157.暴虐王女は理解し、
「プライド様…御体調の方はいかがでしょうか…?」
ぽかん、としていた頭に声が掛けられる。
声のした方を振り向けばカラム隊長だ。宿屋で貰ってきてくれたのか、湯気の上がった紅茶を片手に私を覗きこんでくれている。
「その…宜しければ、こちらを。お口に合わなければ結構ですので。」
紅茶の蒸気のせいか、カラム隊長の頬が仄かに火照ってる。
宿屋の方はもう手続きを終えました。と報告してそのまま私に紅茶をそのまま差し出してくれた。カップを受け取って覗き込めば紅茶の香ばさに頭がすっとする。思わずほっと肩の力が抜けた。
ふと、そこで気になって顔を上げて周囲を見回すと侍女二人とカラム隊長以外誰もいない。私の視線に気がつくようにカラム隊長が小声で「アランとエリックは、アーサーを連れられたステイル様を探しに行きました。ヴァルは、最後の荷を取りに行っているところでしょう。」と教えてくれた。
気がつけば馬車には殆どの荷物が運び込まれ、整備も既に済まされているようだった。一体どれくらい呆けていたのだろう。
頭を整理する為に紅茶を一口だけ口に含む。優しい香りが口いっぱいに広がってほっとする。
「…す、…少し、落ち着きましたか…?」
カラム隊長の声に顔を上げ、首を傾げる。
そのまま、自分が何故こんなに呆けていたのかを思い出し
また顔が熱くなった。
ボンっと頭の中で音がするように火がつく。私の顔色が変わったことに気がついたカラム隊長が慌てたように「も、申し訳ありません‼︎」と謝ってくれる。
「い…いいえ!違うの、私こそごめんなさい。その、さっきはご迷惑をお掛けしました…。その、みっともない姿を…。」
なんとか頭が回り、急いで謝る。でも、思い出せば馬車の中から既に残念な姿を皆の前に晒していたことに気づき、更に顔が熱くなる。
「とんでもありません!その…レオン第一王子のことも、突然でしたから。」
レオン様の名だけ小さく呟きながらカラム隊長が笑ってくれた。その笑みに応えながら、ふと先程のレオンの言葉を思い出す。
…〝初恋だった人〟と。レオンは言ってくれた。
どういう意味なのか、わからない。
ゲームのレオンとプライドには、少なくともゲームをしている間に恋愛感情は全くなかった。
恐怖で支配する者と支配される者、それだけだ。レオンを言葉と権力で縛っていたプライドも彼のトラウマを突く為に〝嫉妬〟や〝愛してる〟という言葉を多用したけれど、全くそこに本音は感じられなかった。ティアラがレオンルートに行っても、プライドは自分の玩具を取られたことと、ティアラへの憎しみや見下し以外は婚約者を奪われたというような他の攻略対象者と違う特別な感情などはなかった。
そして、レオンもまた同じだ。
プライドを恐怖の対象としていただけで、愛情など少しもなかった。自己中心で残虐なプライドに対しては、心優しいレオンすら全く同情もしなかった。ティアラへの恋心が芽生えた時もそこに罪悪感は全くなかったし、むしろ自分が好意を持ったことでティアラが傷つけられることばかりを案じていた。
プライドを断罪する瞬間まで、彼の目にはプライドは〝婚約者〟ではなく〝倒すべき敵〟でしかなく、プライドにとってもそうだった。
なのに、…何故。
〝初恋だった人〟…その言葉の意味は。
頬に口付けしてくれた、その意味は。
ゲームで語られなかっただけで、実は一目見た時からレオンはプライドに恋心を寄せていたのだろうか。
プライドが凄く彼の好みのタイプで、そこから酷い目に遭わされただけでずっとそれまではちゃんと好意を寄せていたのだとしたら。…私は知らず知らず彼の好意を踏みにじっていたことになる。
口付けされた口元の横がまだ少し熱い。
掻き上げられた髪が、耳がまだ疼く。
カラム隊長に話しかけられるまでずっと、レオン様の事で頭がいっぱいだった。
こんなにレオンの事で頭がいっぱいになるのなら、プライドは、私は…彼にちゃんと恋をすべきだったのだろうか。
地味に生きていた前世と、恋愛に全く縁のなかった今までで、恋が何なのかは未だわからない。
婚約解消は間違っていなかった。それだけは断言できる。
ただ、ゲームで仮にも婚約関係だったプライドとレオン。
そして、別れ際に私へ好意を伝えてくれたレオン。
なら、私はちゃんと彼の好意にー…
「…応えて下さったのだと思います。」
は、とまだ呆けてしまったことと、考えていた言葉の返事が返ってきたことに驚き、振り返る。
見れば、カラム隊長が優しい眼差しのまま、微笑んで私を見つめてくれていた。一瞬、空耳だったかとも思ったけど、その瞳は確かに私へ向けた言葉だと物語っていた。
「レオン第一王子は、プライド様を〝初恋だった人〟と呼んでおられました。…それほどに、プライド様からの行いは大きかったのでしょう。」
私がした行い…?
それは、一体何のことなのだろう。
婚約解消がそのまま〝初恋〟に繋がるなんて到底思えない。
「頬の口付けの意味は〝親愛〟〝厚意〟…。そして最後にはプライド様のことを〝愛しき人〟ではなく、〝初恋だった人〟と呼ばれました。」
カラム隊長が、静かに私の手を取る。貴重品に触れるように、畏れ多そうに指先からそっと触れてくれる。紅茶で暖められた指先は、カラム隊長の手袋越しの指先を少し暖めた。
「もし、私がレオン第一王子ならば…このような意図で、プライド様へ頬に口付けとその言葉を贈ります。」
仄かに紅潮した頬で私を真っ直ぐに見つめてくれる。風が、彼の赤毛交じりの髪を揺らした。
「〝己が心も、誇りも、愛も、全てを取り戻して下さった貴方を愛しました。感謝を込めて、私の特別な愛を貴方に贈ります。結ばれることが無くとも、この感謝と…今この瞬間の愛だけは、間違いなく貴方のものです。〟と。」
世界が、華やぐ。
カラム隊長の言葉に全身が泡立つ。
目の前の霧が晴れたかのように、視界が広がった。
やっと、レオンのあの言葉と行為を理解する。
彼は、愛してくれた。
ゲームの世界や設定など関係なく、私という人間を。
その感謝を、彼は形と言葉にして私に贈ってくれた。
自国とその民に愛を注ぐ彼が、私に特別な愛情を贈ってくれた。
それは、とても嬉しい。
きっとこれはまだ、恋とかじゃない。
それでも、彼がゲームのプライドではなく私という人間にそこまで好意や感謝を向けてくれたことが嬉しい。
ゲームでは彼を不幸にすることしかできなかった私が、彼にそんな特別な感情を贈って貰えたということが嬉しい。
「プライド様はお気付きではないかもしれませんが、私達の目から見てもレオン第一王子へ多くの厚意や愛情、慈悲をお与えになっておられました。きっと、レオン第一王子はその全てに、…今できる全ての形で応えて下さったのだと思います。」
…応えてくれた。
カラム隊長の言葉に胸がぎゅっと熱くなる。
恋をすべきだったかとか考えた自分が恥ずかしい。
私が応えるべきだったとかじゃない。
私の想いに、国と民と幸せになって欲しいという私の願いに応えてくれたのはレオンの方だ。
そして、私はあの時確かに受け取った。
「…ありがとうございます。」
変わらず優しい眼差しを私に向けてくれるカラム隊長に感謝を込めて、心からの笑みを彼に向ける。目を見開いて照れたように顔を火照らすカラム隊長の肩が大きく上下した。
私の手を取ってくれたカラム隊長の手をゆっくり握り返す。その途端、驚いたようにカラム隊長の指が小さく震えた。
「本当に…アーサーの言った通りの素敵な御方ですね。」
…あの夜、アーサーが話してくれた言葉を思い出し、思わず笑みが零れる。
『カラム隊長は、すっげぇ人で…昔っから人の気持ちとか、奥底の想いとか悩みとか…そういうのに気づいて、答えをくれる人なんです。』
こんな素敵な先輩がいるなんて、アーサーや騎士の人達は本当に幸せ者だなと思う。
そんなことを思っていると、次第にカラム隊長の唇がわなわなと震え、どんどん顔が真っ赤になっていく。
「もっ…勿体ない御言葉です…‼︎」
思わずといった様子で顔を俯かせるカラム隊長が、紅茶を持ってきてくれた時とは別人のようでつい笑ってしまう。
顔が赤毛交じりの髪よりも真っ赤になっていて、王族に褒められるだけでそんな恐縮してしまうなんて凄く真面目な方なんだなと思う。