三 鏡宮の巫女、課せられし定め
鏡宮へつながる穴の中は見たことのない光景だった。
地面が脈打っているのだ。
一歩も歩かずとも身体が勝手に前へ前へと進む。地面が灯桜たちを運んでいる。その速さは海を渡る鳥のよう。火神の石によって照らされた壁が、瞬く間に後ろへ流れていく。
これが宮におわす土の神の力。
だが神とて完璧ではない。
高速で動く地面はひどく揺れるため、不慣れな者は気分が悪くなる。土の神は酔いを治すことも防ぐこともできない。
灯桜は顔を真っ青にしてしゃがみこんでいた。
使者が前に立ち両腕で身体を包み込む。
「灯桜さま、宮までは半刻ほど。あと少しの辛抱でございます。目を閉じてお待ちください」
いくら目を閉じていても地面の揺れは消えない。風圧も使者が前にいることでほんの少し和らいでいるが、髪が乱れるほど強く、痛みすら感じる。灯桜の身体はひどく震えていた。
使者がさらに深く抱き支える。その顔は頬が触れるほど近かった。
一方で姫は灯桜と対照的だった。
「うわわわぁ〜。すごい、すごい! 動いてる~!」
動く地面に感激しながら、ぴょんぴょん飛び跳ねている。
「あまり動いてはなりませぬ。取り残されてしまいます」
使者の注意を無視して、姫は動く地面の上を走りだした。前に向かっているからいいものの、もし気が変わって逆走したら本当に取り残されてしまう。
「申し訳ございませんが、灯桜さま。ともにおわします姫神を鎮めていただけないでしょうか。……灯桜さま?」
灯桜は目を閉じたまま頬を赤らめていた。
使者がそっと手を離す。
灯桜の上半身はずるずると地面に滑り落ちた。
「ひ、灯桜さまぁーっ!」
穴の中に響く叫びをよそに、姫は脈動する地面と戯れていた。
「あはははは。すごい、すご~い!」
***
それから三刻後、灯桜は目を覚ました。
辺りはもう土の壁ではない。木の骨組みが見える。
背中にはやたら硬いものがある。痛くて冷たいそれに触れると、滑らかに磨かれた石の床だった。
「気分はいかがでしょうか」
「な、なんとか大丈夫です」
使者にそう答え、灯桜は手を腰に当てながらゆっくりと身体を起こした。
身体の痛みと酔いはまだ残っている。胸の気分が悪い。。
「申し訳ございません。一刻かかっても緩やかな旅路にすべきでした。以後このような乱暴はなきよう、土の神に申し伝えておきます」
使者はいきなり土下座しだした。
「そんなに謝らないでください。もっと自然に接してほしいです」
「宮ではこれが自然なのでございます。『帝の許へ下る』という言葉があるように巫は頂点に立つお方。それゆえ……」
使者は土下座どころか頭まで地面につけている。
「いえ、逆に無礼です。どうか私に対してはそんな固くならないでください」
使者は「御意」と言いながら、ますます深く礼をした。
そんな使者を姫が横からつついている。しかし、使者の姿勢は変わらない。
姫がこてんと首をかしげる。どうやら改善の見込みはなさそうだ。
相変わらず土下座を続ける使者をよそに、灯桜は立ちあがり辺りを見た。
部屋はやけに広く、ろうそくの明かりでは照らしきれない。見える範囲でも川辺の里にいる三百余人全員を詰め込める。天井は男八人分ほどの高さにあり、梁には樹齢二百は超える大木が惜しげもなく使われている。等間隔に並ぶ柱は男二人でようやく抱ける太さだ。木は真朱に塗られ、石の床と壁は白亜に彩られている。中央には人力では開かぬであろう青銅の観音扉が構えていた。
「ここは……?」
「宮さまの神殿でございます」
使者がようやく立ちあがった。
「神殿?」
「そうです。本来は医師のもとへ行くべきでしたが、宮さまの指示で神殿の前室に留まることになりました」
鏡宮において灯桜はまだ部外者。まずは宮さまという巫を通さなければ、宮の他の場所には行けないということか。
それにしても神の姿は見えない。祭壇も巫の姿もない。
「宮さまはこの扉の向こうでお待ちです」
使者はそう言いながら青銅の扉の前に立った。まるで灯桜の考えを読み切っていたかのようだ。
金属が擦れる音とともに扉がひとりでに開きだす。
「さぁ、こちらへ」
使者に連れられて灯桜は青銅の扉をくぐった。
目に祭壇が飛び込んできた。幅は男何人分あるのだろうか、とても大きい。黒の地に金色の装飾が施された贅の極みの一品。その上には青銅の祭具が並ぶ。維持するだけで多額の銭がいるだろう。
その裁断の手前に黒い布で顔を隠した人が一人座っていた。
胸にかけられた青銅の鏡がろうそくの灯を反射する。この巫こそが鏡宮の頂に座す宮さまだ。
「宮さま。川辺の里の巫、灯桜さまに参宮賜りました」
「よろしい。下がりなさい」
巫の声はひどくしわがれていた。よほど高齢なのだろう。
使者が神殿から退くと、青銅の扉は鈍い金属音とともに閉じた。
「灯桜よ、わしの前へ」
灯桜は宮さまの前に正座した。その後ろに姫が座り、灯桜の身体で身を隠しながら左目をひょっこり出している。そんな二人を巫の鏡に映る黒き霊鳥が見つめていた。
宮さまが顔を包む黒い布を外す。その素顔は白髪の老婆だった。
「まったく。息苦しくてしかたないわい!」
宮さまが愚痴りながら黒い布を投げ捨てた。灯桜は膝元に落ちる布をただ黙って見ていた。
「すまないね。鏡宮には阿呆な慣習があって、宮の頂に立つ巫はこうして目を隠さねばならんのだ」
「それは神の力を宿す目を見てしまうと、目が焼け焦げるからでしょうか」
「さよう。しかし、巫ならわかるじゃろう。わしにそのような力はない」
灯桜は首を横に振った。
眼力で目を潰す巫など神話上の存在。灯桜や姫もそのような力は持っていない。おそらく他の巫も同じ。別に宮さまの力が弱いわけではない。
「私は黒布かぶったことすらありません。ゆえに里を救えず、追われたのです」
「そのことはもう気にするでない。神とて完璧ではないのじゃ。木行が水を操れぬのは世の定め。宮の巫覡とて同じ。いかなる願いも叶えるなど鬼の所業。鬼でないことを誇れ!」
宮さまの言葉に灯桜は言葉を失った。
里を救えぬことは巫としてあってはならぬこと。だから里は鬼の力で雨をもたらした呪師、銀糸を迎えた。自分が神も鬼も知らなければ間違いなく銀糸を選ぶ。
なのに宮さまは鬼でないことを誇れと言った。きっと宮さまなりの慰めの言葉。
灯桜は顔が熱くなるのを感じた。ここ五稜国の頂におわする巫に、気遣いをさせるなど恥ずかしきこと。情けない!
「赤面せずともよい。そなたはまだ若い。姫神がともにおわする限りそなたは巫。これからそのご神徳の許す範囲で五稜国を支えてくれればよい」
灯桜はさらに顔を赤らめた。涙が頬を濡らす。
深い一礼とともに滴が一つ落ちた。
宮さまの裏手から手のひらほどの鏡が出てきた。持つ手の震えるさまから重さがうかがえる。磨かれた青銅はろうそくの灯を反射してほのかな金色に輝いている。
宮さまが手招きした。灯桜は御前に正座し、頭を下げた。
「そなたはわしの胸元に宿る朱雀が選んだ。その意は神とともにおる巫ならわかるじゃろう」
灯桜は「はい」と答える。
神とて完璧ではない。ゆえに保証はない。これからのことはすべて灯桜しだいで決まる。
宮さまが鏡の紐を灯桜の首にかける。手の振動とともに鏡宮の巫女の重みがずっしりと伝わる。そして証の鏡が灯桜の胸元に納まった。
灯桜は顔をゆっくりと上げる。これで晴れて鏡宮の巫女となった。
だが、宮さまは神妙な面持ちだ。
「そなたの神はいと高貴なる姫神、いまもそなたの背に隠れていらっしゃるように、決して鏡に宿ることはない」
灯桜はふと宮さまの鏡におわする黒い朱雀と目が合った。
朱雀の目は潤んでいる。どこか虚ろな眼差しは灯桜、いや、その背中の姫を見ているようだ。
それにしてもこの朱雀の色は名とは違う。宮さまは確かに『朱雀』と言った。
なのになぜ黒いのだろう?
「そなたを巫とするには、鏡も醒麻の酔いもいらぬだろう。だが鏡だけはないと示しがつかんのじゃ。まことに因果なことぞ」
灯桜は固く口を閉じた。
宮さまが朱雀の宿る鏡をそっとなでる。火神の流す涙を灯桜は見逃さなかった。
「成巫の儀は終わりじゃ!」
宮さまは声高に宣言した。もちろん神殿には誰もいない。灯桜と姫、宮さまだけの儀式だった。
しかし本来、成巫の儀は手間のかかるものである。普通の巫の場合、神降ろしから始まる。鏡を受け取った後、醒麻という草の煙を吸って神の世界に行き、神に鏡へ入るよう幾日も願い続ける。神が鏡に宿れば自らの名を差し出し、神から新たな名を授かる。
実際には高揚と陶酔に溺れ、幻覚を見ているだけにすぎないという。だが、灯桜は遊びの中で姫と結ばれた。鏡に宿る過程はわからない。
でも、この儀式はあまりにも省略されている。
「宮さま、これで……」
よいのでしょうか。と灯桜は言いかけてやめた。だが、宮さまは見逃してはいなかった。
「そなたはすでに巫、形だけの儀式はいらぬ。むしろ急いでおる。
そなたに伝えねばならぬことがある」
宮さまがそう言ったとき、神殿に並ぶろうそくの明かりが消えだした。
神殿が闇に包まれていく。
「うわぁ、まっくら~」と姫が声を漏らす。ろうそくは一本だけ残っているが、灯桜の視界からはもう宮さまと姫しか見えない。
三人だけの空間が生まれた。
「これより重要なことを伝える。そなたの身に秘めよ」
宮さまのささやき声に、灯桜は静かにうなずいた。
「いま、五稜国は全土におよぶ干魃に見舞われておる。そなたのいた里もその一つ。この原因はわかるか?」
灯桜は首をかしげた。
あのころはどう飢えを防げばよいかを考えるだけで精一杯だった。姫は水神ではない。水のことは答えてくれない。
「恥ずかしきことに、五稜国は太神帝国による侵略を受けておる。名は聞いたことがあるじゃろう」
灯桜はうなずいた。
太神帝国は隣国に戦を仕掛け、急速に領土を拡大してきた侵略国家。供物を捧げればいかなる願いも叶えるという鬼の力を使い、敵国に災いをもたらし、兵を出すことなく滅ぼしてきた。属国の民はそのまま鬼への供物となり、新たな侵略に使われると聞く。
「ということは、里の干魃は帝国の鬼の仕業ということでしょうか」
灯桜がそう尋ねると、宮さまは力なく認めた。
「実は、太神帝国の手はここ鏡宮にも及んでおる。宮に鬼が取り憑いておるのだ。
ゆえにそなたはこれから鬼と対峙せねばならない」
鏡宮の現状を告げられた灯桜は叫びたい気持ちでいっぱいだった。
やはり訳ありだったのだ。鏡宮の巫女は国を担う重要な職、務める者は貴族となる。たとえ姫がほんとに高貴な神であったとしても、里を追われた巫が呼ばれることなど普通はありえない。
鏡宮の状況がうかがえる。
すでに鏡宮は太神帝国の鬼に憑かれている。灯桜は鬼のそばで暮らし、鬼と戦わねばならない。使者に言われたとおり、灯桜には鏡宮以外に行くあてはない。逃げ場などどこにもない。
運命を受け入れるしかないのだ。
「そうこわばるな」
宮さまがほほえみかける。
「そなたを一人にはせぬ。律令の範囲で仕をつける。その者とともに政を為し、国を守りし給う」
灯桜は沈黙のまま深く礼をした。
「それと、以後はいまの名を使うな。そなたは青宮三宮に入ることになる。以後は青三宮、もしくは三宮と名乗れ」
灯桜は再び一礼する。
「最後に……」
宮さまの視線が灯桜の左後ろに立つ姫を向いた。
「姫神は人の神にあらず。人に従うことなく、神徳は雲間から射す陽光のごとく与えられる。ゆえに他の巫や鬼のような力をそなたは持てぬだろう。だが、決して鬼に囚われてはならぬ」
「鬼はすぐそばに迫っておる」
灯桜の背後で重い金属音がした。
青銅の扉がゆっくりと開きだし、すべてのろうそくに火が灯る。
姫が灯桜の前にまわりこんできた。
扉の向こうには黒の衣に白の袴を穿いた男が立っている。
「宮さま、申し伝えを納めに参りました」
「なぜだ? そのようなもの、仕の者に渡せと命じたはずだ」
「それはその……」
そう隠し笑いする男が灯桜を見た。
「おや、この方が宮さまがおっしゃっていた巫女さまでしょうか」
「そうだ」
「失礼ですが、名はなんと」
「青三宮でございます」
「そうでしたか。三宮さま、これからは鏡宮の巫女としてどうかこの五稜国をお支え……」
宮さまが祭具を鳴らし、男の言葉を遮った。
「ただの使いが巫に向かいてそのような口をきくな、無礼者! とっとと去ね!」
「ははぁ。申し訳ございません。では、失礼します」
男はそう言いながら一礼して、足早に神殿をあとにした。
宮さまのため息が聞こえた。
「もうわかったじゃろう。これが鏡宮の惨状ぞ」
宮さまはうつむき小声でつぶやいた。
神殿の扉から灯桜を宮に導いた使者がやってきた。その姿が見えたとき、宮さまが口を開いた。
「なぜあの男を止めなかった!」
「申し訳ございません。あの方の名前が出たので通してしまいました」
使者は深く土下座した。
「なら、しかたない。三宮さまを急いで青宮へお連れせよ」
使者は「御意」と一言返し、灯桜の手を取った。
灯桜は使者に手を引かれ、駆け足で神殿の扉をくぐった。
灯桜が気絶していた場所。そこに突如、男三人は通れるであろう大きな穴があく。
「もしかして、また土の中を行くのでしょうか」
使者は答えることなく、灯桜を抱いて穴へ滑り込んだ。
後ろから姫が飛び跳ねながら、穴に近づいてくる。
きっとなんにも考えていない。灯桜の身体目がけ、飛びこんでくる。
「頼みますから、下をよく見てくださーい!」
灯桜は姫に踏み潰された。
穴が閉じ、地面はまた脈打ち始める。転倒してびったり地面に触れていた灯桜の全身を激しく揺らす。
「あはははは。すごい、すご~い!」
はしゃぐ姫の横で、灯桜は使者に介抱されながら青宮へと運ばれていった。