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一 宮の託宣、追われる巫女

 闇に満ちた神殿でろうそくが静かに燃えている。かすかな光が黄金の装飾を施された祭壇を照らしだす。幅二十丈におよぶ祭壇には、大皿いっぱいの稲や果実が捧げられている。天井に届かんとする祭壇の奥には何もない。その空間に向かって白髪の老婆が祝詞のりとを唱えている。

 老婆の背後では黄丹おうにの衣を纏った壮年の男が正座し、深く折れて額と鼻を床につけている。さらに後ろでは男に仕える二十人ほどの従者が並んでいる。そのうち武官の刀はすべて床に置かれ、切っ先は官人自らに向いている。みな顔には黒い布を巻きつけ、一切の視界を絶っている。


 ここは五稜国ごりょうこくの中枢、鏡宮きょうくう

 神がいただきに立ち、神が治める宮。


 白髪の老婆は宮を統べる巫女で、いまは神の言葉をみかどに授ける『託宣たくせんの儀』の最中さなかである。神の言葉が発せられるまで、体勢が崩れることは許されない。

 だが、帝と従者の顔は少し歪んでいる。もうすでに四刻もの間、同じ体勢を強いられているのだ。


 祝詞は五度目に入る。

 帝の身体は小刻みに震えだす。

 そのとき、大皿から桜桃おうとうに似た朱色の果実が落ちた。

 ろうそくの炎が風に吹かれたように揺れはじめる。橙の輝きは一つを残して次々と消えていき、神殿の闇は深くなる。広がりゆく黒い影が大皿に載った供物を喰らっていく。民が納めた租から厳選した最上品の山は、三度呼吸するほどの間に闇の中に消え失せた。


 一度消えたろうそくが再び灯りだす。巫女の前にはあけの果実が残された。


「宮さま、此度こたび干魃かんばつへの対応、ご神託を賜りたく存じます」


 帝は顔を伏せたまま巫女に問いかける。

 巫女は床に落ちた果実を拾った。そして衣に仕込んだ黒布で顔を隠して帝に向き合った。


「帝よ。この渇きは鬼の仕業ぞ」

「鬼とはあの太神帝国たいしんていこくでございましょうか」

「さよう」

「では、いかがすればよろしいでしょうか。我が五稜国は小国、太神帝国の十六分の半ほどにございます。かの大国とどのように向き合えばよいのでしょうか」


 帝がそういうと、巫女は果実を差し出した。

 それは貴族では名の知れた、命銀めいぎんという果実だった。


「命銀を使えとおっしゃるのですか」

「さよう」

「しかし、命銀は延命の薬効ある貴重な実でございます。渇きには強いですが一株に七ほどの結実ゆえ、とても糧にはなりませぬ。それに我々の……」

 帝はそう言いかけて口を止めた。その言葉を巫女は聞き逃しはしなかった。


「帝! 己だけの延命を図る愚かしい考えは捨てよ」


「申し訳ございません、宮さま。官人による命銀の独占は控えさせます。ご無礼をお許しください」

 帝はさらに深く頭を下げ、顔全体を床につけた。


 巫女は黒布の中から鋭い眼差しを注ぎ続ける。


「命銀を公に放つのはよい。だが、そなたの申すとおり、命銀は糧にはならぬ。まずは稲を芋に変え、浜よりの海産を水神の力で配れ。火神には一時の暇を与えよ。さすれば命銀を食したように我らの国は永らえようぞ」


「御意」

 帝は後ろにいる従者らに目配せした。彼らは黒い筒をかぶっているがなにをなすべきかは声でわかっている。


「宮さまの言葉を聞いたか。行け!」

 帝の命令とともに、伝令役の一人が神殿を駆け出ていった。

 伝令の姿が消えたのち、帝は巫女に一礼する。そして残りの従者を連れ、神殿を去った。




 ろうそくの明かりの中、神殿には巫女が残った。

 黒い布を外してゆっくり立ちあがる。しかし身体はひどくよろめいている。腰を伸ばした瞬間、右に大きく傾く。床に吸い込まれそうになった老体を二つの手が支えた。


「お気をつけください。転倒されては一大事です」


 巫女の隣にはつかえの青年がいた。祭壇の仕掛け扉の中に隠れていたのだ。


「すまないね。ほんと、自分が情けのうてしかたがないわい」


 巫女は自ら足で立とうとするが安定しない。右足は地に着くと震え、歩こうとすると滑る。仕の支えがなければ転倒してしまう。結局、巫女は仕の肩に右腕を預け、神殿と連結された屋敷へと向かった。


かんなぎとて人の身ですから。あとで命銀を召し上がって養生してください」


 老婆は目を潤ませ、鼻をすすっている。一方でまだ歯を食いしばり、不自由な右足で床を踏みしめようともがいていた。

 神殿を出る直前、巫女は口を開いた。


「都の下、川辺の里におるかんなぎを捕らえよ。ただし、人は慎重に選べ。よいな」


 仕はにこやかな顔でつぶやいた。


「御意」



   ***



 川辺の里はひどい干魃かんばつに見舞われていた。里を挟むように流れる二本の川はいずれも涸れ、二尺足らずの小さな流れがあるのみ。いまは雨の多い夏至にもかかわらず、稲は育たぬどころかほとんど黄色く枯れていた。


 里から大きく外れた場所に小さい家屋がある。年数を経て酷く荒れた家だ。補修はしてあるものの明らかな素人作業で、釘すらまともに打てていない。

 そんな家の縁側に二人の童女わらわめがいた。一人は齢十四ほど、名は灯桜ひざくらという。もう一人は五ほどの子。よく似たあけの小袖を着て、二人でただ空を眺めていた。みごとな快晴だった。


ひめ、此度の飢饉ききんはどう対処すればよいのでしょう」

 灯桜は姫という幼子に尋ねた。しかし、姫は芋虫と遊んでいる。いったいいつどこで連れてきたのかわからない。くねくね動く様子を見て満面の笑みを浮かべている。灯桜に答える気は一切なさそうだ。


 姫は草の精で灯桜はただのかんなぎ。見た目の歳では灯桜のほうが上だが、立場は遠く及ばない。

 灯桜の胸元には巫の証であるこぶし大の青銅の鏡がある。この鏡には神を宿し、巫と一体にする力があるとされる。しかし姫の前ではまったく無意味な代物だ。姫は鏡に宿ることも、灯桜と一体になることも拒んだ。ただそばにいるだけ。そんな関係が今までずっと続いている。


 姫がにやにや笑いながら、灯桜の膝に芋虫をちょこんと載せた。


「姫、もう芋は植えました。いまのところ多少の収穫はありますが、まったく足りないのが実情です。川が涸れれば芋すら穫れません」

「じゃあ、水たまりだった所は?」

「都への税は稲なので田は手放せないのです。前に田へ芋を植えるように進言したら里の長に反対されました。覚えていないのですか」


 灯桜が問うたとき、姫はまた芋虫いじりに興じはじめた。姫の視線は別の方を向いている。灯桜の言葉が届いてはなさそうだ。


「すべては雨さえ降れば解決するのですが……」


 草の精である姫もおそらく干魃の被害を感じ取り、なんとかしたいと思っているはずだ。だが水神のように雲を呼び寄せ、雨を降らせる力は持っていない。

 ただ状況を見守るしかない現実。もちろん里の者は許すわけがない。


 灯桜は里の巫として鏡に宿す神の力を使い、里を守る責を背負っている。その代わり、里の長に勝る権力が与えられている。禄も与えられるが、その額は木の朽ちた家を見れば想像がつく。里の者が寄せる灯桜への信頼は明白だった。


 灯桜は天に向かって青銅の鏡を掲げた。


「雨よ降り給え、雨よ降り給え、雨よ降り給え!」


 祝詞にもなっていない言葉は青い空にむなしく消える。


 灯桜は首にかかっている青銅の鏡を外し、右手で固く握りしめた。そのままの勢いで地面に打ちつけようとした……がやめた。結局、灯桜は鏡の紐を首にかけ直した。


「もう! いったいどうすればいいの?」


 手を広げて仰向けになった。

 姫はまだ芋虫と戯れている。すべては天に預けよということか?

 そんなことは許されない。もう民は怒っている。一定数の民が巫に不信を抱けば、里の長は追放命令を出すことができる。やがて流されるか、首を落とされるであろう。

 せめて形だけでも、と灯桜は祈祷を始める。


 咆哮とともに、空へ向かって銀の糸が走った。


 糸は天に放たれた矢よりも速く、垂直に駆けていく。よく見るとそれは龍の姿をしていた。


「龍神様?」


 灯桜は裸足のまま外へ飛び出した。


 龍はまた猛々しい咆哮をあげた。獣のごとき力強い音の波は耳だけでなく身体をも震わす。翼がないにもかかわらず、蛇が壁を伝うように微妙に身体を揺らしながら空を昇っていく。

 里を横切る街道まで出ると、龍は青い空へと吸い込まれていった。白い身体が消えるごとに湧き立つ黒い雲。内部に紫電を抱えながら、雲はきのこの傘のごとく水平に広がっていった。


 やがて太陽は龍が生み出した黒雲に隠れ、辺りはしだいに暗くなる。

 ぽつりぽつりと一年と三月ぶりの雨が落ちてきた。


 里の望みがいま叶ったのだ。


 灯桜は急いで家へと戻った。

 雨脚はどんどん強くなる。太い棒状の雨滴が朱の小袖を瞬く間に濡らした。乾いた土には水たまりが生まれ、水路へと流れていく。真昼にもかかわらず里は黄昏の闇に覆われ、滝のような轟音以外は聞こえない。

 この雨が続けばしばらく水には困らない。里は救われたのだ。


 しかし、この雨をもたらしたのは姫ではない。

 ではいったい誰が雲を呼んだのか。強大な神とともにある優れた巫覡の業か、供物さえ与えれば人の望みを叶える鬼の力か。

 前者なら里の巫によりふさわしかろう。

後者ならいずれ鬼が里の者を喰らうだろう。さすれば干魃よりもひどい惨状となる。

 だが灯桜はなにもできなかった。巫の務めを果たせなかった。いずれにせよ灯桜は力なき偽りの巫として排除される。たとえこの救世主が卑賤な人喰い鬼だとしても、里は鬼を選ぶだろう。


 灯桜がそう考えている最中に雨は落ち着いた。小雨は降っているもののいまは夏至。この程度の雨なら身体を冷やすことはない。灯桜の予想通り、うっすら白い靄の中から里の長がやってきた。

 長の隣には若い青年が農具を持った里の民を連れて歩いている。齢十五、六ほどで、五稜国には珍しい銀の髪。色白の顔と華奢な体つきは、とても農作業をしている者とは思えない。いったいどこの人だろう。

 いや、そんなことどうでもいい。次代の巫覡ふげきはこの青年に決まりなのだ。


 敗れた灯桜の運命はこのかんなぎに握られている。


 灯桜の太ももに何かが触れた。

 姫だ。灯桜の背に隠れて抱きつきながら、左目だけひょっこり出している。まるで幼子のような仕草。無理もない。覡のそばには空を駆けて雲を生んだ白龍の姿があった。その身体は大きく、成人した男二十人分ほどの丈がある。

 けれども里の長をはじめ、他の者が気づいている様子はない。この龍は巫覡にのみ見える精なのだ。


 白龍のさがが神か鬼かはすぐにわかった。

 鋭い目つきに剥き出しの牙、口元は力んでいる。溢れ出たよだれは垂れ落ちて里の長に降りかかる。


 この龍は人喰い鬼に違いない。望みを叶える代わりに人を喰らい、里を殺すけだもの。そしてこの覡を演じる青年は鬼を使う呪師じゅしなのだ。

 その正体に里の者が気づくのは到底無理だ。


 里の長の命令が下る。

 農具を持った里の民が走ってきた。


 灯桜は禄の家から引きずり落とされ、骨が折れるほどの力で後ろ手に縄がかけられた。雨でぬかるんだ地面に正座させられ、首がはち切れん勢いで巫の証である青銅の鏡が引き外された。首には鏡の代わりに鎌が突きつけられた。

 こんな状況なのに姫は灯桜のそばにいるだけでなにもしない。

 鏡は鋤の刃先で傷つけられ、神を宿すという輝きは完全に失われた。祭祀に用いる青銅の剣も取り上げられて、呪師の元へと運ばれた。


銀糸ぎんし様、剣をお受け取りください」


 呪師の名は銀糸というらしい。銀糸は剣を手に取り、白龍の鬼とともに灯桜の前に立った。

 灯桜の頭上で鬼が口を開く。身体に鬼の涎と血の臭いを帯びた息がかかる。

 そんなことも知らないであろう里の長が、鬼の口元、灯桜の真ん前にきた。


「灯桜! お前は里の巫の務めを果たさず、里に飢饉をもたらした。里の者を苦しめ十人もの命を奪った。この罪は極めて重い」


 長の断罪の背後に民の顔が見える。構えられた農具はすべて灯桜に向いている。

 首の鎌は肌に強く当てられて痛む。刃先はすでに赤く染みていた。


「これより、里を救ってくださった銀糸様のご神意に基づき、灯桜の処刑を開始する」


 長は銀糸に一礼して退いた。

 これから銀糸から放たれる言葉ですべてが決まる。里の者から熱い視線が注がれる。


「銀糸様、この童女わらわめにはもう神はおりませぬ。二つに一つ、これも覡の務めでございます。さぁ、ご審判を」


 銀糸の視線は自身の足下を向いている。そこには姫がいた。

 姫と灯桜の縁は切れていない。そもそも鏡という呪具を介した契りではないのだ。灯桜にはまだ姫がついている。


 灯桜の身体にどろりと涎がかかる。実際に濡れるわけではないが、不快感と毒々しい臭気が襲いかかる。見あげると口はがたがたと震え、檻の向こうで餌を見せつけられた牛馬のようだ。

 銀糸は姫を払いのけて剣を掲げる、そして鬼の身体にそっと触れた。


「行きなさい」


 銀糸から放たれた一言に灯桜は目を閉じた。

 熱い血の吐息が身体にかかる。龍のうごめく気配がする。


 首元の鎌が外された。


 目を開けると銀糸は剣で里はずれの森を指していた。

 龍の姿は消えている。あるのは怒りに満ちた民の姿だけ。後ろ手の縄が鎌で強引に切り裂かれ、背中を蹴りとばされた。


 灯桜は姫の腕を引いて森に向かって走った。

 銀糸が選んだのは流刑るけいだった。流刑とはいっても島流しではない。里からの永久追放という意味だ。定められた期限までに、里の者に見えぬ場所まで離れなければならない。通例は翌のあかつき。それを過ぎればもう一つの選択と同じく、この世を去らねばならない。


 灯桜は走り続ける。背後からは農具を掲げた里の男が追いかける。道の脇からはわらわ童女わらわめが石を投げつけてくる。ただの石ではない。矢のようにとがったものを選んでいる。石が当たる度、血がにじむ。銀糸の命令に忠実に従う男らよりもたちが悪い。


 灯桜と姫は里から離れ、森の中へと入っていった。もう男らは追ってこない、石を投げつけられることもない。

 けれども少しでも戻る仕草をすれば、暁前であろうとも刈られてしまうだろう。里の民は森の中にも潜んでいる。その証拠に「明日は宴ぞ! 明日は宴ぞ!」との声が響いている。今日行わないのは、見張りを絶やさないという宣告だ。


 姫の手を引き、灯桜は再び雨脚が強くなる森の中を、奥へ奥へと走る。生まれてからずっと住んでいた里は、白いもやの中に消えていった。

<注記>

一丈:約3.03m

一尺:約30.3cm

一刻:約30分

十六分の半:1/32

黄丹:おおむね下記のような色、禁色

挿絵(By みてみん)

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