Ⅱ567.不浄の少女は出され、
「……グレシル・コーツ、釈放だ」
そう、静かな声で告げられたのは突然だった。
時間の感覚もない暗闇の密室で、衛兵の声は最後まで変わらず平たくて冷たいままだったなと頭の隅で思う。
壁に書いた線を横目に、とうとうこの時が来たのだと思い知る。このひと月間、座るか横になるかのどちらかの体勢しかしていないから、足にまともに力が入るかもわからなかった。
鉄格子の扉が悲鳴を上げながら開かれても、動く気になれなくて。むしろずっとここに居たい私が壁に寄りかかったまま動かないでいると、衛兵の方が初めて中にまで入って来た。
どこか呆れたような目で見るその人に、愛想笑いを適当に浮かべて見せたけど全く表情一つ緩んでもくれない。
まぁそうよね。今までみたいな下品た客とは違う、相手は城で働く衛兵さん。きっと丸裸で迫っても、こんな汚ならしい罪人なんか揺らいでくれない。……それに、今の私は。
立て、と。そう言われて無理やり腕を掴まれた。
私のことなんか片手でも引き摺れるだろう衛兵に、仕方なく足へ力を込める。膝には力が入ったけれど、身体を起こした直後には背中に引き攣るような痛みが走って本当に足からぺったり崩れた。
このまま気絶しちゃいたかったけれど、衛兵は呻く私にも容赦ない。当たり前みたいに一歩一歩肩を貸されながら歩かされる。痛い、痛いの、お願い、まだと。痛みに呻きながら同情を誘うように声を細めても、変わらず一定速度でゆっくり階段を昇らされた。
ひと月ぶりに見た太陽は、存在だけで身体が焼かれるようにチリチリ皮膚が痛んだ。……もう、一生見たくもなかったのに。
もう陽は傾き始めていて、多分時間だけでいえば夕暮れ前かしらと時計のない生活で慣れた筈の時間間隔で思う。時計の読み方だって最近覚えたばかりだもの。
『明日の朝。短い針があの数字を示したら、また校門前で会いましょう!』
「…………。……あの。宰相様は……?」
「ジルベール宰相は御公務でお忙しい。お前の処分について変更もない。全ての刑罰を受け終え、今日を以て釈放だ」
イヤ。そう、霞ような声が考える前に出たけれど耳を傾けてくれる人はどこにもいない。
話を聞いてくれた時はあんなに真摯なふりしたくせに、情報を聞くだけ聞いたらもう用済みなんてやっぱり人が良さそうでも宰相だったのねと思う。結局牢屋でも一度も会いには来てくれなかった。
今日で刑罰が全部終わりだと聞いて、……いっそもう一つの刑罰も懲役の後にしてもらえればもう少し城の中にいられたかもしれないのになと頬へ指を這わせる。
けれど、それはそれで困ったかもしれない。あの日は一週間以上本当に動けなかったし、構わず城の外に放り出されたらきっとそこから本当に動けなかった。牢屋のお陰で動かなくても水と食事は貰えたし、ならやっぱりこっちの方が良いと考えなおす。
私を歩かせる衛兵に、甘えた声で「ねぇ抱っこして?」と言ってみる。
やっぱり聞こえなかったみたいに目すら向けてくれない衛兵は、そのまま肩を貸すまま私を城門まで歩かせ続ける。どこからが城でそこからが外かもわからない広い空間に、もしかしたらもう城の外かなと考えた。
ちょっと姿勢を変えるだけで勝手に呻きが喉から零れる身体は、いっそこのまま気を失ってくれればと何度も思った。それともここで倒れても城門前に放り出されるだけかしら。
「裁判でも言われただろうが、今後また罪に問われることがあれば次こそ極刑は免れないと思え。本来であればお前の犯したことは四肢でも済まされなかった」
「……はい」
蚊の鳴くような声しか出ない。
いっそもう一度わざと捕まれば、また牢屋にいれてくれるかなとも最初は考えた。けれど、あの宰相に言われたのは「あくまで執行猶予付きの減刑処置」だった。
今回の減刑だけじゃない、今後また罪を犯したら今回減刑された分も含めて処罰を受ける。そう言われた時は、もう罪を犯せないことよりも、もう牢屋に入れて貰えないことに絶望した。
人の良さそうだった宰相。村襲撃の全貌を知っていると言えば、はいはいといくらでも話を聞いてくれた。
私は被害者だって話したら、まるっと信じて騙しやすいとすら思った。泣いて、最大限媚びへつらって同情を引けたと思ったのに、結局は綺麗に刑罰に全部収められた。どうせ重刑なら永久投獄にしてと頼んだのに駄目だった。
それでも、処刑されなかったことは奇跡に近いらしい。……ただ村の抜け道を教えた〝だけ〟なのに。
しかも私は奴隷被害者で、脅されて教えるしかなかった。何故かついでに〝教唆罪〟というのまでいくつか課せられたけれど、私自身は手も下していないのに罪に問われたのもわからない。
だって私はただ提案しただけで勝手に不幸になったのも人を不幸をしたのも相手の責任でしょう?
私はあくまで被害者で、ちょっと村一つ焼けたとはいっても城下ですらない山奥のあってもなくてもどうでも良い田舎村。
それで投獄だけじゃなく〝こんな〟目にまで遭わせられるなんて思ってもみなかった。
「ここまでだ。もう二度と戻ってくるな」
そう言って、回させた肩から私の腕を降ろした衛兵は大きく開かれた城の門前で私が引き摺った使い古しの包帯を取り去り、最後にドンと背を押した。
突き飛ばされるというほどじゃないけれど、女性相手にはちょっと乱暴な気がするそれが私が色目を使ったからか私が罪人だからか、〝これ〟の所為かはわからない。
背中を押された反動に、踏みとどまる余裕もなくてそのまま城門前でぺたりと最初は膝をついた。
もう一度手を貸してくれないかしらと目だけで振り返ってみたけれど「早く行け」と冷たい声と一緒に、他の衛兵も誰一人手を貸してくれる素振りもない。
それどころか、ちょうど城へ入ろうとしていた荷馬車が私の前で止まって「邪魔だ」と御者と衛兵両方に怒られた。馬に踏み殺されるのも、騒ぎが起こって目立つのも怖いから四つ這いで急いで道の端へ逃げた。
私が道の邪魔じゃなくなれば、もう誰も私を見ようとすらしない。豪華な馬車の御者と衛兵は会話して、そのまま羊皮紙を確認してから馬車を城の中へと通す。きっとあの馬車の中には、私よりずっと価値のあるものばかりが詰め込まれている。
─ 嗚呼、私って。
頭に過りかけた言葉を、口の中を噛んで止めた。
今それを考えたら今度こそ動けなくなると知っている。
歩き方を忘れていそうな足を引きずり、ふらふら横に揺れながら大きく整備された道を下る。
簡単な一本道を通り切り城下に出るまでに、十回近く馬車とすれ違った。どの馬車も煌びやかで、馬車を引く馬すら私より綺麗にされていて毛並みまで輝くようだった。
あの中のどれかに騙しやすいお金持ちの行商人や王侯貴族はいないかしらと何回かわざと転んでみたり涙を拭ってみたけれど駄目だった。汚れに塗れひと月の間一度も水を浴びるどころか鏡すら見ていない私に、わざわざ気に留めてくれる人なんかいない。……当り前よね。下級層に有り触れた存在に興味なんか持つわけない。
ああいう人達は色町に行かなくても、お金で何人でも綺麗で清潔で純潔に見える女を買えるもの。きっとひと月前の私でも一目もくれなかったに決まってる。
城下を出て、少し見慣れた景色になってもどこへ行けば良いかわからない。こんな姿じゃ、裏通りにいっても路地裏にいっても構ってくれる人がいない。
どこが私の逃げ場所で、どこが安全な場所なのかしら。人がいないところ、人が大勢いるところどっちの方が私は無事でいられる?
人が多いところじゃ、私を恨んでいる人とすれ違うかもしれない。人が少ないところじゃ、また今度こそあの奴隷商の手下に捕まるか殺されるかもしれない。
何故かしら、ちょっと前まではどうすれば良いかもちゃんとわかった筈なのに。
─ 人の視線すら、今は怖い。
こんなに。身体の限界とは関係なく、気付けば膝が震えていた。
どこへ行けばわからないだけで、どこにいても落ち着かない。気付けば自分で自分を抱き締めて、顔も上げられず地面ばかりに目が落ち着いた。
こそこそと話し声が聞こえてきて、今までなら良い話でも聞けるかなと聞き耳を立ててたくらいなのに今は全部が私のことを話してるみたいで怖い。
あの奴隷商が裏稼業で私を指名手配にしていたら?それとも他に私を狙ってる奴らが触れ回ってたら?あの、ケメト達に捕まえられた人達はもう釈放されたかしら。あいつらだって自由になったらきっと私を恨んでる。
あいつらだけなら、上手く逃げ切れると思ってた。あいつら以外にも私には良くして利用できる人達は大勢いたから。
……だけど、今は誰が味方になってくれるんだろう。
寧ろ下手に関わって、そのまま噂が広まったら見つかるか売られるかもしれない。
皆、お金なしで私の味方にはなってくれても、お金より私を取ってくれる人なんていない。
─ ただ、自由でいたかっただけなのに。
「なぁおい、あの娘まさか」
「ええ、きっと……」
ひっ、と短い悲鳴が肩の上下するのと一緒に零れた。
絶対私のことを話してるその声に思わず身体ごと振り返れば、男女の白い目が四つ私を見てた。今まで何度も何度も見慣れていたその目に今は胃の中がひっくり返る。
ガクガク膝だけじゃなく足全部が震えて耐えきれず地面にまた崩れた。駄目だとわかったのに身体が制御もきかなかった。
ぺったりと座り込んだ途端、他の道行く人達がまた振り返る。大丈夫ですか?と声を掛けてきた老人夫婦が、直後には差し出そうとしてた筈の手を引っ込めて逃げていく。さっきまで私に気にしなかった人達が何度も何度も振り返っては白い目でこそこそ囁き合っている。
震え過ぎて指の感覚もない手で髪を漉くようにして降ろすけど、それでも誤魔化せない。顔を俯けても、伸び切った髪を降ろしても、薄い布一枚の服しか着ていない私には隠せない。
また両手で地面に手をついて立とうとすれば、震え過ぎて小鹿みたいに一度転んだ。今度は皆が見ている前で転んだのにそれでも手を貸してくれる人はどこにもいない。それどころかべったり地面に転んだ拍子に折角背後に降ろした髪が全部前に垂れて、またざわりと声がした。
やっぱり人混みは駄目だった。いるべきじゃなかった、来るべきじゃ、二度と近づくべきじゃなかった。こんな、こんな汚くて下級層の姿をした
罪人の証を刻まれた女なんか。