前へ  次へ >>  更新
1864/1864

Ⅱ593.刺繍職人は向き合い、


「……あ。また黄身が……」


やっちゃった……。台所で一人呟きながら、急いでフライパンの中で割れた卵をぐるぐるとかき混ぜる。

目玉焼きを焼くだけだったのに卵を割った途端に黄身を破くのは人生でもう何度目だろう。火が通る前ならバレないからこのままスクランブルエッグに変える。ついでにミルクくらいは今から混ぜた方が良いかしら。


やっと荷解きも一区切りついたしと台所に立った途端にこれだ。昔から手先は器用な方だったけれど、裁縫や刺繍と違って料理は時々間違える。単純に経験領の差もあるだろう。

子どもの頃は母が料理はやってくれたし、私は刺繍に夢中で家事も裁縫や洗濯の方が好きだった。掃除は母と半分ずつで分担もできていた。休日に帰ってきてくれる兄の作る料理はとても美味しかった。


一人で国を出た後は刺繍の時間が一分一秒でも欲しくて、なんでも自分で手を加えずにすぐ食べれるものばっかり買っていた。

あとは友人の家でご馳走してもらったり、料理をしてくれる恋人がいた時期もあったっけ。友達と狭い部屋を共有したり、恋人の部屋に住まわせてもらった生活も最初は楽しかったけれど、結局は仕事と刺繍の勉強に忙しい日々が一番性に合っていた。フリージア王国にずっといる兄さんや母さんに紹介する前に自然消滅しちゃったけど。



国を追い出されるよりずっと前に。



「!ネルさんごめんなさい。私つい寝過ごしちゃって……!」

「おはようオリヴィア。話し方普通で良いってば。気にしないで、私もさっき起きたばかりだったから。昨晩は荷解き手伝ってくれてありがとうね」

起きて来た親友のオリヴィアは、本当に寝起きすぐで髪がところどころ跳ねていた。髪も纏めていないオリヴィアを見るのは私も久しぶりだ。

フリージア王国。十六になるまで生まれ育ったこの国に、私は帰って来た。前女王が革命で居なくなって、新しい女王は心優しい人だと城下では評判の王族だ。数年ぶりのフリージアは、昔とは別物のように荒れ果てていたけれど、それでも革命をしたばかりということもあって少し活気がある。二ヶ月ほど前は摂政でもある第一王子の誕生祭で、城下中がお祭り騒ぎだったとか。

オリヴィアと母さんからは、もっと早く帰ってくればネルもお祭りに行けたねと言われたけれど、……正直まだ兄さんの死にも上手く向き合いきれていない私には王族のお祭りにも前向きにはなれなかった。


フリージア王国の女王という脅威が消えてから、フリージア人である私は国を追い出されて仕方なく故郷に帰って来た。

お世話になった職場や友人と別れるのは哀しかったけれど、こうして実家で平穏な時間を過ごせると帰ってきて正解だったとも思う。どちらにせよ、女王が死んだと聞いた時から一度はフリージアに帰ろうとは思っていた。

兄さんのお墓にも花を添えたかったし、オリヴィアや母さん、クラリッサさんとアーサーにも挨拶したかった。


手紙を出すお金も暇もなく、荷物と一緒に実家へ突然帰った私を二人は泣いて歓迎してくれた。

「無事で良かった」「大変だったでしょう」「クラークさんの力になれなくてごめんなさい」と言ってくれた二人の言葉は、………どちらも私の方の台詞だと思った。

私は安全な国外にいた間、二人は兄さんの死にも向き合って、恐ろしい女王のいる城下にずっと住んで、革命まで経験したのだから。なのに特にオリヴィアは、兄さんの死をずっと自分の責任だと責めている。


荷開きよりも先に、帰ったその足ですぐ私は兄さんのお墓に挨拶にも行った。………オリヴィアと母さんが今日寝坊しているのも、きっとその所為だろう。兄さんのお墓の前で泣き崩れた私に、二人も一緒に泣いてくれた。


兄さんの死に方が死に方だったから、身内で小さく行った兄さんの葬式には騎士も参列もしてくれたらしい。

兄さんの後を継いだ騎士団長と副団長も、参列はできなかったけれど夜中にわざわざお墓に挨拶にきてくれたと聞いた。葬式の当日後日は、騎士がぽつりぽつりと入れ替わり立ち代わり兄さんの墓やオリヴィア達にも挨拶や謝罪に来てくれたと。「もし何か自分達に力になれることがあれば」「クラーク騎士団長の遺して下さったものは必ず御守り致します」「我々の力及ばず支えきれなかった償いを」と騎士の誰もが兄を慕い、心を痛めてくれたと。それを知ったのもつい昨日だった。………あの、手紙の騎士は何も言わなかったから。




『ネル・ダーウィン殿でお間違いないでしょうか』




まだ、ロウバイ王国で働いていた私に、オリヴィアからの兄の訃報を報せを届けてくれた騎士。

騎士だと、それだけは白の団服で一目でわかった。今までも兄はロウバイ王国に寄る予定の騎士や知り合いに手紙を預けてくれることがあったから、最初はそこまで警戒しなかった。久々の兄からの手紙だと少し心が浮き立つくらいだった。

最後にくれた兄の手紙は、フリージア王国の治安が落ち着いたら連絡するという言葉だったから。

けれど差出人は兄ではなくオリヴィア。胸騒ぎを覚えて急ぎ封を開けて中身を読めば、膝から力が入らずその場に崩れてしまった。手紙を届けてくれた騎士がその場で支えてくれなかったら倒れていたかもしれない。それにお礼も言えず、ただただ震える手で私は手紙を読み続けた。


読み終えた後もその場で座り込んだまま泣き続ける私に、騎士はただただ額が地につきそうなほど頭を下げて言い訳を一度も言わなかった。

ただ兄の死に狼狽える私が「どうして兄さんが」「また連絡するって言ってくれたのに」「待ってたのに」と溢せば、「申し訳ありません」と謝罪に続けた静かな声でそれに答えていた。

『クラーク・ダーウィン騎士団長は最期まで立派な騎士であらせられました。あの御方が居られなければ騎士団はとうに崩壊しておりました。騎士団長は、前騎士団長を失った我々を導くべく騎士団の復興と騎士団長としての任へと常に全てを注ぎ』


『つまり貴方達の為に死んだということでしょうっ!?……』


……聞いていられなかった。

本当に。決して彼は兄を悪く言っていなかった、寧ろ褒めて、私へ慰めにも聞こえる言葉だったのにあの時はただただ許せなかった。

兄が騎士として、騎士の任に全てを負われて死んだなんて。それが騎士の生き方で死んでも騎士の為なら仕方ないと聞こえてしまった。兄がどれだけ騎士団の為に必死になって働いて身も心も擦り減らして死んでしまったのか聞かされるのが苦しくて苦しくて聞くことすら耐えられなかった。

もう聞きたくないと大事な手紙を握ったまま耳まで一度は手で塞いだ。その騎士が、私が叫んだ途端口を閉じたのに私の頭は耳が拾う音よりもずっと煩かった。兄が死んだというその事実すら聞きたくなかった。


『貴方はっ、貴方達は騎士は何をしていたの?!兄さんは昔からずっと何でもできてっ!過労死なんてっ………そんな死に方するような人じゃなかった……!』

塞いだ耳の隙間で薄く「我々は」と説明しようとした騎士の声もそのまま私が上塗った。

なんでもできてなんでもやってくれた兄だけど、身体を壊すほどの無理なんてしたことがない。騎士団に入団だって労なく最年少で叶えてしまった兄は自慢だった。私とは出来が違うのだと憧れたし尊敬もした。そんな人がどうして過労死なんてと信じられなかった。


兄は騎士団長だったけれど、それなら副団長や大勢の騎士だっていたのにと。彼らは兄に全てを押し付けたのだとあの時は思ってしまった。

何でもできてしまえる兄は、ベレスフォードさんの遺した騎士団をきっと少しでも立て直し、守りたかったのだろうと今ならわかる。兄にとって、ベレスフォードさんは無二の親友だったから。

こんなことになるなら騎士なんて辞めさせれば良かったと。涙でぐちゃぐちゃの声で口から零れた。兄にいくら止められても、会いに行けば良かったと思った。会いに行って、兄に会えばもうこれ以上はと気付けたかもしれない。兄妹の縁を切られても無理を言ってでも騎士団なんて辞めて貰えば、今も兄は家でオリヴィア達と静かに過ごしていた。あの兄なら騎士団なんか以外にも働いていける術はいくらでもあった。いっそ母さん達と一緒にロウバイ王国に呼べば良かったと本気で思った。フリージアなんか、ずっと前から悪評が広まっていて騎士団の評判も悪くなる一方だったのに。

『大変申し訳ありませんでした。仰る通り、全ては我々の力不足故です。ネル・ダーウィン殿のお怒りは尤もです。あの御方は本当に騎士としても人としても素晴らしい御方でした。私も心より騎士団長を慕いそして敬愛して』




『〝敬愛〟なんて言葉で誤魔化さないでっ……!!貴方が兄を死なせたことは変わらない!!!!』




慕っていればなんでも許されると思っているように聞こえて仕方なかった。

あの時、初めてその騎士が息を引く音を聞いた。

初めて兄の妹である私を前にしても、私が手紙を読んで崩れ落ちても決して揺らがなかった人だったのに。今思えば逆上されてもおかしくない、酷い責任の押しつけだ。喉がガラついて金切り声のようにも聞こえただろう叫びに、その騎士は否定をしなかった。

言った直後も自分が酷いことを言ったことはわかっても、感情が思うままに抑えられなくて訂正どころかそのまま声を上げて嘆き続けた。子どもしか泣かないような声の上げ方で、雇われていた店の前だったのにも関わらずぐちゃぐちゃの顔で泣き続けた。

「申し訳ありません」「申し訳ありません」と何度も何度も淡々とした声で同じ言葉を繰り返されれば安っぽくすら聞こえた。

泣き崩れる私に、ずっと頭を垂らしてその場から動かなかった騎士はどれだけの時間どれだけの人にあそこで奇異や蔑みの目で見られただろう。あの人は手紙を届けてくれただけなのに。


『っ………もう、良いです……兄は、兄が………騎士団を選んだのは、きっとそれだけは兄の意思だからっ……』

ひとしきり泣いて、まだ涙も止まらないまましゃくり上げた喉で、途切れ途切れにやっと言葉を言えたのは、大声で喚き散らしたその大分後だった。

いつまでも目の前で謝罪と低頭を止めない騎士に、兄が死ぬまで大事にしただろう騎士にこれ以上謝られるのも嫌になった。「もう謝らないで下さい」と上擦った声で言えば、すぐに彼は頭を上げた。私がこれだけ泣いて嘆いたのに、片膝を付き頭を下げ続けた彼は涙の一つすら見せないのがあの時は無性に腹立たしかった。きっと酷い目で睨んでしまっただろう。

現れた時と同じ、まるで死人のような目で私を見返したその顔が、私が最後に見た彼だった。


オリヴィアや母さんが何も知らずに、何も止めなかったわけがない。兄は兄の意思で、自分の命を削ってでも騎士団を選んだのだとそれだけは遅れて理解した。兄の選択に、私も、母さんも、オリヴィアも、そして目の前の騎士も騎士団も誰も抗えなかった。………誰も、力にはなれなかったのだと。

「だから」と、もう早く目の前の騎士に消えて欲しくて仕方なくて、最後の最後にまた泣くしかできなくなる前に私が彼に、オリヴィアからの手紙を届けてくれた、兄を慕っていたと言ってくれた、立派だったと敬愛したと言ってくれたその人に放った言葉は






『もう二度と私達の前に現れないでっ……!!』






お願い、と。枯れた声で希った。

関わらないで、近づかないで、顔も見たくない、許せない。そんな言葉ばかりが内側で渦巻いて。

今はもう、後悔してもし足りない。けれどあの時の感情で、精一杯に抑えた言葉がそれだった。

兄が死んだ理由になった騎士団が許せなくて、世界で一番辛い知らせを持ってきたその人を呪って、兄を慕っていたと言いながら力になれずに死なせたことが憎かった。

兄が死ぬまで騎士団に尽くしたというのなら、もう二度と騎士団は私達に関わらないで欲しかった。私だけじゃなく、兄さんを失って苦しんだオリヴィアや母さんにも、騎士団の誰にもこれ以上私の大事な人の人生を掻き乱されたくなかった。兄の面影が映る団服すらも、目に入るだけでただ胸が苦しくなるだけだったから。

酷い言葉に重ねて、謝罪ではなく懇願した。顔を覆って、目の前の騎士を視界にいれるのも拒絶した。騎士団に兄の大事な友人も、兄本人も奪われたとしか思えなかった私は、いつの間にか目の前の人を兄の仇のように扱ってしまっていた。


『……承知致しました』


その言葉が最後だった。

淡々と聞こえた小さなその声の後、短い風が私の顔をうっすらと冷ました。顔を上げれば、もうその人は消えていた。

私の言葉の通りに、そして一瞬のことだった。最後の最後まで私に言い訳の一つもせずに消えてしまった。あまりにもあっけなく消えてしまった彼に、あの後も私はただ一人泣き続けた。

仕事の同僚が私だと気付いて飛び出してきてくれるまでずっと声を上げて泣き続けた。あの時は私の言葉通りに消えた騎士をまた恨んだ。店の中に戻っても、部屋に帰ってもずっと涙が止まらなかった。


今思えば思うほど、本当に彼には酷いことを言ってしまったと思う。オリヴィア達の話を聞けば、騎士団がどれだけ兄のことを想ってくれたかも、どれだけオリヴィア達に誠意を尽くしてくれたかも綺麗に受け止められたのに。

一度謝罪したいとは思ったけれど、名前も聞かなかったあの騎士が誰なのか全くわからない。兄さんの死が苦し過ぎて、当時の騎士の顔すらもちゃんと思い出せない。手紙をわざわざ届けてくれたことの感謝すらも言えなかったあの人を。……ただ、酷い顔色だったと後から思った。

一体どれだけの無理を強いて、私の元に手紙を届けてくれたのだろう。


「………ねぇ、オリヴィア。私への手紙を請け負ってくれた騎士って、名前とか覚えてる?」

「どう……?だったかしら。クラークさんを慕ってくれていた騎士の人だったのは覚えていますけれど。あれから一度も会っていないので」

兄さんを亡くして慌ただしく、騎士も何人も挨拶に来たから顔も思い出せない。手紙を無事届けたことも、本人ではなく代理の新兵が報告に来たと。

オリヴィアの言葉を聞いて、胸が引っ掛かった。本当にあの人は、私達の前に二度と現れる気がないのだろうと思う。酷い言葉を浴びせた私への怒りの表れか、………それとも。


「ネルが……、ッ!じゃなくてネルさんが気になるのならクラリッサさんに聞いてみましょうか?いまアーサーが騎士団長だから、きっと相談にも乗ってくれると思います」

「オリヴィア、だから普通で良いってば。………でも、そう……。アーサーが………」

ベレスフォードさんの息子のアーサー。

子どもの頃は何度か会ったこともあるけれど、あの子が今は騎士団長なんて。………お父さんの、そして兄さんの跡を継いだのだと思うと何だか感慨深い。

子どもの頃は騎士になるのは止めたと言っていたのに。やっぱりベレスフォードさんを亡くしたのがきっかけだろうか。

確かに騎士団長だったら、調べればわかるかもしれない。兄さんの時から騎士だった人なら絞られるだろうし、アーサーが尋ねれば名乗り出てくれるかもしれない。


昨日兄さんのお墓の前でもそうだったけれど、オリヴィアも、そして母さんも兄さんの死には未だに涙が出るくらい傷は深くても、騎士団に対しては全然しこりもないようだった。

アーサーが騎士になれたこともこうして話していて嬉しそう。頼み事もできるということは、クラリッサさんと一緒に今も仲良くしているのだろう。

今も騎士団の人が、兄さんの命日には挨拶にきてくれると。命日以外にも度々花を添えに来てくれる騎士がいたと穏やかな笑顔で教えてくれた。オリヴィア達が近づくとすぐにいなくなってしまうけれど、兄さんのお墓の前に佇んでいる背中は間違いなく騎士だったらしい。その後には必ず花束も置いてあって、その花も兄さんの葬式でオリヴィア達が供えたのと同じ兄さんの好きな花だったと。ここ半年はぱたりと来なくなったらしいけれど、………本当に兄さんは騎士団に慕われたのだと思う。


「………でも、やめとく。実は、あの時私すごい失礼なことを言ってしまって。兄さんが死んだことに取り乱して、………もう顔を見せるなみたいなこと言っちゃったの」

「なら、余計に会った方が良いんじゃないですか?今からでも」

「ううん。………きっと、あの人も私の顔なんて見たくないと思うから」

私から見せるなと言ったのに、今更気持ちが落ち着いたから会いたいなんて虫が良すぎる。

どれだけの苦労で、あの人も慕っていた兄を失ったばかりの足で手紙を届けてくれて、あんな罵詈雑言を浴びせられたのだから。それを数年ぶりに会うアーサーまで巻き込んで無理矢理炙り出したくない。

あの時をやり直したいだけの私一人の自己満足なんだから。騎士団長のアーサーや、慕っていた兄の妹である私に謝られれば、きっと許すしかできなくなる。あの時だって言い訳一つせず消えてしまった人だもの。

この罪悪感は、ちゃんと私が消さずに持っているのが正しい。


〝ごめんなさい〟〝ありがとうございました〟なんて言わせて貰える資格、私にはない。





………










ガタンッ。


「………?」

突然の振動に、ぼんやりと目を開く。………あれ、私いま何を……?

ガタガタガタと、緩い縦と横揺れの振動を感じながら自分が何をしていたのかわからなくなる。なんだか頭がぼうっとして、………あまり、考えられない。どうしたのかしら。夢………?


身体を揺さぶる振動と、両膝を抱えて小さくなる身体で固まっている。なんだか気持ちが落ち着かなくて、夢でも見たのかとは思うけれどどんな夢かも思い出せない。急に放り出されたような感覚で、すっきりしない。

瞬きを二回して、目の前の景色が次々と遠ざかっていくのを見る。ガタガタと揺れるのが私だけじゃなくて周囲の積荷だと思った時、ああそうだ今は積荷を運んでいるところなんだと思い出す。


プライド様を通して御紹介頂いたアネモネ王国。その第一王子へ売る為に、商品にしたい作品全部を積めて兄さんの借りてくれた馬車に詰め込んだ。兄さんは御者と一緒に操縦席で、私は荷物と一緒に荷台に乗り込んだ。

ヘレネさんが送り出してくれた後、すぐに転寝しちゃったらしい。昨晩も遅くまで荷造りをしていたから……。

目を指で擦り、寄りかかっていた状態から顔だけ上げる。ふわりと欠伸を零す前に片手で口を押さえた時。



「お目覚めですか」



至近距離で、見覚えのある騎士さんと目が合った。

きゃあッ!!と、思わず短い悲鳴が喉から張り上がった。大きく背中ごと仰け反って倒れてもおかしくない角度になったのに、その角度のまま止まる。違和感のある感触に遅れて気付けて振り返れば、まさかの片腕で抱き留められていた。

あまりのことに身体が強張って、何かの間違いだと首を左右に回せば私の隣に座る彼に肩まで腕をしっかりと回されていた。余計にわけがわからなくなって、あまりにも顔が近すぎる騎士にぱくぱくと魚のように口を開けては閉じる。

顔を中心に熱が上がってくるのを感じながら、必死に自分へ落ち着いて聞かないとと言い聞かせる。すると、私よりも先に御者席の方から問いが投げられた。兄さんの声だ。


「どうしたネル?ハリソン!そっちで何か起きたか?」

「妹君が目を覚まされました」

私がうっかり声を上げてしまった所為で、兄さんにも心配を掛けたらしい。

御者席に向けて声を張るハリソンさんの横顔に、心臓が遅れてバクバク言う。ここで兄さんに叫んだら大変な事態になるかもしれないと頭に過ぎる。


荷物の番の為に一緒に荷台に乗ってくれたハリソンさん。兄さんの部下で、八番隊の副隊長という彼は学校でも王族の護衛で目にしたことはあったけれど、実際に話してみればとても丁寧で誠実な人だった。その人が、何故か今は私の肩を抱いている。

うたた寝する前は、間違いなく私は彼の反対側にいた。というか、私が反対側に座った。積荷がいっぱいでもともと隙間が空いてる場所が少なかったから、反対側が一番距離も空いて落ち着いた。

口を開いて閉じて、先ずは確認からと掠れた声を絞る。服越しの腕の感触を意識したら駄目。


「あ、あの……ハリソンさん?こここここここっこの腕はどういうおつもりで……?」

「仮眠を取られたネル・ダーウィン殿が、馬車の揺れで積荷に何度も頭部をぶつけようとされておられたので保護させて頂きました」

私の所為だった……。

「なるほど」と、枯れた声で言葉だけが冷静に出た。

顔がじんわりと火照る中、泳ぐ目の動きだけで周りを確認する。背後には積荷、ハリソンさんとは反対隣も積荷、そしてガタンガタンと今も揺れる馬車。もともと積荷に背中を預けていたのは私で、今はハリソンさんの回してくれている腕が枕代わりになってくれている。

頭をぶつけようとした積荷へ私が頭ごと倒れないように、肩から掴み支えられていた。そして今も、変わらずしっかりと支えられている。


「ごごご、ごめんなさい私大声なんか出して酷い勘違いを……」

「?いえ」

やっぱり早まらなくて良かった!

真摯な方だったしと思い留まったけれど、そうでなかったら兄さんへ騒ぎ立てていた。

謝罪する私に眉一つ変えないでくれるこの人に感謝する。寝ている私にわざわざ親切にしてくれたのに、変なことをされたと勘違いした自分が恥ずかしい。

「もう大丈夫です」と失礼にならないようにハリソンさんの腕を下ろさせてもらう。私が手を添えれば、すんなりと下ろしてくれる彼に余計恥ずかしくなる。本当の本当に他意がなかったのだと思い知る。……まさか期待してたわけじゃないけれど。


すりすりと両手で床に手をつきながら、なるべく早くハリソンさんから距離を取る。全く気まずそうにしないハリソンさんが逆に気不味い。

視線を景色へ逃そうとすれば、そこで荷物の存在を思い出す。兄さん達に積んでもらった箱の方じゃない、ヘレネさんと一緒に用意した方だ。

いつものトランクではなく、城に入るに恥ずかしくない一番上等なバッグにしたけれど中身は上等とは程遠い。転ばないように両手足で進み、バッグの紐を掴んで引き寄せる。


「あ、あのっ……ははははハリソンさん、こちら宜しかったら召し上がってください……!」


Ⅱ362

 前へ目次  次へ >>  更新