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二 白銀の花、鏡宮の使者

 夜をむかえた。

 獣道しかない深き森に、里の者の気配はない。灯桜と姫は斜面にある小さな洞に身を寄せていた。


 雨はいまも激しく降っており、湿った土のにおいが辺りを漂う。灯桜が着る朱の小袖は冷たく濡れている。夏至のころとはいえ、夜になれば森の空気はいっそう冷える。服の水気が体温を奪い体力を消耗していく。


 灯桜は着の身着のままで里から追放された。いまは暖をとることも食べ物にありつくこともできない。

 隣にいる姫は柔らかい銀の光を放ち、洞に棲む蛾と戯れている。膝を抱え、縮こまる灯桜の姿は眼中にないようだ。


 洞の外は夜中にもかかわらず淡い輝きに満ちている。

 少し開けた草原くさはらには、膝丈くらいの草が生えていて花を咲かせている。光の正体はこの花にある。花そのものが光っているのだ。


 銀の花が落ちたあと、朱色の果実が生まれてくる。その実を喰らえば命が一夜延びるという。だが、実に至る前の根や葉、花を口にすればたちまち命を焼き尽くしてしまう。

 もし銀の花野の中にあけが混じっていれば、多少は生き長らえることができるかもしれない。しかしいまは花の盛り。おそらく実はまだどこにもなっていないだろう。


 それに灯桜はかんなぎの座を失った。里から見放された巫は偽りの神を騙った罪人で、最も卑しい存在なのだ。そもそも生き長らえる意味などあるのだろうか。


 灯桜の中で思いが巡る。

 突如現れた銀のが目に刺さった。


「ねえ、どうしたの?」


 銀の光を放つ指が目先から離れると、首をかしげて灯桜を見つめる姫の姿があった。


「いえ、なんでもございません」

 姫が目をのぞき込んできた。


「ほんと?」

 そう聞かれて、灯桜はなにも言えなかった。

 姫は巫の鏡に囚われない精霊、きっと人の心など見透かされているだろう。逆に無邪気な幼子おさなごの笑みに潜むものはわからない。


「ねえねえ、来て来て」


 姫が洞から飛び出し、雨降りしきる白銀の花園へと手招きする。


「なりませぬ、濡れてしまいます」

「そう? 私、平気だよ」


 花園で駆けまわる姫の小袖はひらひら動き、衣の朱はくすむどころか花の光でより鮮やかになる。

 雨も冷えも知らぬ姫はやはり異界の存在。


「これ、いらないの?」


 姫が小さな指先で何かをつまみ掲げている。朱色の珠のように見えるが、灯桜の場所からはよく見えない。

 灯桜は雨降るなか、洞を出た。


 小袖は濡れて重くなる。冷たい夜の空気がよりいっそう体温を奪っていく。

 けれども灯桜には居場所がない。いずれ森の中で死ぬ。それなのに姫は灯桜を呼び、なにかを差し出そうとしている。ならば精霊に従うのが巫としての務め。相手が離れぬなら、灯桜も離れてはならない。灯桜は桜の形をした銀の花を踏みつけぬよう、姫のもとへ駆け寄った。


 姫が「えへへ」と笑いながら、手につまんでいたものを灯桜に渡してきた。

 桜桃おうとうに似た朱の果実。

 銀の花が生む一夜の命。


「いいのですか?」

 灯桜がきくと、うんとうなずいた。


 灯桜は朱の実を口にした。

 黒糖よりはるかに甘く、どこか酸っぱい。そんな味とともに山百合の芳香が口に漂う。味覚を刺激する幸福のひととき。しかしその時間はわずかだ。

 身体から発せられる欲を満たすにはこの実は小さすぎる。おまけに半分は食べられない種なのだ。数があれば別だろうが、とても糧にはならない。


 辺りに見えるのは猛毒を持つ銀の花ばかり。この場で果てよとささやくかのように。


「ねえねえ、来てきて」


 花野から姫の声がした。

 灯桜は膝丈ほどの草を避けながら声の方に駆け寄る。まるで光の海を泳いでいるようだ。

 姫を捕らえようとしたとき、身体が手からすり抜けた。


 姫が銀の園を滑るように走る。まったく濡れていない身体はとても軽そうだ。一方、灯桜の身には雨がいまも降り注ぐ。冷たく湿った小袖は重く、おまけに目に水滴が入ってくる。とても不快で、とても不利だ。


「ねえねえ、こっちこっち」


 背後から姫の声がした。

 振り向くと姫が逃げるよう走りだす。その速さは齢五の童女ではない。

 逃げまわる姫の左手には小さな袋が握られている。灯桜はその中身を知っている。




 灯桜が姫を知った幼いころから、姫とはなんども追いかけっこをした。

 場所はいつも森の中、里のそばにある銀の花の草原くさはらだった。灯桜は姫に誘われて森に通った。

 遊ぶときはいつも二人だけ。里の子と一緒にいっても姫の姿は灯桜にしか見えなかった。灯桜が仲間外れにされて一人になると、また二人で追いかけっこをした。

 あのころも姫は草原を滑るように走っていた。足は里の男に負けぬほど速かった。

 でも、捕まえられなかったわけではない。姫の足が男を超えるのはこの花野の中だけ、外に出れば見た目どおりの幼子の足になる。だから花野の隅に追い詰める。姫が外に飛び出たときを狙えばいい。


 姫が花園からはみ出た瞬間、灯桜は飛びかかる。姫の身体は倒れた。


 左手に握られていた袋から中身がこぼれ落ちる。あのころと同じ、季節外れの朱の果実がころころと地面を転がる。追いかけっこをして捕まえると、姫はよくこの実をくれた。実など一つも残らぬ厳冬でさえも、袋の中身は変わらなかった。


 なぜなら姫は、目の前に咲く灯桜という草の精霊だから。桜のような銀の花も朱の実も姫のものだ。


 袋の中身を口に含むとあの甘美な香りが舌と鼻を刺激する。中に入った大粒の種は花園の縁に吐き捨てた。

 転がり落ちて汚れた実を空にかざす。

 だが雨はすっかり小降りになっていた。雲間からかすかに月の明かりが漏れている。

 土まみれの果実は袋の中へとしまった。姫の力とて限りがある。大事にしなければならない。


 それに姫は人の神ではない。

 すべては気まぐれなのだ。


「この実はどうやって手にいれたのですか」と尋ねてみても、姫は洞から出てきた蛾と戯れるばかり。答える気はなさそうだ。


 灯桜は花園の外から蛾と舞い遊ぶ姫の姿を眺めていた。きっと他の人が見れば、蛾がただひらひら飛んでいるとしか思わないだろう。


 かつての灯桜もそうだった。

 自分は姫と遊んでいるつもりでも、周りから見れば森の中で一人で奇妙な舞をしているとしか見えない。

 しかし、その舞を先代のかんなぎは見ていた。


『その戯れる姿は神遊び、巫女の証ぞ』


 先代にそう称えられ、灯桜は巫の鏡を受け取り巫となった。そしていまがある。

 住む里を失い、行き場を失い、浮浪の身となった。でもまだ姫がそばにいる。鏡を失ってもなお灯桜は巫だった。他の誰もが認めなくとも、姫が許しているのだ。


 姫が駆け寄り、灯桜の身体をぎゅっと握る。此岸しがんに留めようとしているのだろうか。だが姫の力をもってしても、無限に朱の実を得ることはできない。もし集めることができたとしても、いずれ身体のどこかに不調がでる。


 いや、それ以前に危険な状況になりつつある。飢えるより早く死が訪れるかもしれない。




 森の闇から銀の輝きに照らされたやいばやじりが湧き出たのだ。


 人が近づく音などまったくしなかった。無の空間から突如現れた。

 神の業、いや鬼の力か。

 切っ先はすべて灯桜に向いている。


 灯桜は立ち上がるが、なにもできない。姫が左の太ももを掴んでくる。背に隠れながら左目だけひょっこり出している。

 灯桜の身にはひどく濡れた小袖だけ。朱の実はほとんど胃袋へと収めてしまった。土まみれの小さな実など誰もいらぬだろう。武者は十人を超える。彼らを満足させるような代物は持っていない。

 そのうえ、浮浪の巫など世で最も卑しい存在。いずれにせよ灯桜のすべきことは決まっている。


 灯桜は両手を開き、腕をあげて大の字になった。


 殺すのだろう。殺すのならいますぐ矢で射貫けと。


 目を閉じて、最期のときを待つ。

 鋼鉄が身体を切り裂く不快な幻覚が幾度と肌をかけめぐる。

 幾人もの足の音がする。刃の金属音がかすかにきこえる。

 刃で首を落とすのだろうか。だが殺す手段など相手の自由、灯桜の意思など関係ない。

 足の音は大きく、数も増えてくる。

 吐息と擦れる装束。

 常人よりも鋭い巫の感覚が物音を大きくする。まぶたの奥にある刃の輝きが瞳に射し込んでくる。


 切り落とすなら、早く刃を振りおろせと願う灯桜。

 しかし、その時はいつまで経ってもこなかった。


「目を開けてください」


 青年の声がする。柔和な口調は武者のものとは思えない。

 灯桜は目を開けた。


 上は純白、下ははなだの衣を着た青年がいた。黒の烏帽子えぼしをかぶった独特の服装から里の者ではない。手に届かぬ遠い世界に住んでいるお方。身分は背後に従える十人以上の武者が示している。

 青年が目配せすると武者たちは弓矢をおろし、刃を鞘に収めた。


「驚かせて申し訳ございません。あなたが川辺の里に鎮座する巫ですね」


 灯桜は首を横に振った。すでに里を追われ、巫ではない。

 唇は震えて動かない。両手を胸元で結び、ゆっくりと後ずさりする。やけに白い顔が里の巫覡となった呪師、銀糸ぎんしに重なる。


「黙っていてもわかっております。宮さまがおっしゃっていました。あなたは今日、里を追われた。しかし鏡を失っても、なお神とともにいるまことかんなぎであると」


 灯桜の足が止まった。


「な、なな、なぜ、私がそのような身だと、知っていらっしゃるのですか」


 口を震わせながら答える灯桜に、青年はほほえみかけた。

「それは宮さまのお力でございます。宮さまは五稜国ごりょうこくの都、鏡宮きょうくう一の神であらせられます。国内のことなどお見通しです」


 宮の使いである青年はさも当たり前のようにそう言ってのけた。

 灯桜は姫をちらりと見た。相変わらず左脚をつかんだまま片目だけを出している。神の威厳とはほど遠い。


「誠に失礼ですが、わたくしめは無能ゆえ里の巫を免ぜられた身。都の、それもいただきに立つお方に真の巫と評される者ではございません。おそらく、あなたが遣われるまでの過程で誰かがたがえたと存じます」


 灯桜がそういうと、宮の使者は衣の内からなにかを取り出した。二本の指に挟まれているのは、桜桃に似た朱の果実だった。


「宮さまがこの命銀めいぎんを示されました。命銀は銀の桜を咲かせる草、灯桜の果実にございます。あなたの背に隠れているのは命銀の神であらせられます。間違いありませんか、灯桜さま」


 使者の言葉に灯桜はなにも返せなかった。

 名まで当てられた。それに淡々と語られる事柄に誤りは一つもない。まるで天からすべてを見られていたかのようだ。宮さまという人のお力なのだろうか。

 おまけに使者には姫が見えている。姫のことは隠せない。


「宮さまがあなたをお呼びです」


「へ?」

 滑稽なほど裏返った声が漏れた。


「灯桜さまには鏡宮へ下っていただき、宮さまに会っていただきたく存じます。そして鏡宮の青宮せいくう三宮さんのみやに鎮座し、ご神徳を賜りたいと宮さまが申しております」


 灯桜の口はしばらくの間、開いたまま動かなかった。




 いつしか夜空の雲は切れ、月がはっきりと見えた。


「い、いえ、わ、わたくしめにそのような資格はございません。とと、とても宮さまのお望みに応えられるとは思いません」


「いいえ。灯桜さまとともにおわします神は巫の鏡に縛られることなく、鏡破れてもそのお姿を保たれています。これは高貴なる神の証でございます。このような神と結ばれている巫は、五稜国随一の巫覡集まる鏡宮においてもごくわずかです」


「ですが、私は里すら守れなかったのです」


「干魃の件はしかたありません。命銀の神は水神ではないのです。神にも得手不得手があります、それは鏡宮でも同じでございます」


「ですが……。やはり私は宮にふさわしくありません」


 灯桜は姫を見た。

 姫は銀に輝く花園を眺めていた。姫は野の精霊、都の印象とはほど遠い。宮で祀られるより野に遊ぶことを望むだろう。

 宮さまの使者もそんな姫の様子を見ていた。


「灯桜さまの神が宮下りを禁ずるなら、宮さまとて強制はできません。しかし灯桜さまもご存じのとおり、一度里から追い出された巫はもう里には戻れません。他の里も拒むでしょう。宮に入らなければ末路は決まっています」


 使者の言うとおりだ。灯桜は職責のことで頭がいっぱいだったが、現実には飢えが迫っている。いま宮入りを断れば、この森の中で命を絶つことになる。さっきは姫が手を差し伸べてくれた。けれども今後はどうなるかわからない。姫にだって限界がある。


「もし宮に入っていただければ、灯桜さまは三宮の巫として五位に叙せられ、食糧のみならず住居と祭祀のための神殿、相応の禄が支給されます。お力は宮さまが認めているのです。きっとご活躍できます」


 生き長らえるためには宮に入るしかない。

 禄の額は伝えられなかったが、里の巫とは比べものにならないだろう。生きるには困らないはずだ。

 あとは姫が認めるかどうか。


 姫が灯桜の左脚をぎゅっと握ってくる。灯桜に向けられたその眼差しは、どこか微笑んでいる。

 辺りを舞う蛾が次々と銀の花を離れていく。そして宮の使者に向かって飛び立ち、闇に消えた。


 神はむやみに言葉を返さない。

 姫の答えは蛾の軌跡が示していた。





「では、いまから宮へご案内しましょう」


 使者がそう言うと地面が小刻みに揺れ、瞬く間に人ひとりほどの穴がぽっかりとあいた。

 その穴に使者が身体を滑り込ませ、中から手招きしてくる。

「さぁ、入ってください。鏡宮はこの先です」


 胸元で両手を握る灯桜。姫は相変わらずその背に隠れ、片目だけを出している。


「し、失礼なことをお尋ねしますが……み、宮って地下にあるのですか」


「鏡宮は地上にあります」

「では、なぜ地下に?」


 穴の中で使者が笑った。


「まさか鏡宮きょうくうの巫女となる灯桜さまに、かちで宮に下らせるわけにはまいりません。土の神の力を借りるのです。そのためには土の中に潜らねばなりません。さぁ、こちらへ」


 灯桜は使者の言われるがまま、鏡宮につながるという穴に滑り込んだ。

<注記>

縹:おおむね下記のような色

挿絵(By みてみん)

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