五 巫女の勤め、潰れた果実
翌の暁時。三宮の神殿で灯桜は祈りを捧げていた。鏡を掲げ、鈴の音が鳴るなか神の言葉を待っている。
夏だというのに緑に朽葉を重ねた五衣を着て、さらに緋の衣を羽織るものだからとても暑く、ひどく重い。全身から汗が滲み出てきて、青銅の鏡を落とさぬよう掲げるだけで精一杯。おまけに長過ぎる衣を踏まぬよう気をつけながら、神楽を舞わなければならないのだ。
「なぜこのような分厚くて長すぎる衣を着ないとならないのですか」
「鏡宮の巫女は正装、またはそれに準じる衣を身につけて神託を得ることと定められております」
大学寮出身、教育係の水明がほほえみながらそう言った。そして朱砂という女官によって着付けされ、いまのような姿となっている。この装束を着るだけでも一刻かかった。いまの灯桜にそんな余裕などないのにかかわらず。
昨日、三宮に残された灯桜は寝込んでしまった。里の追放、鏡宮への不快な大移動、宮さまへの謁見、怒涛の情報に徹夜……。緊張のときが続いていたから起きていられたものの、身体には疲れがたまっていた。それから資人と呼ばれた三人と出会った後に待っていたのは、水明の鬼畜爆速詰め込み教育だった。灯桜はわずか五刻のうちに鏡宮のことを叩き込まれ、ついに耐えきれず倒れてしまった。
そして寝過ごした……ということらしい。外はまだ闇に包まれているが鏡宮の朝は早く、役人は暁に目覚め家を出るのだという。水明に強引に起こされて灯桜は知らせを聞かされた。
『翌朝、一の朝堂にてご神託賜りたく、帝の許へ下り給う奏す』
というわけで日の出までに神託を用意しなければならなくなった。けれども灯桜のもとに神託は下りてこない。時間だけが過ぎていく。
背後には水明の監視がある。祝詞を唱えているが意味はまったくわからない。その隣には二本の太刀を提げた武官、御影が腕を組み、ときおり足を揺らしながら待っていた。朱砂は紅梅の小袖ではなく、紅の袴に千早を着ている。両手に鈴を持ち、神殿に音を鳴り響かせる。しかしその音はどこか弱々しい。
「朱砂、気を抜いてはなりませぬ。三宮さまが神の言葉を受けられるよう最善を尽くすことがわれわれの役目。古代から受け継がれる作法を守り、神を喜んでもらわねばなりませぬ。さもなければ良きご神託は得られず、三宮さまを困らせることになります」
「は、はいです」
朱砂の鈴の音が盛り返す。灯桜が神楽のさなか見た朱砂は、くるくる回りながら開け放された外を見ていた。神殿の内を向くときは速く、外を向くときは明らかに遅い。水明なら「作法がなっていない」と言いそうだ。でも、灯桜にとってはどうでもいい。
「ねえ、なにやってるの?」
外から姫の声がした。姫は頬を膨らし退屈そうな様子で灯桜を見ている。やはり巫の鏡に宿らぬ姫は人の神ではない。形だけの神楽など意味はない。ほんと、馬鹿馬鹿しい!
灯桜は舞を止めた。
「三宮さま、ご神託の用意はできましたか」と水明が問う。
灯桜は目を合わさず首を横に降った。その横で御影があくびをしている。ほんとうに鏡宮の人かと疑いたくなるほど行儀が悪い。話し方も雰囲気も里の者と似ている。
「では、なぜ舞をやめられたのですか」
「私とともにおる姫はこのような儀式を望んでいないのです」
水明は言い返してこなかった。いくら教育係を任されるほどの博識とはいえど、巫の世界は知らない。
間違いなく水明に姫を見る力はない。いまも神殿の外で蛾と戯れる姫のことを知らない。だからそう言えばなにも反論されることはないし、案の定そうだった。
「もう明けちまうぞ……。儀式がいらないならとっとと準備させろ」
「御影! その口は改めなさい。公の場なら不敬罪、鞭打ち十発に値します」
「はいよ~」
水明がとがめるも御影は反省する気すらない様子。それどころか「書に載っていることがすべてとは限らねぇよ」とふてくされながら反論し、さらに朱砂に呼びかけて巻き込んだ。
朱砂はそれに「は、はいです!」と慌てながら答えた。きっと内容などわかっていないだろう。
「なぜ、朱砂まで……」
結果的に一対二となった水明は呆然と立ちつくすばかりだった。なかば放心状態となった水明を差し置いて、朱砂が灯桜のそばにくる。
「では、三宮さま。急いで着替えましょう」
朱砂に連れられて灯桜は別室に入った。
重い衣が次々と外され、涼やかな開放感に包まれる。身体を冷やさぬようと、汗取りの布を当てられた。
「一の朝堂へゆくときは普段の服でも構いません。鏡宮において巫は最上でございます。それに朝堂にいるのはあくまでも帝の仕。位階も三宮さまより下ですので服制をとがめることはありません。最もお力を発揮できるお姿であればよいのです」
朱砂の言葉に灯桜は少し安心した。また別の重たい服を着けられることはなさそうだ。その代わり過大な期待を寄せられているが……。
「でもお気をつけください。いまの宮は……」
朱砂がなにかを言いかけた。
「朱砂、どうかしたの?」
「いえ、なんでもないです」
そう言って朱砂が灯桜にあるものを渡した
固い芯にやわらかな感触。それは黒い羽だった。ひどく傷んだ黒い鳥の羽だった。
「神殿の外より風が運んだものでございます。なにかのお役にたてればよいですが……」
灯桜はその意味を捉えようとした。
朱砂は灯桜の仕。このような汚いものを渡すとは思えない。朱砂なりの考えがあるに違いないと灯桜は思っていた。だけどまるで思い浮かばない。
「それとお召し物の中に入っていた袋は処分いたしました」
「なぜ?」
あれは姫からもらった大切な袋だ。
「命銀が二つ入っておりましたが、潰れて汁が漏れておりました。せっかくの服に染みができてはいけませんし、縁起が悪うございます」
朱砂の言葉で灯桜は思い返した。
一の朝堂がある五大殿は鬼が潜むと宮さまが言っていた。太神帝国の鬼はいずれ人を喰う。
命銀、命を延ばすという朱の果実が潰れた。その意味するところは『死』だ。
でも、朱砂は巫ではない。世を見通す神とつながっているわけではない。けれども命が消えてゆく現実はもう迫っている。
「気を落とさないでくださいませ。大丈夫、きっと三宮さまなら乗り切れます」
「どうしてそう言える?」
灯桜はいまだ朝堂へ持ちゆく神託すら用意できていない。里を追われた前科も持つ力なき巫。なにゆえ、乗り切れると言うのだろう?
「勘でございます。朱砂は信じております」
朱砂がそう言いながら灯桜にあるものを差し出した。
青い鞘に入った太刀だった。御影が持つものより小さい二尺三寸ほどの長さで、鞘から出した刀身は鏡面に磨かれた金属の光を放っていた。それなのに鋼や青銅のような重さはなく、木の棒よりも軽い。
「これは……?」
「青宮三宮に伝わる巫の剣でございます。巫は鏡だけでなく剣も持つことになっております。外へゆくときはお忘れなきように」
朱砂がそう言って部屋の扉を開け放った。
扉の向こうに腕を組む御影の姿があった。
「では朝堂へ、行ってらっしゃいませ!」
***
灯桜は三宮を出てすぐ南へ下った。隣には御影が付いている。目指す場所は黄宮一宮。
一の朝堂の入口は五つあり、五宮(青、赤、黄、白、黒)それぞれの一宮から入ることになる。巫は鏡宮中心の五大殿の守護も担っている。一宮の許しがなければいかなる者も入れない決まりだ。
灯桜は鏡宮の東側、青宮に属す。ゆえに最も近いのは青宮一宮だ。
しかし、黄宮から入ることを御影から告げられた。
鏡宮は空から見れば切り込み浅き五芒星となっていて、真北に黒宮、東北東に青宮、南東に赤宮、南西に黄宮、西北西に白宮が配置されている。つまり黄宮は最も遠い。
灯桜は大迂回のわけを問うたが、御影は答えなかった。
「ったく、なんで五大殿なんかに行かなきゃならねぇんだ」
御影が悪態をつきながら灯桜の右手を歩く。
御影の身体越しに真朱の柱に彩られた白亜の五大殿が見える。きらびやかな金色の装飾が太陽光を反射し、とてもまぶしい。
その反対、灯桜の左を姫が走っている。すぐそばには幅二十丈の堀があり、国を襲う干魃が嘘のように水で満たされている。深さは男十人ほど。風に揺れる水は澄みきり、潜む者を暴くかのようだ。
向こうには京の町が広がっている。遠目で見る限り、人々は里より上等な服を着ている。おまけに飢えてやせ細っている感じの者は一人もいない。
「どうだ? 外の方がましに見えるだろう」
御影の問いかけに、灯桜は答えなかった。
「あっちから見れば鏡宮は一握りの人間がゆける神の世界。俺をこき使っていた官人は五芒星の内側に住むことが夢だとほざいていた」
赤宮を通り過ぎると橋が見えた。
これは京の町から鏡宮へ繋がる唯一の橋。南にあることから朱雀橋と呼ばれている。橋の両側には関所が設けられており、巫の長か帝のどちらかが許可した者しか通行できない。一般庶民や下級官人は一度も渡ることなく生涯を終える。橋を渡り、宮に行くのは栄誉なことだと水明から聞かされた。
「けどな、奴らの目はことごとく曇っている」
「曇っている? どういうこと?」
「俺が言わなくともわかるだろう」
灯桜は対岸を見た。朱雀橋の近くには役所が集中している。鏡宮と近く事務上便利なためだ。
橋の脇にはすでに宮へ納める大量の品物が並んでいる。二十丈以上離れた場所から見えるほどの量は、明らかに過剰だ。残ったものが官人の手にゆくことは簡単に想像できる。それにこの堀の水。干魃の情報が耳に入ったとしても実感など湧くわけがない。
彼らは聖域の中に住んでいる。鬼の姿など見えていない。
朱雀橋の此岸で三人の官人が談笑している。そのうちの一人に灯桜は見覚えがあった。
宮さまの神殿で灯桜の名を問い、鬼に捧ごうとした男だ。あれは鬼の手に堕ちている。その証拠に手に持つ品物は闇をはらみ、光をも喰らおうとするほど飢えている。そのさまはまさしく鬼のもの。なにかを喰らわねば力を揮えぬ存在は二人の官人に手を伸ばそうとしていた。
「見るな!」
御影が前方を見据えながらささやいた。関わってはならぬと横目で牽制している。
灯桜は太刀に伸ばしかけた手を引いた。胸元に掛けた青銅の鏡をそっと握る。本来は鏡に宿す神の力を借りて鬼を祓い、災禍を滅するのが巫の務め。胸元に神おわす巫なら、あのような小物など触れるだけで焼き焦がすだろう。
けれども灯桜の鏡に神は宿らない。姫は灯桜の手を離れ五芒星の縁を走っている。巫が力を持ち、高貴な位につけるのは神と一体だからこそ。神と離れてしまえば、たとえ神を見る力があろうともただの人にすぎない。
いまの灯桜に務めを果たす力はない。
「おやおや、奇遇ですな。青三宮さま」
灯桜を呼び止める声が聞こえた。男が朱雀橋より離れ、近づいてくる。黄宮は男の向こうにある。まるで行く手を阻むかのように、道の中央に立ちはだかった。
「ちっ、時間がねぇのに……」
御影が灯桜の前に立ち、太刀を抜いた。