そして避ける。
「……主。俺の香水か?」
「?そうですけれど」
香水事件から半年後。
配達に訪れたヴァルはいつものように客間の床でくつろぎながらプライドを迎え、すぐのことだった。
配達物を受け取るプライドを前に、片眉を上げたヴァルからの唐突な問いかけに彼女と今はきょとんと瞬きで返す。既にヴァル達と約束している日に合わせての使用四度目である香水に、指摘されたところで今更だ。
やはりヴァルの香水は特徴的な分すぐに嗅ぎ分けができてしまうと思いつつ、だからといって使うのをやめようとは思わない。
親しい人達の香水というだけでなく、香り自体もプライドにとってお気に入りの部類である。
セフェクもケメトも自分をイメージした香水は良い香りだと喜び、ヴァルの右袖と左袖にそれぞれつけさせたほどの気に入りっぷりだったが、結局実際にプライドがつけてきても自分の香水だと気付く時と気付かない時がある。しかしヴァルの香水の場合は確実に気付きしかも毎回褒めて喜んでくれる為、プライドもつける時はなるべく三人に会える日に合わせるようにしている。
しかし、この香水をつける度に口数が少なくなるヴァルを見ると、やはりお披露目した日のことを思い出して根に持っているのかなと思う。
香水を真正面から吹きかけられ、さらにセフェクとケメトの香水を右袖左袖にも少しつけられ、香り爆弾のようになったヴァルはいざ帰る時もひと騒ぎだった。
当時、もう帰るぞと荷袋を持ち上げたヴァルに「ちょっと待て」とステイルが待ったをかけた。
次の配達先へ行く前に、絶対水浴びと着替えをしろと命じるステイルにヴァルも最初は反抗した。水浴びも服の新調も、つい最近海水に濡れて汚れてベタついた時にしたばかりである。
水浴びも面倒だったが、まだ服もボロついていないにも関わらずわざわざ新しい服を買い直さなければならないのは文句もあった。しかし王族のステイルからの命令では、訂正されない限り本当に実行しなければならなくなる。
ふざけんなと言うヴァルに、しかしステイルの声が珍しく倍量でうわ塗った。
『その香りを配達先に覚えられたらどうしてくれる?!!?』
もう、こうなることもプライドの性格上やや想定していたステイルからの最大の心配だった。
配達人として各国王族の前に出ることもあるヴァルが、香水の香りがすること自体には問題はない。しかし特徴的な香りのヴァルの香水は、時間を経ても忘れにくい。
褐色の肌や口布で隠してもわかる凶悪な顔つきで印象にも残りやすいヴァルと、その香水が〝配達人の香り〟として結びついたらもう解けない。ただでさえヴァル本人のような香水である。
たまたまヴァルの香水をしてきたプライドとその王族が接触したら確実に気付かれる。珍しい魅惑的な香水の香りを、配達人とその主人の王女から香るなど何も知らない者には意味深過ぎる。あらぬ噂を立てるには十分すぎる素材だ。しかも、プライド本人がこの香水を気に入っている。
まくし立てるステイルに、ヴァルも舌打ちをしたが否定はしなかった。
自分も部屋に入ってきてすぐ気付いたように、この香水が特徴的なこともそして自分に馴染んだことも自覚している。
怒るステイルとヴァルに、ティアラからは「いっそ今から城の風呂と着替えを用意させましょう」と「それまで私のお部屋に」と提案され、プライドからは「配達を香水の香りが消えるまで丸一日分休み」と念のため「三人の着替え分の代金を上乗せするから着替えてもらう」と提案が挙げられた。
最終的にプライドの案で両者妥協したが、ヴァルからは迷惑以外の何ものでもなかっただろうとプライドは今でも思う。ただでさえ、ヴァル本人が香水まみれになったのは三種類全て本人の希望ではない。
「………………」
「すごく良い香りだと思います!僕は好きです!」
「私も!すぐわかるもの!」
相変わらず全力で褒めるケメトとセフェクにはにかむプライドを上目に睨みながら、ヴァルは受け取った配達物に少し鼻を近づける。
プライドの香水の香りが移ったそれをいつものように懐にしまう気にはならず、そのまま手で持つまでに止まった。報酬を受け取れば、やはりそちらも短い間に彼女の香水の香りが小袋についている。
腰を上げたヴァルに、ティアラの方から「今日はセフェクとケメトと遊んでも……⁈」と提案するが、断られる。ヴァルの香水を姉がつける日だけは断られることが多いことだけが、ティアラにとっては小さな悩みである。普段なら自分から「ガキ共と遊ぶか」と尋ねてくれることもある彼がだ。
しゅんっと肩を落とすティアラを横に、「お疲れ様でした」とプライドが声を掛ける。
彼女の前で一度足を止めるヴァルは、無言のまま近づくと至近距離で見下ろした。すかさずそれ以上顔を近づけないように近衛騎士が牽制するが、以前のように首に埋めるようなことはしない。ただ、それでも距離は近い。
じーーーっと十秒近く見下ろしてから、また何もなかったように扉へ歩き出す。
「……じゃあな」
「?ええ」
低い声を漏らしそのまま去るヴァルに、プライドは今回も首を傾げる。
この香水をつけている日だけ、ケメトとセフェクの大絶賛に反してヴァルは妙に大人しいと思う。いつものような憎まれ口も愚痴もなければ、今夜はどうだと揶揄われることもない。
それだけ彼が不機嫌なのかとも思うが、それにしては不快に顔を歪められることもなく「うぜぇ」も舌打ちもない。眉間に皺を寄せられ続ける程度である。
彼が嫌がるなら会うときは香水を控えるべきかしらとも思うが、いつもは容赦なく言葉を叩きつけてくる彼が何も言わない以上セフェクとケメトが喜んでくれる香水の日をずらしたくもない。
異国の香料が入っているというこの香水に何か鎮静作用でもあるのかしらと。ぼんやり思いながら、プライドは首筋を手の甲で軽く摩った。
……
「ヴァル。今日はどこで食べるの?」
「酒場行きますか?市場なら僕お肉屋さん行きたいです!」
せっかくティアラの部屋でお菓子を食べられると思っていたセフェクとケメトからの空腹の意思表示に、ヴァルは一音だけを返した。
外の風に吹かれ、配達物についた香りも薄れたと思ってから懐にしまう。半年経ってもなお、あの香水の香りだけは慣れないと一人舌を打つ。
調子が狂う。初日にプライドが訪れた時から、不思議と馴染む香りだとは思った。初めて香るのに好ましく、そして遠い記憶を辿るように呼吸がゆっくりと落ちていくのが自分でわかった。
普段香水など好まず、慣れた下級層の悪臭の方がマシだと思う時もあるヴァルだが、あの香水だけは心地良さまで覚えてしまった。
その理由がわからず、香水をつけているプライドにも何故か近さを感じてしまう自分がまた気持ち悪い。
違和感を払拭するように直接彼女に鼻を近づけてみれば、妙に引き付けられる。認めたくはないが、部屋に充満した時よりも自分に染みついた時よりも、あの時の香りが一番記憶に残って未だに剥がれない。また香りたいと思ってしまうことも信じられない。
彼女があの香水をつけている時だけは落ち着かず、そして無意識に引き寄せられる。
頭がいつもより霧がかり、軽口どころか舌が進まない。腐りかけの果物に集る虫の気持ちがややわかった気さえする。
あのジルベールが調香させた香水というところから考えても、変な薬でも入っているんじゃないかと半ば本気で思う時もある。
「ヴァル、眠いなら宿で休みますか?」
「市場で何か買って木陰でも良いんじゃない?」
「あー?別に眠くねぇ。市場で買ったら次の配達いくぞ」
むしろ風に当たらないとやってられない。心配する二人を睨み見下ろしながら、繋ぐ手を握り直し少し大股に市場へ進む。少なくとも、今だけは絶対寝たくない。
プライドのつけている香水が鼻に残っている今だけは。
初日はステイルに水浴びと着替えを命じられて噛みついたヴァルだが、言われたとおり水浴びだけでもしておくべきだったと今は後悔している。
プライド達にとってはいくらあの香水がヴァルを彷彿とさせる香りであろうとも、ヴァル本人にとってだけはあくまで自分に好ましい香りであるだけで、あの香水は〝プライドの香り〟だ。彼女が身につけ、彼女から漂い溢れ惹かれる香りなのだから。
うっかり惹きつけられたまま自分は直接彼女から二度も嗅いでしまったせいで、余計にその印象が強くなってしまった。
何故あんな凶器薬物をよりにもよって始末に負えないプライドにつけさせているんだと、ジルベールに苦情を言いたい。
たかが香水の香り一つで何故自分があそこまで落ち着かないのかわからない。外の風に晒されないと調子を取り戻せない程度には頭に残る。
チッ‼︎とまた唐突に舌打ちを零すヴァルだが、手を繋ぐセフェクとケメトは気にしない。プライドがヴァルの香水の日はいつものことだ。
それでも、あの香水はやはりプライドにもヴァルにも似合うしお揃いをつけてくれれば良いのにとこっそり二人は思う。
二人のそんな希望も知らず、市場にたどり着いたヴァルは料理の匂いが立ちこめる店の並びまで足をさらに早めた。いっそ料理と煙と油臭さで、さっさと鼻も衣服も全て上書きされるまで市場にいようかとも考える。少なくとも香水まみれだったあの日のように、
両手の裾と違い、胸元を中心に全体に香水を吹き掛けられたせいだと。目覚めてすぐに、思った。
眠る時も目を閉じればまるで胸元にプライドがいるかのように錯覚に襲われた。振り払おうにも、水浴びを考えるより先に香りの心地よさで寝入ってしまう方が先だったのも敗因だった。
何故自分があんな夢をと、今でも思い出しては顔が熱くなる。それが怒りか別のものなのかもわからない。
いっそプライドをベッドで襲う夢であってくれれば鼻で笑えたが、ただ彼女を胸に抱き眠るだけで満足していた夢はあまりにも癪に障り、不快だった。
ケメトとセフェクが目を覚ますよりも先に、一人水浴びで匂いを全て落としきった。
一晩で香水の香りも殆ど無臭化していたが、それでも落ち着かなかった。前日に上乗せ分で購入した服に着替え、新品同様だった前日の服は掃きだめに捨てた。
後から目覚めたセフェクとケメトには熱かと心配されたが、それ以上に重症だったと今でも思う。裏家業時代には付き合いで香水まみれの女の群れで爆睡したこともあったが、あんな妙な夢など見たこともない。確実に〝プライド〟だからだ。
自分でも、あの香水の香りがする度に口に出して〝俺の〟香水と自分で自分に言い聞かさないとまたあの夢を思い出してしまいそうになる。
「ッ~……クソガキ」
「?なに??」
「呼びましたか?」
テメェらじゃねぇ、と。言い捨てたヴァルはちょうどそこで足を止める。
屋台で今まさに肉を焼き、炭の匂いとそして香辛料の香りもする市場の真ん中で静かに深呼吸を繰り返した。
Ⅰ600
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