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八 寄生するもの、鬼の目覚め

 黄宮おうくう一宮を出たあと灯桜は一人家路についた。

 一宮から土の神の力を貸すから地下を行けと言われたが断った。あんな乱雑な女に身を委ねるなんてとてもできない。また気分が悪くなるだろうし、そんな状態で帰ったら三宮で待っている三人に迷惑だ。


 でも、それは強がりだった。

 いま灯桜が持っているのは物を斬れないかんなぎの剣だけ。青銅の鏡は武器にならない。それに灯桜とともにいる姫は赤宮二宮とともにおわす火神のような力を持っていない。さっきようやく目覚めて灯桜にべったり付きながら歩いている。神の威厳など皆無だ。


 五芒星型の島の中はどこもかしこも騒がしかった。特に朱雀橋の周辺は官人が集ってなにやら調査をしていて、その横では荷を積んだ小舟が堀を渡っていた。もちろん平時なら舟などご法度、鞭打ちの刑に処せられる。

 誰かが許可したのだ。


「姫、あの荷はなにかわかりますか」

 灯桜が声を潜めて問いかける。


「う~ん。わかんない」

 姫は笑いながら答えた。堀の小舟など一切見ていない。


 灯桜はときおり官人の鋭い視線を感じながら、朱雀橋のそばを通過した。

 赤宮の付近にも官人たちが集まっていたが、橋に比べればまばら。少なくとも灯桜の目に怪しいものは見えなかった。



 青宮せいくう三宮へ戻った灯桜を出迎えたのは朱砂だった。

 館の中を髪を乱しながら走ってくる。


「さ、三宮さま。た、大変です。変な男が、変な男が……」

「こら、鏡持つ覡を変な男というな!」


 聞き覚えのある声だった。

 奥から見える赤い髪、あれは赤宮の二宮だ。


「お帰り、無事終わったか?」

「無事ではありません。ですが、なぜ二宮さまがここに?」

「そりゃ、三宮の従者を無事帰すためだ」


「違います!」

 朱砂が二宮の前に割り込んできた。


「三宮さま、あれは口実に過ぎません。この男はここに居座る気なんです」


「へ? なぜ、どうして二宮さまが?」

「三宮は知っているはずだ。いま赤宮は暇を与えられている。大半の職務が免除される代わりに禄が八分の一しかない。位分資人を養い、宮を維持するだけで精一杯だ」


「それって……もしかして寄生するっていうことでしょうか」

「三宮もなかなかひどいことを言うな。朱砂とそっくりだ」


 灯桜はちらりと朱砂を見た。ひどくうなだれている。

 朱砂は家事や雑務を行う役として割り当てられている。二宮が加わるとなれば一番負担が増えるのは朱砂だ。


「俺は流血と骸を片付けて伝令を飛ばしたうえに、血塗れの従者を洗って服を変え、剣も傷まぬよう清め、目の曇った官人どもが騒がぬうちにここへ送ったんだ。その手数料だ。それにいまの三宮は心許なさすぎる」


 灯桜は言い返せなかった。

 朱雀橋で灯桜はずっと御影に守られていた。巫としての力をふるえず呪符を持っただけの死体を祓えないがために、御影は流血を浴びながら生ける屍と戦い続けた。そして二宮がいなければ朱雀橋の件は解決できなかった。二宮の神が骸を焼き尽くさなければ、五大殿の中に運ばれて呪師の手に渡っていただろう。

 なのに灯桜のしたことは呪符を持つ男にほんの少し傷を負わせた程度。二宮に心許ないと断言されてもしかたない。


「まあ、よいではないですか」

 二宮の背中から水明がやわらかな微笑みを浮かべて現れた。足音などまったくなく、風の中より浮かび上がったかのようだった。


「巫が二人いるだけでも心強うございます。二宮さまは手数料を相殺するためだけにこの宮に住まうわけではございません。できる限りのことはするとおっしゃっておりました。僕なんかより二宮さまの方が巫の事情に詳しいでしょうし、三宮さまのためになるはずです」


 二宮はまっすぐ灯桜を見ている。その眼差しは燃えるような赤の髪のごとく熱かった。


「わかりました。私は二宮様を受け入れます」

 灯桜が二宮の受け入れを決めた瞬間、朱砂は頬を膨らませながら炊事場に消えていき、まもなく大量の器が落ちる音が聞こえた。


「粗相を犯し、申し訳ございません」

 三宮は謝った。


「気にするな。柄の悪い宮だが嫌いじゃない」

 二宮が笑いながら軽く言ってのけた言葉に、三宮の頬は赤くなるばかりだ。

『柄が悪い』というのは都において恥ずかしきことだった。


 水明は灯桜より深刻で魂が抜けたようになっている。

「おいおい、どうした先生?」と二宮がふざけて顔の前で手を振るがまったく反応しない。


「先生は放っといて奥に行こう。話がある」

 なぜか二宮が前をゆく。まるでここが自分の宮であるかのように。



 灯桜は住居を抜けて神殿の北側の小部屋に向かった。

 小部屋に入ると、夏の湿った木の香りが鼻を入ってきた。

 縁側には御影が座っており、太刀を床に置いて三宮の敷地の八割五分を占める庭を静かに眺めていた。


「さっきからなに腐ってやがる?」

 二宮が御影に声をかけた。


「うっせぇ。てめぇに刃を握る者の気持ちはわかんねぇだろ」

 いまにも太刀を握って斬りかからんとする眼差しだった。血はきれいに流されているものの、全身を血に染めていたあのときのように殺気が湧き上がっている。それは灯桜の身にもひしひしと感じられた。


「それはそうだが、根に持ちすぎだ」

「貴様の放ったあの一語が気に食わねぇんだ。てめぇが気づくまでは許さねぇ」

「どんな一語だよ? 教えてくれ」

「自分で気づけ! さもなければ身が滅ぶぞ!」


 御影は二宮にそう言い放ち、庭に下りて部屋から出ていった。灯桜の視界から消えるまで二宮をにらみつけていた。


「なんだよあいつ。里より徴発した兵より態度が荒い」

 汚らわしいものを吐き捨てるように二宮は言った。


「私が神託に行っている間になにかあったのですか」

「いや、いったん二宮に連れて行ったときからあんな感じだ。あれは気質か」


「確かに、敬語はまったくできないようですが……」

 灯桜は朱雀橋で庇われたことを思い浮かべながらも、二宮に伝えなかった。

 身を賭して戦った彼の姿を評価しても二宮は反発するに違いない。それほどまでに両者の溝が深く見えた。


「まあいいや。神託はどうだった」

 灯桜は二宮に一の朝堂の様子を伝えた。欠員だらけの巫に青宮一宮の神託、突然の中断があったことやその後の一宮の様子もすべて伝えた。二宮は灯桜の話を黙って聞いていた。

 灯桜は最後に聞いた。


「なぜこれほど巫が欠けているのでしょうか。どうして水神の黒宮が一人しかいないのでしょうか」

 二宮は赤い髪を指した。


「髪が関係しているのでしょうか」

「そうだ。三宮は五稜国から出たことがないだろう。俺のような髪は見たことないはずだ」

 灯桜はうなずいた。


「国内にずっといたら分からないかもしれないが、五稜国はとても小さな国だ。海辺から北の国境まで大人の足なら三日、東西は二日も歩けば隣国になる。人は少なく巫には恵まれていない」


 二宮いわく、五稜国は古来から巫集めに苦労してきた国だという。国難があれば周囲の国に使者を送って里でくすぶっている巫を徴発したのだという。


「でもどうやって連れてくるのですか。力のある巫なら里が手放さないはず」


 灯桜の問いに二宮は即答した。

「金だ」と。


「でも、巫を買えるお金などどこに?」


「五稜国は狭いながらも地下資源だけは豊富なんだ。土を掘れば泉のごとく黄金、銅、錫、くろがねが姿を現し、その周りには都を土まですべて朱に染めても余るほど丹砂が眠っている。

 鏡宮は財力に任せて巫を呼ぶ。そこに太神帝国は目をつけたんだ。大勢の贄を払って水を涸らし、五稜国が巫探しを始めたときを狙って自国より放った呪師をねじ込んだ」


「しかし、呪師の鬼が力を使えば、巫の目に見えます。いくら鏡に隠れていても気づくはず」

 二宮は首を横に振った。


「ほとんどの人間は神と鬼の区別がつかない。雨乞いして雨をもたらせば、みな力のある巫だと信用する。巫でない者からすれば、願いを叶えてくれる方が神なんだ」


 灯桜の中で痛い記憶が蘇った。


 川辺の里もそうだった。

 銀糸という呪師は白銀の龍と契って雨をもたらした。あの龍は見た目こそは高貴でも、その本性は血に汚れた息を吐く鬼。肉を喰らうことでしか力をふるえない。

 でも、里は銀糸を選んだ。里の願いを叶え、雨を降らしたのは銀糸。結果こそ力の証なんだ。

 神も鬼も見えない里の者なら、私だって銀糸を選んだかもしれない。願いを叶えない巫の言うことなど無視したかもしれない。里の者が愚かだとどうして言える?

 灯桜に反論はできなかった。


 きっと帝国の呪師は巫の目に見えない所で力をふるい信用を得たのだ。力の弱い巫しかいない五稜国相手なら信用を得ることなどたやすい。大多数の人間の信頼を得て鏡宮に入れば、呪師の敵は巫だけ。その巫とて鬼が鏡に潜む間は気づかない。姿を出さなければいつまでも宮に潜んでいられる。


「なんて……単純なの……?」

 灯桜はそう言って大きくため息をついた。胸が痛い。

 真朱の柱と穢れなき白亜の壁が織りなすかりそめの栄華。その影に広がる絶望に放り込まれたのだ。灯桜の中で怒りの炎がわきたつ。


「そう、単純なんだ。悲しいという言葉すら甘いほどに」

 二宮の声は撫でるように柔らかく弱々しい。

 救いがたき宮に身を置くのは二宮も同じ。冷静そうな表情からは本心は見えないものの、きっと同じ思いを抱いているに違いない。灯桜はそう思った。


「私が呼ばれたのはやっぱり巫の埋め合わせをするためでしょうか」


 二宮は目をそらしながらうなずいた。


「三宮は鏡に入らず人に操られることのない神格ある神と結ばれている。神の力は神格に比例することが多いから並みの巫より呪師を祓える可能性が高い。それに三宮は里より追放された身。鏡宮の巫女として徴発しても里の反発はない」

「どうしてそれを? なぜ私が里を追われたと知っているのです?」

「宮巫にきいたんだ。『どこから呼んだ巫か?』って」


 二宮の右手が固く握られるのが灯桜の目に見えた。


「三宮には悪いが、俺は激しく疑っていたんだ。この国は困ったら太神帝国の属国から来た者すら徴発する。馬鹿か! 呪師の協力者だったらどうする? もうこれ以上呪師の手に堕ちるのを俺は許せなかったんだ。鬼が跋扈ばっこする世界などもう見たくない!」


 一言放たれるごとに、二宮の赤い髪は燃える炎のごとく揺れていた。眼差しは炎を宿し、石すら赤熱させるほどの怒りに満ちている。内に秘めた熱は暴れ狂い、いつか朱雀橋のように鏡宮を焼いてしまうのではないかと思わせるほどだった。


「二宮さま、一つ聞いてもいいでしょうか」

 灯桜はおそるおそる尋ねる。


「なんだ?」

 二宮の口調はとげとげしい。


「に、二宮さまはその……属国の出身なんでしょうか」

 唇を震わせながら灯桜はきいた。


「どうしてそう思う?」


「二宮さまの髪の色、赤い髪は見たことがないのです。会ったときから外国の方だと思っていました」

 灯桜はうつむき二宮から目をそむけながら言った。


「では、なぜ属国と思った?」

「そ、それは……勘でございます」


 灯桜がそう言ったあと、二宮が長い息を吐く音がした。

 赤い髪をかきむしりながら、二宮がそっと口を開いた。


「そうだ。俺は太神帝国の属国の出だ」

「でも、どうして五稜国に? 太神帝国と五稜国の間には海があると聞きます」


「小舟をこさえたんだ。ほんと粗末な小舟を。

 俺は太神帝国から呪師の徴発を受けていて、どうしても逃れたかったんだ」


「でもそれなら、監視されていたのではないですか。逃げるのは難しいでしょうし、それに小舟をこさえたところで生きて渡るのはもっと困難です」


「生きて渡ろうなんて考えてない。帝国の呪師になるくらいなら死んだっていいんだ。ほんとは自害すればいいだけだったが、帝国の土に身を残したくなかった」


「それはどうして?」


「三宮は見ただろ。死骸がうごめく姿を、呪師の操り人形になって使われる姿を。帝国の支配する地で死ねば、俺の亡骸は呪師によって蘇生させられる。鬼に生きた人間を喰わせてその見返りに偽りの命を吹き込むんだ。そして操り人形として呪師に使われ、新たなる殺戮を行う道具になる。死骸に死骸を重ねる穢らわしい連鎖に組み込まれたくなかったんだ」


「だから海に身を捧げたのですか」


「そうだ。その漂流の最中さなかに五稜国が俺を引き上げた。いま生きているなんて考えもしなかった。まさか太神帝国に忍び込んでまで埋め合わせ(・・・・・)を探している国があるなんてことも」


 二宮の拳は未だに固く固く握られている。

 顔は冷静だがまだ内に業火を秘めている。


「ごめんなさい」

 灯桜は二宮に頭を下げた。


「どうして謝る」


「だって、嫌なことを思い出させてしまいましたから。私が『属国出身なんでしょうか』と聞いてしまいましたから。ごめんなさい。ほんとごめんなさい」


 灯桜のもとに二宮が近づいてきた。

 うつむく灯桜の肩に二宮が触れてきた。


「気にするな。事実を知るのは早い方がいい。隠す意味なんてないことだ」


 灯桜は静かに顔を上げた。

 目の前で二宮がそっとほほえみかけた。




「いっけーぇ! あはははは!」


 庭から幼い少女の声が聞こえた。

 場違いなほど明るい声を上げながら大とかげにまたがった姫が庭を駆けている。

 草を焼き払うはずの二宮の火神が完全に屈服している絵だ。


「あははは、ぺたぺた。いっけーぇ!」


 どうやら姫は二宮の神を『ぺたぺた』と呼んでいる。

 灯桜は立ちあがり、庭へと駆け出た。


「三宮、行くな!」

 背後から二宮の声がした。


「神の戯れに巫ごときが立ち入ってはならない」


 二宮にそう言われた灯桜は神殿の小部屋へと戻った。

 庭ではまだ姫がぺたぺたを駆って遊んでいた。大とかげの神はぺたぺたという足音をたてて庭じゅうを走っていた


「人に従わせるのは呪師の考え方だ。神を鬼にしてはならない」

「つ、つい忘れておりました。巫の身として、は、恥ずかしく存じます」


 灯桜は慌てながら言った。


「いやいやそんなに顔を赤くしなくても、三宮ならきっと心得ていると信じてる」


 二宮はそう言いながら空を見ていた。

 灯桜もつられて外を見ると、激しい夏の日差しが雲へと隠れつつあった。

 干魃の五稜国に雲がかかるのはありがたいはずなのに、灯桜は喜べなかった。

 いまも人の願いで天が操られているに違いないと疑っていた。


「神を鬼に変えてしまった巫がいるんだ。いまも、この鏡宮に」


 灯桜の横で二宮がそっとつぶやいた。



   ***



 そのころ、五大殿の枢密院では会議が行われていた。

 議場にはろうそくが一本だけ灯っている。枢密院の壁は漆黒に塗られており、白亜に彩られていた五大殿の外壁とは対照的だ。炎の光は黒い壁に吸い込まれてしまい、会議の出席者の顔はよく見えない。身体の輪郭がかろうじて認識できる程度だった。


 出席者は長方形の台を挟んで二列に並んでいる。その列の先、枢密院の上座には二人の男が並んでいた。その姿は闇の中でよく見えない。ただ、死体の臭いすら隠せるほどのきつい香が漂っていた。


「朱雀橋の件、神への供物が焼かれたと聞く。真か」

 上座の男の一人が問うた。


「真でございます」

 出席者の一人がそう答えた。最も下座にいることからこの者は『鏡人かがみびと』という官人。専らまつりごとの議に入って忠言を行うことを職務とし、政策のための調査を除いて他の職務は行わない。大臣、将軍、一宮以上の巫、帝以外で枢密院に入れる唯一の役職だ。


「鏡人の者よ、誰の仕業がわかったか」

「赤宮の二宮でございます」


「ふん、奴らしい」

 また別の男が吐き捨てるように言った。


「しかし、鏡人よ。ほんとうに赤宮二宮だけか? ここ鏡宮において朱雀橋を焼く馬鹿はあの巫しかいない。そのような自明な答えを我が求めておると思うのか」


 上座の男がまた問うた。

 二人のうち一方が話すのみで、もう一人は黙ったままだ。


「もちろん共謀者は把握しております」

「誰だ?」


「青宮三宮でございます」

 鏡人は答えた。


「なぜだ? なぜ奴はそんなところにいる?」

「今日の神託、青宮三宮は黄宮を通って一の朝堂へ入りました。この目で直々に確認しております」


 黒宮一宮がそう言って軽く一礼した。その瞬間、ろうそくの光が鏡で反射した。


「なにゆえ黄宮を通る。青宮を通ればすぐではないか」

 上座の男がまた問う。


「おそらく鏡宮の頂、宮巫から指令が下っていたのでしょう」

 黒宮一宮が淡々と答えた。


「宮巫め、余計な真似を……。三宮の力はいかほどぞ?」

「私が見る限りではさほど強くはありません。渇水を解決できず、川辺の里の民を怒らせたほどの巫でございます。結ばれている神もちんちくりんで朝堂では眠っておりました」

 黒宮一宮は上座の男にそう言った。


「しかしそなたの目に見えるのなら、三宮の神は鏡に宿らぬもの。青宮三宮も並の巫ではない」

「ええ、警戒は必要です。那我ながさまも早急に手を打たねばなりません。今日の青宮一宮の神託は我々の行いを暗示しております。青宮三宮には気づかれたかもしれません」


 上座にいる男、那我は香の染みこんだ黒衣をめくった。

 そこには青銅の鏡が隠されていた。枢密院の誰にも聞こえないほどの声で那我は鏡にささやきかけると、鏡の中におわすものは何処へと消えていった。


「黒宮一宮、青宮一宮はどうしている?」

 那我が聞いた。


「いまは牢で眠っております」

「まったく、あの童女は恐ろしい巫ぞ。太神帝国で神すら狂わす妖術師と言われていただけのことはある。陰で神をも眠らす香を調合し、自らに宿るものを封じて正気を保っていたとは……」

「あれが完全に目覚めれば、我々に勝ち目はありません」

 黒宮一宮は弱々しい声で那我に言った。


「心配せずともよい。次、目覚めるときは我々のものだ。ここ鏡宮のみならず、本国でも大規模な祈祷が始まっている。青宮一宮とて逆らえまい」


 那我はそう言って、下座にいる鏡人に視線を送った。


「青宮三宮はいまどうしている?」

「いまは自らの神殿に戻ったと官人から聞いております。どうやら赤宮二宮も三宮の神殿にいるようです」


 鏡人の答えを聞いて、那我はふんと鼻息を立てた。


「よい。鏡人よ、いますぐ枢密院を出て我がつかえに供物の手配を命じよ」

「御意!」

 那我に命じられた鏡人は音を立てぬよう枢密院より去っていった。


「黒宮一宮は雨乞いを続けて、この帝と大臣どもを安心させたまえ」

「御意」


 黒宮一宮は那我に一礼した。


「青宮三宮は早急に始末せねばならぬ。宮巫、黄宮一宮、赤宮二宮とともにな」

「那我さま、なにかお手伝いすることはございますか」


「黒宮一宮。いくら本国の支援があるとはいえ、朱雀橋の件で供物は減ったのだぞ。そのような余裕などなかろう。

 あくまでも普通の巫として振る舞いたまえ。時が満ちるまで水を切らしてはならぬ。我も用が済めば本国に委ねるつもりだ。何刻も呪師をやっていたら帝や大臣に顔向けできなくなる」


 那我がそう言ったあと、黒宮一宮も一礼して枢密院を去っていった。



 黒宮一宮の姿が見えなくなったころ、枢密院のろうそくがひとりでに灯りだし、顔がはっきり見えるほど明るくなっていった。議場には那我のほかに帝と大臣、兵を司る将軍がいた。

 那我以外の者は顔面が蒼白となっており、目の光は失われていた。それが炎に照らされることで一斉に人間らしい表情へ戻っていったのだ。


「那我さま、都の渇水は解決できるのでしょうか」

 帝は那我にそう問うた。どうやら那我は神への交渉をするという名目で帝らの意識を奪ったようだ。

 もはや鏡宮において那我は巫の一人となっていた。


「ご安心ください。今日は良き風が吹いております。供物などなくとも鏡宮におわします神は雨をもたらして下さります。いくら黒宮の巫が力不足でも、わたくしがいる限り鏡宮の水が涸れることはありません」

 帝はそれを聞いて、胸をなでおろした。


「しかし、この雨水を維持するには神に捧げ物をせねばなりません。今後も供物の手配に協力を願います」

 那我は帝に一礼した。


「もちろんでございます。五稜国のため尽力して下さる那我さまのために、最大限の支援をいたす所存でございます。必要なものがあればなんなりと申しつけてください」


 鏡宮において神とともにいる巫は帝より上の存在。那我が成果をあげ続ける限り、帝は逆らうことはない。

 鬼の使い手だと知らず、深々と礼をする帝の姿を那我は見つめていた。

 那我の鏡より鬼が飛び立ったのを、枢密院にいる者は誰も知らない。

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