16 遠い日の記憶
――夢の中だった。
そう理解したのは、自分が自分であるという意識を保っていたからだろう。
何かがいつもと違う。ただ、そう感じた。
ウォルトと本当に久しぶりの兄弟としての会話を交わし、心に溜まっていた澱が少し晴れた。
そのせいだろうか。
リリックとの用事を済ませた後、シャルルとウォルトに付き合い、繁華街を散策した。
市場に並んだたくさんの商品を見て、食べ、興味のままに立ち並んだ店を覗き歩く。
セインブルクの王子らしくない、騎士団長らしくないすべての枷を解き放った、ただの『フィオン』として過ごした甲斐があったのか。
すっかり日も暮れ、いつになく満足した気分で夜闇が支配する自分の部屋のベッドで眠りについた筈だった。
しかし、いつものように竜の眼から発せられる竜の怨嗟の声が聞こえない。
眠りを妨げようとする、あの忌々しい声が何故か今日は一切聞こえない。聞こえてこない。
ただ静寂に包まれた闇。こんなに夜は静かなものだったのかと、少し驚く。
ここはどこなのか。周りを見渡してみてもそこは何も無く、ただ虚無の空間が広がっている。
何色でもない透明な空間。ここが自分の夢の中だというのなら、なぜ何もないのか。
「静かだな」
試しにそう声に出すとそれを契機として、あるいはそれを待っていたかのように、とある光景が目に飛び込んでくる。
「これは……セインブルクか?」
忘れもしない愛すべき故郷。
美しい赤と青の宮殿。自然が織り成すオアシス都市シーリャンに聳え立つシャン・ヴェルデ。
それを挟むようにある炎竜砂漠と水竜大瀑布。
砂漠と大瀑布を囲むようにさらに各地の〝大地〟に緑が溢れ、太陽の日差しと常夏の気候が呼び寄せる〝風〟がそれらを祝福する。
永遠の夏の国。
それはそれぞれの属性が互いに干渉し、交わり合い、円環する美しい永遠の地。
『――かつて夏の男神の使徒であった我らは、その使命に誇りを持っていた。穏やかであり、そして情熱的でもあったこの地を守護することこそ誉れだったのだ』
どこからか聞こえた声。
それは竜の眼に込められた僅かな思念。
怨嗟の声に紛れた、ほんの僅かな、けれども奥底に秘められていたはるか遠い過去の想い。
『――美しい大地だった。永遠の円環を繰り返し、その世界は永遠に続いていくはずだった。少なくとも我は、そうであると信じていた』
次の瞬間、目の前の残像はもろく崩れ去る。
宮殿が瞬く間に壊れ、大地が荒れた。風が吹き乱れ、嵐が起きる。火が次々に森の緑を蹂躙し、美しかったセインブルクの大地は、その光景を失っていった。
『――大地は荒廃した。緑は枯れ、水は干からびた。やがて行き過ぎた炎が砂漠を生み、嵐が歪な大河を作りあげた』
永きに渡る竜の戦い。
美しかった夏の大地は見るも無惨な姿へと変わり、大地は抉れ、その度に罪もない生命が失われていく。
それでも止まらない戦い。
些細な争いから始まったはずのそれは、その戦いによって散っていったもの達の小さな憎しみが降り積もり、大きな怒りへと変わってゆく。
『――愛した大地は穢された。それでも戦いは終わらない。己の自尊心を満たすための意味の無い戦いが全てを壊していく。自由を愛する〝風〟はそんな大地に嫌気がさし、この地を離れた。それでも我は残り続けた。この地を守ることが我の役目だった』
愛すべき地が醜い争いによって穢されていく。大地には凝り固まった不浄が祓われず、無念と散ったもの達の恨みや憎しみが、負の邪念を余計に加速させる。
塵も積もれば山となる。
その言葉通り、つもりにつもった嫌悪と憎悪はついにその身に跳ね返ってしまった。
『――愛と憎しみは表裏一体。慈愛で大地を満たしていた我は、憎悪と嫌悪、憎しみと恨みによって全てを穢すものへと転じた。この身は不浄をまといて、終焉をもたらす存在となった』
つまり――それこそ『邪竜』である。
大地を守護する聖なる竜は、愛で満たすためにその使命を全うしていた偉大なる竜は、永き争いによりその身に抑えきれない程の負の感情を抱えることとなった。
全ては、輝かしい夏の大地を守護するために。
そんな遠い日の想いは、僅かな記憶にのみ残り、忘れ去られた。
気高き竜の想いは踏みにじられ、全てを滅ぼすための災厄の存在となってこの世に顕現してしまった。
『――憎い、憎い。何もかもが。愛すべき大地を穢す全ての者を滅ぼすまで、我は止まることはない。何年経とうと、争いが集結し永遠の夏の円環の地に平穏が戻ったとて、我の怒りは、嫌悪は、憎悪は治まらぬ。抱えた邪念は止まりはせぬ』
滅ぼせ、滅ぼせ、滅ぼせ――。
殺せ、殺せ、殺せ――。
奥底から響く、大地の怒りの声。
長年蹂躙され続けた大地が、割れて、鳴いて、怒っている。
その永き憤怒は終わることのなかった争いを今再び繰り返さんとしていた。
全ての元凶を完全に滅ぼし尽くすまで止まらない。
それは、同じ円環の守護者であったはずの水竜王と炎竜王の争いの果てに生まれたセインブルクすら、邪竜の復讐の対象となることを意味していた。
『――末代まで、子孫を残そうとも、必ず滅ぼす。我はこの地を守護する者なり。我が許しはしない。必ず、必ず、その身に報いを!!』
静かになっていたはずの怨嗟の声が、再び湧き上がる。竜の眼に刻まれた僅かな邪竜の思念が、力を増している。
水竜王の片眼でも抑えきれぬほどの怒り。
「ぐうっ……!!」
フィオンは、眼を抑えて蹲る。
かつてないのほどの怒りが、竜の眼を通してこの身を支配しようと蠢いているのが分かる。
身体の支配権を渡す訳にはいかない。邪竜にこの身体は渡さない。
全ての気力を振り絞って、フィオンは抗おうとする。
もはやこれが夢なのか現実なのか区別がつかない。
夢を見ているのか、それともいつか起きる現実を再現しているのか。
ただ、このままではまずいのは確かだった。
邪竜の思念の勢いが増し、気力も精神力も奪われていく。身体の感覚が少しずつ消えていくような、自分が自分ではなくなるような恐怖が芽生える。
――このままでは……!!
身体の支配権を奪われる。もう抵抗する力は残っていない。これで自分は終わりなのか。
そう思った、その時。
「しっかりしなさい! フィン、自分の意識をしっかり保つのよ!!」
そんな声が、耳に飛び込んできた。
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