144.婚約者は放られた。
僕の女誑しという噂は瞬く間に広まった。
城下に降りても、時折顔見知りの民から噂が流れてきたと知らされることもあった。
父上や母上、兄弟達に弁明した通りに否定はしたが…それでも噂はおさまらなかった。
二年経った今でもすらも。
十七歳になった僕は本来ならば社交界に頻繁に出て当然の齢だった。だが、多くの令嬢達に誤解を招き、更には噂が上流階級中心に広まってしまってからは、父上からも社交界に出る事は噂がおさまるまでは控えるように命じられた。弟達には僕のせいで肩身の狭い思いをさせてしまったが、二人とも「気にしないで下さい」「兄君の高潔さは僕らがわかっております」と言ってくれた。
王族としても兄としても欠陥だらけのこの僕に唯一許されたのは、城下に降りて民と触れ合うことだった。そうして地道に誤解を解くことが今は最善だという判断だった。これには正直救われた。城下の人々と関わり、触れ合うことだけが僕の心を満たす時間だった。
…それが、どれほど穢れてしまった欲求だとしても。
己が心を殺し、もともと欠落していた感情を更に薄め、せめて彼らにこの欲求を必要以上押し付けないことだけが唯一の手段だった。
そうしていく内に、父上から呼び出された僕はとうとう…決断を言い渡されることになる。
フリージア王国第一王女との婚約。
事実上の、王位継承権剥奪だった。
フリージア王国の第一王女は、齢十六になる前から第一王位継承者として確立しており、立派な次期女王としても名高かった。つまり、僕はフリージア王国の王配となる。
「二年経った今もこの国では噂が広まるばかりだ。そのような渦中の人間を国王にする訳にはいかない。…だが、お前は王としての素質も能力もある。噂さえ届かない隣国であれば…フリージア王国は、我が国にとって重要な同盟国だ。そこでフリージア王国の王配としてどうか我が国との架け橋になってくれ。」
父上のその言葉は、…今までで一番優しい言葉だった。
お前は王としての力はある。それは誰よりも私がわかっている。だからこそ、この国では叶わずともフリージア王国で王配としてその素質を存分に発揮してくれと。
感情を殺し、ひたすら父上の言葉に頷いた。
僕の噂で心労をかけたせいか、父上は昔よりも痩せ細り、以前から顔色も良くはない日が続いていた。
そんな中でも王としての僕の力を信じ、そして大事な同盟国を託してくれた父上には感謝をした。
僕のような人間が、そうして国の民の為になれるのならばとそう思った。
光栄な話だ。
諸国の中でも圧倒的な大国であるフリージア王国。そこの王配となれるのならば、…僕のような人間がそれを担えるのならば、分不相応な程だ。
民に穢らわしい欲求を求めてしまうこの僕が、そんな大国の民の未来を任されるのだから。
それに、婚約者ならば以前の令嬢達へのような心配もない。
今度はどれほどの勘違いをさせても、問題は無い。僕の妻となる人なのだから。むしろ今までの令嬢達が望んでくれたような言葉を、行為を、そして愛を囁けば良い。
…望まれる通りに動き、振る舞う。僕が今までやってきたことだ。
そうすれば全てが上手く回る。
我が国からは穢らわしい噂の大元が消える。
僕はただ、フリージア王国で今までの学んできたことを生かし続け、それが互いの国の為になるのだから。
その後、フリージア王国の女王陛下や王配殿下、摂政殿とも言葉を交わし、第一王女との婚約は確かなものとなった。
父上も母上も弟達も皆が、この結果に満足してくれた。
幸福なことだ。
王としても兄としても人間としても欠落したこの僕が…アネモネ王国、フリージア王国双方の力になれるのだから。
我が身はフリージア王国とアネモネ王国の為に。
何度も心にそう言い聞かせ、僕はとうとうフリージア王国に父上と共に訪れた。
プライド第一王女の十六歳の誕生祭へ。
……
美しい女性だった。僕の言葉にも笑顔で答えてくれ、その気品に満ちた姿が月光に照らされた。
最初に目があった時から、彼女は眩く目に映った。多くの人に愛され、慕われ、そして彼女自身が心を傾けていた。
僕が焦がれたものを持っている女性だ。
〝愛せるかもしれない〟…そんな期待が胸を過ぎった。僕が焦がれた全てをその手にしている彼女ならば愛せるかもしれない。そうすれば、今も空き続けるこの心の溝も埋まるかもしれないと。
甘い言葉を囁き、手を取り、ロマンチックな演出を。そして微笑み、愛を口ずさめばきっと今までのように愛される。…そして、僕も彼女を愛せれば全て解決する。
今までの令嬢達が望んでくれた全てを、彼女に捧げよう。
いつかこの心が本当に彼女への愛で満たされることを願って。
そして何より彼女の、女王陛下の、王配殿下の、父上の、母上の、弟達の望んでくれたように振る舞う。
我が国の為。フリージア王国の為に。
「それは貴方の心からの望みではありません。私達の間には不要のものです。」
…予知能力者。
彼女は全てを知っていた。
僕が取り繕っていたことも、心にもない言葉を囁いていたことも、演じていたことも、全て表向きの愛だったことも…全て。
…つまり、僕はこの三日間、彼女に無礼を働いていたことになる。目に見えた世辞ほど無礼で卑しいものなど無い。
これは大変なことだ。
フリージア王国は我が国にとって、重大な同盟国。
広大な海と、そしてフリージア王国に挟まれた我が国がフリージア王国の反感を買えば大惨事になる。逃げ場は海のみ。さらには広大な土地と、特殊能力者という圧倒的な力を持ち、他国から恐れられている。…小国である我がアネモネ王国が貿易で栄えることができたのだって、フリージア王国の存在が他国との壁になり、支配や圧制を阻んでくれたお陰だ。フリージア王国との同盟が反故にされれば、敵はフリージアだけではない。近隣諸国全てからの支配や圧制に怯えて暮らすことになる。広大な港と貿易力を持ちながら、国同士の規模で争う術を殆ど持たない我が国は良い標的だ。
更には五年前、新兵合同演習で我が国は大きな借りを作ってしまっている。
フリージア王国に、奇襲を受けて野盗に捕らえられていた我が国の騎士隊が救出されたのだ。もともとはフリージア王国の新兵隊を迎えに行く為の我が隊が、逆に手を煩わせてしまった。更にはフリージア騎士団が奇襲と崖崩落に巻き込まれた際も救援は間に合わなかった。
後日、救出された我が騎士隊が距離として近いフリージア王国ではなく、我が国へ帰国を決めたのもこれ以上の借りを同盟国に及ぼすことを恐れてのことだった。
そして彼女は、僕の卑しさも、国の事情も全てを知った上で僕のそれに付き合ってくれていた。
国の為に、双方の同盟の為に。
「私の前では演じなくても良いのです。無理をして、心に嘘をついて愛そうとしなくても大丈夫です。私はちゃんと知っております。」
演じなくて良い?
演じず、誰の望む姿でもない僕とは…何だ?
穢らわしい欲求を抱えた僕を晒せば良いのか?だめだ、そんなことをしたら余計に彼女の反感を買ってしまう。これ以上、フリージア王国を敵に回すような行為は何一つできない。
彼女は何者なのか。まだ三日しか経っていないというのに僕の内側を知る彼女は一体…?気がつけば口から疑問が溢れ出た。君は、何者なんだと。
「この世界で唯一、貴方の本当の望みを知る者です。」
僕の、望み…?
アネモネ王国とフリージア王国に平穏をもたらすこと。
フリージア王国の王配として、フリージア王国には勿論、我が国へも還元すること。
それ以外、一体何があるというのか。
それとも彼女はその予知能力で、僕の穢れた欲求すら知ってしまっているというのだろうか。
恐怖で思わず息を飲む。彼女から一瞬も目を逸らせない。
彼女は命じる。
帰国してからは視察ですら、城下に降りてはならないと。
彼女は語る。
僕はそこで全てを失うと。
彼女は宣言する。
それは僕の幸福の為なのだと。
僕にとっての幸福は、欠落したこの身を両国の為に捧げることだ。
ならば、それすら叶わなくなる大惨事に見舞われるということなのだろうか。
翌朝、別れの日に彼女はまるで何事もなかったかのように振る舞いながら最後にもう一度僕に念を押した。
約束を守るように、と。
王としても欠落した僕は…、最後に民の顔を見ることすら許されない。