そして染まりつつある。
「私の兄、騎士団の副団長だから」
「…………………………」
ついさっき居心地が良くなってきた筈のグレシルの空気が、自分だけ重くなる。
笑顔こそそのまま維持できたが、嫌な汗が買ったばかりの服を湿らせた。目の前の女性が何の悪気もなく言っていることはわかるが、一気にネルを見る目が変わる。
ふわふわした雰囲気と平和ボケした気配しかない女の背後に。決して敵に回してはいけない、顔も知らない騎士団副団長の陰を見る。
まさかこの女が……‼︎と心の底で追うように、さっきまで自分が無視して態度が悪かったことも後悔し始める。監視下としか把握していなかったが、こうなると自分の態度まで首にかかってくるのではないかと恐怖が襲ってきた。
固まるグレシルに、「どうしたの?」ときょとんと小首を傾げるネルは彼女の焦燥にも気付かない。手を取られた可愛らしい細い手を自分からもぎゅっと握り返すが、グレシルにはそれが手錠を掛けられているような錯覚を覚えさせられた。
「な?グレシルちゃん。………信じられるか?これでネルちゃんも〝あの〟ジャンヌちゃんからの紹介なんだぜ……?」
あまりにも分かりやすく硬直するグレシルに、ライアーの方が落ち着きを取り戻した。腕を肩へと回し、途中からは彼女にしか聞こえない声で囁く。
グレシルのような前科者も紹介すれば、騎士団副団長の妹の紹介もジャンヌだという異常さは、同じ裏稼業で生きて来たグレシルには全て綺麗に通じる。
ヒュッと喉が変な音を立てた彼女へと続けて「だから良い子にしとけ?ヤベェから」とライアーが二度目の念押しを優しくすれば、彼女もこくんと頷いた。再び良い子ちゃんの皮を被るべく肩の幅を狭めて視線が俯く。
突然グレシルにくっつき至近距離に顔を近づけたライアーに、そこでディオスとクロイも我に返る。「あ!手ぇ出した!」とディオスが最初に指を差す。
「大丈夫?!やっぱりライアーに変なことされたの?!」
「おじさんちょっとくっつき過ぎ、離れて」
「ッおいこら双子!!やっぱりってなんだやっぱりって!!あと何度も言うが俺様はおじさんじゃねぇ!!」
ライアー様と呼べ!!と声を張るライアーに、ディオスもクロイも無視をする。
そんなことよりもと、テーブルからグレシルへ前のめりになる。ライアーの冤罪に欠伸を零すレイも、味方にはなる気はない。話題がグレシルに逸れた時点で、持参した本をまた開いていた。
レイのその反応に、ライアーも台所へ戻るついでに頭を鷲掴む。「お前もちょっとは弁護しろ!!」と怒鳴りながら背後に流した翡翠と黒の髪を掻き交ぜれば、流石のレイも声を上げた。何しやがる⁈と悪態を尽けば、あと少しで本が燃えかかったところをなんとか抑える。
代わりに歯を剥き出しに、拳の甲をライアーへとそのままぶつける。
「日頃の行い振り返れ馬鹿が!!」
「いっちばんテメェには言われたくねぇわ兄弟!!!俺様今は心入れ替えた超絶善良な一般人だっつの!!」
ぎゃいぎゃいといつもの言い合いを始める二人に、ディオスとクロイも同時に肩が落ちる。
もう良いやと、自己完結しながら改めてグレシルを見る。レイ達が騒いでいる内にと、今度は声を少し抑えてから「「本当に大丈夫??」」と双子で意図せず言葉が合わさった。
真剣な眼差しと、その横で眉を垂らすネルにグレシルも今度は慎重に言葉を選ぶ。既にジャンヌからも警告されレイにも釘を打たれ、あの仮面の下を見た上に今度は副団長の妹だ。ここで思わせぶりの発言をするほど馬鹿ではない。
首を縦に振り、少しまだ緊張で引き攣った顔でも平静を装う。
「大丈夫」と言いながら、ちゃんとお互いの無実を言葉にした。
「別に何もされてないわ。脱いだのは………ちょっと、勘違いしただけ」
まさかそういう仕事と思い込んで乗り気になったなど口が裂けてもこの場では言えない。
グレシルの言葉にほっと息を吐く音がそれぞれ複数重なった。良かった、なんだー、と口にしながらも一部頭の隅ではどんな勘違いをすればそんなことになったのかも引っ掛かる。しかし明らかに言いにくそうにするグレシルに尋ねるのも憚られた。
唇を小さく尖らせ目を全員から逸らす彼女は、脅されているようには見えなければまだ何か隠したがっているように見える。
グレシルからの取り合えず冤罪証言に、最も深い息で安堵したライアーも「だよなだよな??」とまた取り急ぎいつもの調子で笑いかける。自分の立場が危ぶまれた所為でうっかり「そうですよね安心致しました」と猫かぶりを口走りそうな舌を発言前にこっそり噛んだ。
「よっしグレシルちゃん!誤解が解けたところで一緒にこっち手伝ってくれ!なっ?やっぱ女手ある方が俺様もやる気出るしよ」
「は?なんで私がやるの?料理で女なら私以外にもー……」
ぷつんと、そこでグレシルの唇が止まる。
勢いのままライアーに手を掴み引っ張られても対応できなかった。使用人という立場とはいえ、ここには食事を食べにきた側な上今日一日疲れたのに働きたくない気持ちが疲労感の所為で前に出た。
料理は女の仕事、使用人の仕事、立場が低い奴の仕事という意識のままにもう一人の女性を目で差したが、すぐに彼女の背後の大物を思い出し息を飲み唇を絞る。気まずさから逃げるように気付けば椅子から立った。
私?と縫物の手を改めて動かすネルに代わり、今度はクロイが「ネル先生は良いの」と頬杖を突いた。
さっきまで大人しいだけだったグレシルが、今軽く口の悪さを出したところを見逃さない。ジャンヌの紹介と思えば良い子でも納得できるが、本人が前科者でしかもレイとも知り合いだったジャンヌを考えれば彼女が良い子なのが絶対とクロイは思わない。
正体が王族で憧れのプライド様でも、ジャンヌはジャンヌである。
むしろレイの翡翠色とは少し異なる緑がかった青の髪とはいえ、黙っていれば似ている雰囲気を醸すレイとグレシルを見比べれば勝手に頭が巻き込み似たような性格の悪いイメージもグレシルに抱いてしまう。脱いだのももしかしたらレイみたいに誰かを困らせる為だったのかな、と適当に推理しながら一足先に落ち着いた眼差しをグレシルへと向ける。
「ネル先生はちゃんと食費払ってるし今日は部屋の整理で疲れて忙しかったんだから。……良いんじゃない?姉さんとその人二人きりでやられるよりずっと安心」
「あっ確かに!でも何か変なことされそうになったら言ってね!僕とクロイが助けるから!」
毎日毎回、ヘレネと料理を担当しては仲睦まじくするライアーと、そして「お料理は任せて」と自分達の介在を断る姉に困っていたクロイにディオスも同調する。
グレシルが今後使用人をやるというのなら余計に、料理は必要な科目だとも思う。
学校で選択授業のありがたみを知っている身としては、ここで姉から教わるのは彼女にも得になる。今後彼女がレイの元で働き続けるにしても、他のもっとまともで普通の雇用主の元で使用人をやるとしても、やはり技術が一つや二つあることに越したことはない。
将来の為にも使用人としての選択授業を取っている二人は、下級貴族やちょっとした程度の富裕層は使用人へ料理担当を課すことも知っている。自分達は学校の授業で習えるが、学校へ行かず住み込みの使用人で働くことを選ぶ彼女には、良い機会だ。
そのまま善意からディオスが「姉さん!グレシルに料理教えてあげて!!」と声を上げれば、ヘレネも満面の笑みだった。あら嬉しい、楽しそうと両手を合わせる彼女の元へライアーが若干強引に引っ張っていく。
まさか自分まで台所に呼ばれるとは思いもせず、立ったは良いもののそのまま踵に力を込めていこうするグレシルは僅かに声が上擦った。
「わ、私料理なんかしたことないってさっき……パン!その、パン焦がさなきゃ良いんでしょ?」
「俺様としちゃあグレシルちゃんの手料理のが大歓迎だぜ。いや〜朝から手料理なんて夢みてぇじゃねぇか」
「毒入りにするかもよ⁇」
「俺様はグレシルちゃんの手料理で死ねるなら悪くねぇなぁ。けどレイちゃんは怒らすなよ?」
「…………」
抵抗したいままに本性の口調になるグレシルに、ライアーもそのまま返す。
レイの家で見たあの惨たらしい左半分の顔を思い出せば、これ以上自分の顔を醜くされるのはグレシルも絶対嫌だった。
ならレイを毒殺してやろうかと口先だけでも悪態を吐こうとしたグレシルだが、発言するより前にライアーから「レイちゃん死んだら俺様がグレシルちゃん殺しちまう」と冗談じゃない目とにやけ面で言われてしまう。
ギギギッと歯を食い縛るグレシルと、そんな彼女にも満面の笑顔のライアーのやり取りにディオスも肩の力が抜けた。なんか思ったより仲良さそう、というのが正直な感想だった。
ずるずると台所に引きずられるグレシルに、ヘレネも顔を綻ばせて迎え入れた。グレシルちゃんお料理苦手なの?と微笑みかけるヘレネに、グレシルも仕方なく唇を尖らせた。
しぶしぶと手を洗うところから覚え始める彼女は、気付けば新たな空間で薄く息を吐いた。