七 明けの神託、青の一宮
黄宮一宮の敷地は白と黒の粒が織り混じる巨岩で埋め尽くされていた。荒涼たる庭の向こうには朱と白亜の神殿があり、その奥に五大殿がそびえ立つ。明けの神託が開かれる一の朝堂はその中だ。
神殿にはすでに一宮が待っていた。
黄宮の一宮は三十ほどの女の巫で肌は里の者のごとく焼けている。朽葉の衣がやけに明るく見えるほどだ。鏡には庭と同じ岩が映っていた。
堅固なる神を宿す巫は袖を捲り、男のような筋肉を見せつけて手を鳴らしていた。
「青宮三宮……」
肉を求める猛獣のような顔に灯桜は思わず「ひっ」と声を漏らした。それがよくなかったのか神殿に入った瞬間、一宮が襲ってきた。
「遅い! なぜだ?」
灯桜は一宮に首を掴まれ、右腕一本で持ち上げられた。
「なにやってたんだ、言え!」
「おぁ、え、あな、して……」
「聞こえん! ちゃんと喋れ!」
「ぐいあ、いまってで。やべれまえん」
灯桜は首が絞まっていてまともに喋れない。離してと言っても一宮の握力はさらに強まっていく。
灯桜の横に姫がいるが、なにもせずただ見ているだけ。一宮も姫のことなどまったく気にしていないようだ。
「弱い、弱すぎる。だからあの程度の移動で吐くんだ」
は、吐く? 覚えがない。
なのに一宮は灯桜の首を絞めたまま、さんざん宮さまの神殿で嘔吐したことを連呼し責め立ててくる。
灯桜の顔は真っ赤だ。
さんざん首を締めあげられたあげく、灯桜は投げ飛ばされた。神殿の縁に背中から着地してひどく咳き込んだ。そんな灯桜の頬を姫がつんつん突いて笑う。
灯桜は思った。この女は危ないと。
黄宮は土を司る。里外れの森から宮さまの神殿に向かうときに使った土の神の力は一宮のもの。あの暴虐的な速度と荒さは、いまの対応とそっくりだ。たぶんいつもこんな感じなのだろう。灯桜はしっかり頭に叩き込んだ。
「なに、ぶっ倒れてる? とっとと立て! 間に合わんぞ」
灯桜は一宮に無理やり起こされ、五大殿の門へ向かって引っ張られる。
「遅い! もっと速く走れ! 全力疾走だ!」
もうめちゃくちゃだ。そんなに急かすなら、首など絞めずに門を通してくれればよかったのに……。
きっと黄宮一宮の頭は筋肉でできているに違いない。
姫が後ろから走ってくる。でもその速さは五つの童女と同じ。灯桜たちとの距離はどんどん開いていく。だが一宮はなにも考えていない。姫を置いて五大殿の門を通過した。一宮にとって神の存在などどうでもいいのだろうか。神は鏡に宿っているものと信じて周りを見ていないだけなのか。まさか、見えていないなんてことはないはず。
灯桜は一宮の頭を理解できずにいた。
***
五大殿の南側にある一の朝堂は、三百人はゆうに入るであろう建物だった。神殿の外観と同じく柱は朱、壁は白亜に塗られている。正面には牛車が三台横並びで通れるほどの青銅の門があり、高さは男六人分ほどあった。
大広間に入るとすでに巫たちが並んでいた。遅刻寸前だった灯桜は広間の一番右手、後方に座わるよう指示を受けた。灯桜は正座で神託の時を待った。
もちろん話す内容はまだ決まっていない。灯桜は振り返って姫を見る。遅れていた姫はよたよたと灯桜の許にやってきて、そのまま背中に倒れ込んできた。声を潜めながら問いかけてもなんの反応もない。
なんと、寝ていたのだ。
早すぎる。期待するなということか。
灯桜はない頭で神託を導こうとした。
けれども周りの光景が気になってとても集中できない。
本来、巫は青、赤、黄、白、黒の五宮に各三人いることになっている。つまり合計十五人。
だが、大広間はまばらだ。灯桜のすぐ左、赤宮の列には誰もおらず、中央の列の先頭に座る猛獣、黄宮一宮の姿がよく見えた。
赤宮は暇を与えられている。だから明けの神託には出る必要はないと赤宮の二宮が言っていた。だから一列まるまる空くのは納得できる。しかし、他の宮もみな二人以下だ。黄宮は三宮が欠けていて、白宮は二宮がいない。黒宮にいたっては一宮だけだ。
黒宮は水神の宮。国中が干魃に見舞われる中、最も大切な宮のはず。なのに一人しかいない。不思議だ。
青宮も灯桜の他には一宮だけだった。
青宮一宮は不思議な格好をしていた。他の巫が軒並み軽装なのに対し、重くて暑苦しい青い外套を纏っている。夏至を過ぎたばかりなのに季節外れにもほどがある。唐衣や裳でもない外套はどこか異国の人を思わせる。顔は見えないが髪の長さから女に違いない。
首から提げた鏡は灯桜から見えない。あの中に宿るものはいったいなんだろうか。
御影は最も近いはずの青宮一宮を避け、黄宮から朝堂へ入らせようとした。きっと前にいる一宮はなにか良からぬものを持っているのだろう。灯桜に付けられたあの三人には、宮さまから指令が下っていたに違いない。
一宮より漂う香のにおいも灯桜の中にある疑念を強めた。朱雀橋の荷に入っていた香とは違うものの、腐肉を隠すがごとく惑わす意図が感じられる。
この香のにおいは快い。そして危険だ。
なぜこのような者を鏡宮に入れたのだろう。どうして排除できなかったのだろう。呪師を祓うのも巫の務めだ。
だが、鏡宮の巫は欠員ばかり。特に黒宮の崩壊具合は著しい。
御影は隣の黒宮も選ばなかった。やはりあの一宮も鬼を宿しているのだろうか。
鏡宮はすでに堕ちている。
灯桜は欠けた青宮の埋め合わせに使われたのだ。
どうしてこのような惨状となったのだろうか。灯桜は疑問を抱かずにはいられなかった。
置かれた現状に吐き気がする。
でも、ここで吐露してはならない。いまは堪えないと。
朝堂の壇上に帝が座った。黄丹の衣に金の装飾を纏った精悍な顔つきの壮年だ。禁色のお召し物を着ているが正確には帝の仕であり、代役にすぎない。この明けの神託は帝の名において、各宮の巫に『自らのいる朝堂へ下りて、神託を宣り給う奏す』もの。建前にすぎなくとも、壇上にいるのは帝でなければならない。
帝からは神の気配も鬼の気配もしないし、朱雀橋の男のように呪物を持っているわけでもない。
けれども、帝が現れてから空に黒い猛禽の姿がちらつく。遠すぎて鬼かどうかはわからない。単に本物が飛んでいるだけかもしれない。
灯桜はちらりと姫を見た。姫はまだ背中にもたれて寝ていた。
「日は丁。赤宮一宮より戻りて、明けの神託を仰せ給えと奏す」
帝が宣言を終えると壇より下りてくる。青宮一宮の前に立つとそのまま地面に膝をつけて礼をした。完全に土下座の体勢だ。
明けの神託には規則がある。執り行われる日が十干のどれに当たるかでどの神から神託を授けるか決まるのだ。甲乙なら木の神、丙丁は火神、戊辰なら土の神、庚申は金神、壬癸であれば水神となる。
今日は丁、よって火神から始まる。だが、丙と丁でも順番は変わる。丙なら『赤三宮より巡りて』となり、赤三宮、二宮、一宮の順に上がっていき、次は土の神である黄三宮へ移っていく。その後は十干の順通りとなる。逆に丁なら赤一宮、二宮、三宮の順に下がっていき、次は前にいる青一宮に移る。十干の逆順だ。
神聖なる儀式ゆえ、こればかりは灯桜も水明の超速鬼畜教育により叩き込まれていた。
灯桜の心の鼓動が早くなる。赤宮は全員欠席。青二宮もいない。灯桜は二番目に神託を述べねばならない。しかし姫は神託を与えてくれない。ずっと呪符やまわりのことで頭がいっぱいだったから、それらしい言葉すら浮かばない。
灯桜の小袖の中には朱砂がくれた黒い羽がある。この羽は朱砂が理由あって渡してくれた。
でも、これがなにを示すというのか? 朱砂は巫ではない。神はおらず神託を受ける力は持たぬはず。
いや、そんなこと考えている暇はない。
なにを言えばいい?
なにを言えば、なにを言えば……。
灯桜は姫に向かって念じた。
『此度の神託、姫のお言葉を賜りたく存ず』と。
姫からは相変わらず寝息が聞こえる。
やはり期待したのが間違いだった。
その間、青宮一宮が神託を告げていた。
「朱雀橋、黒の供物は火に敗れ、
天の水瓶尽き果てん。
都渇いて黒き翼は塵と化し、
目覚めた鏡、現を映しだす。
これ知る者よ、心せよ。銀朱の色を誤るなかれ」
五七を繰り返し、七七で締める独特の規則。字足らずはあるものの一宮は厳かに言葉を紡いだ。
朱雀橋、黒の供物は火に破れ……。
灯桜には覚えがある。一宮が言っているのはきっとあの荷物に違いない。そして黒き翼……。小袖に隠した羽根が頭に浮かぶ。
一宮はとんでもないことを言い放った。
でも言ったのは鬼と契った疑惑がある青宮一宮。どこまで真実かわからない。鬼のささやきから生まれた言葉ならまったく意味はない。奴らは嘘だって言いのけるから。
しかし、灯桜は神とつながっていない。自分で真実を見通し、確かめる力は持っていない
次は灯桜の番、帝役の仕がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。仕といえども本物の帝と思わせるほど厳かな雰囲気を纏っていて、灯桜の心臓に鞭が入る。鼓動はどんどん速くなる。
もちろん神託は用意できていない。
灯桜の前に帝が座った。
「青三宮さま、ご神託宣い給う奏す」
帝は深々と礼をして、頭を地に着けた。
灯桜の頭は真っ白になった。帝を前にして体に冷や汗が流れる。無言というわけにはいかない。なにかを話さない限りこの仮初めの帝は待ち続ける。もう逃げられないんだ!
灯桜は口を開いた。
「神託などございません。鏡宮は神から見放されたのです」
帝が顔を上げて目を見開いた。
まずい発言だとわかっていた。でも、少なくとも姫からの神託はなかったことは事実。いま、姫は背中で寝ている。鏡宮へ神の言葉を授ける意思がないことは姫の姿が見える巫が証明してくれる。
灯桜の言葉はあながち嘘ではない。
「それは……なんということだ?」
帝の顔は強張り、肩は力なく沈んでいく。そこに朝堂のあらゆる場所から官人が集いだした。
仮初めの帝を囲み、灯桜を置いてなにやら声を忍ばせて話し始めた。帝は朝堂の奥へと身を引いた。なにを話しているかわからないが、帝の青ざめゆく様子だけは見えた。
官人たちの慌てぶりは凄まじく、帝に事を伝えたあとは走って朝堂を飛び出し、五大殿の各所に消えていった。帝は再び巫のもとへ戻ってくる。
灯桜の次は黒宮。だが帝は朝堂の中央、黄宮一宮の前で跪いた。
「畏れ多くも、十五の宮さまに奏す。青宮二柱の宣いしご神託に従い、これより宮へ上がりて慈雨の祈祷を給わりたく存ず。事は緊急を要す。ゆえに明けの神託は後日参らせる仕に授け給う奏す」
帝が深々と礼する中、巫たちは無言で立ちあがって朝堂を後にしていく。
呆然としていた灯桜も他の巫にならい、朝堂を出た。
巫たちは自らの属する宮へ帰っていく。灯桜は姫を背負ったまま先ほど通った黄宮の門へと向かった。
「三宮、なぜ我を避ける?」
背後からの声は青宮一宮のものだ。
灯桜は振り返る。
「一宮……さま?」と思わず声を漏らすほど一宮はあどけなかった。おそらく灯桜より年下、十二か十三だろう。話し方からは想像できない。灯桜ですら幼いのに、鏡宮の巫女という立場を背負うには重すぎる。青い衣に青い袖なし外套を身につけた姿よりも年の方が衝撃的だ。
そんな彼女の鏡に宿る神はなかった。
鏡の中の姿を見ても神か鬼かは判別できないと聞く。呪符とは違い、鏡の守りは強固だ。一度契った神が鏡に宿り続けるのも鏡の力が大きいため。だが、その力は鬼の隠れ蓑にもなる。だからたとえ一宮の鏡になにかが映っていてもその本性はわからない。
なにも映っていないとなるとさらに謎だ。
「どうして我を避けるのだ? なぜ最も近い我が宮を通らぬ? 答えよ!」
灯桜はなにも答えなかった。
下手に答えれば余計目をつけられるに違いない。
「なぜだ。我が穢れているとでもいうのか」
なぜそのようなことを聞くのだろう?
うつむく一宮の顔には影が差し込んでいた。いままでの事実から一宮はきっと鬼に囚われている。陰影はいまの一宮を示しているかのようだ。
それにしてもなぜ衣の袖を濡らす? 見ているだけで悲痛だ。
「もうよい。今日は黄宮を通るがよい。だが、また改めて問う。三宮の答えを我は待っている」
一宮は外套を翻して足早に灯桜に青宮へと帰っていく。流した涙が一瞬、陽の光できらめいた。
気づけば五大殿に残る巫は灯桜だけとなっていた。あの猛獣的な黄宮一宮もすでに自らの宮へ帰っている。ただ、門だけは開け放ってくれていた。
灯桜は全力疾走で黄宮の門を通り抜けた。