを持って運んでくれるし手は取ってくれるし本当に至れり尽くせりとしか言いようがなかった。

まるで王族や貴族の令嬢のような扱いをされる度に、今も緊張で全身が強張ってしまう。


首も一緒に振る私に、ハリソンさんは眉一つ動かさずマフィンの最後の一口を頬張りきった。

お味はいかがでしたかと尋ねれば「柔らかかったです」と言われ、やっぱり味は駄目だったのかしらと思う。昔から料理は母さんや兄さんにばかり任せていたから自信がない。ヘレネさんに教えて貰うようになって差し入れしやすいお菓子とかは何とか少し慣れてきた筈だったのに……‼︎

気付けばもう完全にあのマフィンが失敗したのだとしか思えなくなってくる。

他に!他に!!と会話を繋ぐように鞄を掴み直しながら口を動かす。段々と沈黙にも耐えられなくなってきた。


「ほ、本当にお気になさらず……今回も、こうして手伝って頂けただけで感謝しています……。ありがとうございます、騎士さんも貴重なお休みなのに」

「いえ」

「〜っあの、今後も兄の頼みでも、もしご都合が悪ければ断って下さって結構ですので」

「いえ。副団長の御命令とあらば」

「…………」

なんだろう、会話が噛み合ってるようで噛み合っていない気がする。

目を向ければ一瞬で、ばちりと合ってしまう。目を逸らしてくれればお互い気まずいんだなとわかるのに、こうすぐに目が合うと余計にこの人の考えが見えない。どうしてこんなに真っ直ぐ目が合うの⁈

私と話したいようにも見えないし照れてるには目が合うしだからといって嫌われてるにしては優し過ぎる‼︎


「あ……兄に良くして下さりありがとうございます……?」

とにかく兄の命令ならそういうことよね??と思いながら嫌味にならないように言葉を選ぶ。私の為で来たと期待したわけじゃないとわかって欲しい。

ちゃんとわかっている。兄さんも期待も誤解しないように、あくまでハリソンさんが偶然休息日で、だから手伝いを頼んでくれただけと説明してくれた。たった一回しか会っていない私の為にそこまでしてくれるなんて夢を見るほど子どもじゃない。


「?いえ。〝良くして〟頂いているのは私の方です」

……一言以上が返ってきた。

顔を向ければ、少し首が傾いている。マフィンを出した時よりも遥かに意外そうな反応だ。

手伝って貰っているのはこっちなのにと思うけど、確かによく考えれば副団長の兄の方が部下の面倒を見ている立場でもある。

また何か返しを間違えたかもしれない……!!慌てて「そ、そうでしたね」と相槌を打ちながら居た堪れない。ここまで異性相手に会話が難しいのも初めてで、息が詰まる。

別にモテたわけじゃないけれど、人と話すのも仲良くなるのも得意な方だった自分を疑いたくなる。


「あ、安心しました。兄が副団長として部下の方に慕われているようで。……兄は、あまり手紙でも騎士団でのことは話さないので……」

「守秘義務があります」

「そ、そうですよね?だから私、騎士団の兄をあまりよく知らないんです」

「とても聡明かつ優秀という言葉では足りぬほど立派な騎士です。我が騎士団の活躍は騎士団長と副団長あってのものです。我が騎士団で副団長を尊ばぬものは居りません。ネル・ダーウィン殿も誇るべき兄君かと」

すごく喋った。

今までで一番たくさん喋ってくれた。目もさっきより少し輝いて見える。

声や口調こそ変わらず淡々としているけれど、口数の多さが熱をそのまま物語っている。当たり前のことだけど、この人は騎士なんだなと改めて思う。

副団長である兄さんのことだけはつまらなそうじゃない。……子どもの頃のアーサーがロデリックさんのことを自慢してた頃にも似てる。アーサーも、やっぱり根っからの騎士だったんだな。


そう思ったら、昔のアーサーを思い出して顔が緩んだ。ふふっ、と口を両手で隠しながらも声が漏れる。途端にハリソンさんがまた首を捻った。今度は少しわからないように眉が寄っている。兄を折角誉めてくれたのに笑うのは失礼だった。

いえ、ごめんなさい。と取り直す。別にハリソンさんのことを馬鹿にしてるわけでも、兄さんがそんなわけないと思ってるわけでもない。


「本当に、兄さんを慕って下さるんだなと。嬉しいです、私にとっても昔から自慢の兄なので。こうして騎士団でも兄を慕って下さる方がいると知れてほっとしました」

「はい。心よりお慕いし敬愛しております」

やっと、私からも自然に笑いかけられた。

なんとなく、荷車に乗った時とは違う気持ちで両膝を抱え座り直す。表情筋が一つも痙攣せずに笑える自分にほっとしながら、ハリソンさんに顔を真っ直ぐ向ける。今度は目が合っても気まずさを感じない。

兄のことを、こんなに真っ直ぐな目で慕って敬愛しているとまで言ってくれるこの一言が、改めてとても紳士で素敵だと思えた。


兄は、昔から騎士団のことをあまり話さない。

話すのも紹介してくれるのもベレスフォードさんぐらいで、騎士団の話なんて〝無事だ〟とか任務や遠征があっても〝大したことはない〟くらい。ベレスフォードさんがいるし兄さんなら大丈夫とは思っていたけれど、こんな風に慕ってくれる人を知ると兄さんは私が思っていた以上に人に囲まれた日々を過ごしているのだと思う。……本当に、良かった。

ベレスフォードさんと仲良くなるまでの兄さんは、一生私達の為に一人で生きるのかと思うような人だったから。


「これからも兄をよろしくお願いします。私や母、オリ……奥さんも、ずっと兄の傍には居られないので」

「この命に代えましても、必ず」

格好良いなぁ……。

そんなことを、ついまた思い惚けてしまう。真っ直ぐに目を合わせて躊躇いなく返してくれるから、きっと彼は本気なのだろう。

ギラリと紫色の眼光を鋭くしたこの人は、やっぱり騎士だ。

仲間の為に、民の為に命を掛けて戦う騎士団にいる兄に、いつ命を落とすんじゃないかと子どもの頃は心配もしたけれど、こんな心強い人達がいるから兄もベレスフォードさんもアーサーも今日まで無事でいられたのだろう。

兄の話題が一区切りすると、また続きは何をいえば良いかわからなくなる。だけど、今も気まずさも感じない。私に真っ直ぐと目を向けてくれるこの人に私も同じ時間目を合わす。


ガタガタと揺られる中、やっぱり会話の続きは紡がれない。真っすぐに見つめ合うだけでなのに、この時間がすごく贅沢だった。

段々と周囲も静かになって、城に近付いているのだと耳が拾う音だけで思う。あと少しで馬車が着く。さっきまでは早く着いて欲しかったのに、今はそれが名残惜しい。

城に付いたらその時点でこの人は兄さんと同じように騎士団演習場に帰ってしまう。ここからレオン王子殿下に商品を卸すのは私の仕事だ。


着いてしまう、と。そう思えば急に急き立てられる。

さっきまでのんびりと見つめ合っていた時間で、何かもう少し会話もすれば良かったと思う。沈黙になるまでお互いどんな会話をしていたかしらと考えながら、「あの」と主語もない言葉だけが先行した。

最後のハリソンさんとの会話を思い返せば、また変なことを理性とは別の部分が口走らせる。頭で浮かんだ途端、心臓が思い出したみたいにバクバク鳴り出すのに口が止まらない。

「わ、私のことも、もし事件とか巻き込まれたり、危険があれば。その、助けにき」




「そこで停まるように!!順次検問を行う!」




きてくれたりしますか。……の、言葉と同時に衛兵の声に上塗られた。

静かな揺れが来て、馬車が速度を落とし止まる。衛兵の声に雷を落とされたような気分で口を結ぶ。その途端、急激に身体中に熱が込み上げた。

思い切った言葉を途中で折られたことよりも、ちゃんと会うのはまだ二回目の相手に何を口走ろうとしてたのだろうと思う。足の指の先から頭の旋毛まで熱くてくすぐったくて、悲しくもないのにじわぁと目尻に生理的な涙が溜まる。どうしよう死ぬほど恥ずかしい。

せめてもっと早い段階で雷が落とされていればここまで恥ずかしくなかったのに。

ハリソンさんも口を開こうとするから、先に私から「あ、あっ。着いた、ようですね?」と無駄に大きい声で言う。ここで向こうから話しを逸らされたら居た堪れなくなる。これから交渉なんだからできるだけ平静でいたいのに。


逃げるように首ごとぐるりと回して「兄さんありがとう!!」と到着のお礼を先にする。

荷車から顔を出し周囲を見回せば、長い行列の先だった。時間帯もあって、ちょうど私みたいな用件で城に入城する馬車で混んでいる。当然だ、昨日は祭りもあったし城の中には使用人や王侯貴族も含めて大勢の人も住んでいるし、何より高級な貿易品や商会や王侯貴族の使いもいるに決まっている。


「ああ、いや。まだこれから時間もかかりそうだな。ハリソン、すまないがこっちに水を持ってきてくれないか?ネルが持っている」

兄さんの返事と続きに、私も慌ててバッグの中から水筒を出す。

馬車に乗った時、御者席で別れる前に軽食は兄さんに渡したのに水は渡し損ねていたと思い出す。たぶん馬車が動きを止めるまで水を我慢してくれていたのだろう。

「ごめん兄さん!」と叫びながら何も考えずハリソンさんに預ける。別に任せずとも私から届けに行けば良かったと思うのはその直後。私より大きな右手で受け取ってくれたハリソンさんに、やっぱり私が行きますと渡した手ですぐ取り返そうとした時。




「駆けつけます。必ず」




……消えた。

短い風で、弱い風圧で、それでもクラリとしてそのまま押されるように倒れ込む。

目覚めた時とは別の積荷に後頭部をゴンと打ちながら、一瞬の内にどこへ消えたのだろうと思う。何かの特殊能力か、それとも騎士ならではの足か、私があまりの衝撃に意識が飛んだか幻か。

真っすぐに目を合わせて、また淡々とした口調で言われて、嘘には聞こえない。

間違いなく今のは、私が途中で上塗られた問い掛けの答えだ。………そして、多分、あの人にとっては今のもきっとさっきまでの会話と同じ他意のない答え。私が兄さんの妹で、身内で、だからこそ絶対というだけ。………~~だけにしても、今のは、なんか!!


膝を抱えた状態から気付けば両手に力が入らずへたり込んでしまう。口が変に緩んで変な顔になって、積荷に寄りかかったまま顔を覆って動けなくなる。

一瞬で消えたハリソンさんが、御者席の方で兄さんと会話するのがうっすらと風に乗って聞こえた。聞き取れないくらいの声量で内容はわからないけれど、……嗚呼いま私はこの人の声を拾っているんだなと自覚した途端に胸が苦しくなった。

おかしい、こんな年で、もう子どもの恋愛なんかずっと前に区切りをつけた筈なのに、なんでこんなに一人で自分の感情に振り回されているのだろう。


〝嫌い〟の反対の言葉が何度も頭に浮かびながら、そんな思考になっている自分が恥ずかしい。

なるべく兄さんにそのまま御者席でハリソンさんを引き留めていてと声に出せず祈る。今の私のこんな顔見られたら全部終わってしまうくらい、恥ずかしい顔と血色だから。


この後、またこちらに戻って来たあの人になんて返事をすれば良いのかしら。上官の妹って分かった上で妙なことを頼んで「ごめんなさい」?それとも水筒を運んでくれたこととさっきの返事と纏めて「ありがとうございます」?もうどっちにしてもあの人は「いえ」の一言で顔色一つ変えないだろう。今なら確信してそう言える。

もう、この馬車の間だけでも何回似た言葉ばかりあの人に使っているのか数えたくもない。


それでも、次は「ありがとう」から始めようと。


そう心に決めながら、私は彼が戻ってくるまで一人荷馬車の中で悶え続けた。


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