27.「太陽」(1)
「ねえ、【色欲】。話してくれるわよね?」
リーゼルが目を細めて問うと、ハイデマリーは軽く笑って肩をすくめた。
「いやだわ、話すまでもないじゃない。むしろあなたの方が詳しいくらいでしょう? 『太陽』正位置の意味は、成功、祝福。エルマやその周囲に、喜ばしい運命が待ち受けているということだわ」
いかにも自然な口調だった。
だが、リーゼルはこれまでの付き合いで既に知っていた。
この女は、なにかを隠しているときほど自然に振舞い、嘘を吐くときほど美しく微笑むのだということを。
「――見くびらないでちょうだい。微表情を読む【怠惰】や、パートナーの【憤怒】さえ追い払えば、あんたの嘘が見破られないとでも思った?」
ハイデマリーが、ほんのわずかに目を見開く。
そう、リーゼルは、気まぐれな女王のいつものわがままにしか見えない先ほどの行為も、実は緻密な計算のもとに取られたのだということを理解していた。
いつだって、女の嘘を見破るのは女。
リーゼルは内心で嘯き、静かに唇の端を持ち上げた。
「あたしは微表情なんて読めないけど、よくって? 女性というのはピンクから紫にかけてのグラデーションを、男性より何倍も敏感に識別できるものなの。あたしのこの優れた色彩感覚を持ってすれば、顔色くらい読めるわ」
「待ってリーゼルあなた男性――」
「そしてあんたの顔は、あんたがなにかを隠していると告げている。……さあ、吐きなさい」
ハイデマリーの冷静な突っ込みをさらっと遮り、リーゼルはハイデマリーに顔を寄せた。
「だいたい、あたしたちを差し置いて、新人のクレちゃんなんかに過去を明かされかけてるのも気に食わないのよ。なに、聖女って? そのあたりも、洗いざらい白状してもらうわよ」
「……『女が部屋に帰りたがっていたら、速やかに道を開けて見送るのが男』……」
「あたしは女だからノーカンよ。当然でしょ」
結局のところ、ハイデマリーが隠し事をしていること、そして自分を差し置いてほかの男に過去を知られかけていることが、リーゼルは不満でならないのだ。
さすがは【嫉妬】というところか。
ハイデマリーは無言で溜息をつくと、くるりと踵を返した。
「ちょっと、どこ行くのよ!」
「部屋に戻るのよ」
「待ちなさい、まだ話は――」
「ええ、だから、続きは部屋でね」
ハイデマリーが振り返りながら微笑むと、リーゼルは気勢が削がれたように黙り込む。
それから、ぶすっとした表情で、大人しくハイデマリーの後を付いていった。
やがて監獄の最奥――最も広く、最も優雅に造られた女王の居室にたどり着くと、二人は特になにを言うでもなく、それぞれのポジションに収まる。
リーゼルは猫足のソファにどさりと腰を下ろし、ハイデマリーは寝台のそばに立って、躊躇いなく装飾品の類を外しはじめた。
「……なに、人を招いておきながら、本当に寝る気なの?」
「ええ。言ったでしょう? すごく眠いの。いつでも去ってもらってかまわなくてよ」
波打つ銀髪を肩に流し、ピアスを外す。
ネックレスやブレスレットも棚に放り投げ、優美な靴もぽいと寝台の近くに脱ぎ捨てていく。
リーゼルに背は向けているものの、たちまち華奢な肩や、息を呑むほど白い足が露わになった。
「言っとくけど、聞きたいことを聞くまでは寝かせないわよ」
「んもう、しつこい人ねぇ」
ばさ、とドレスも脱ぎ落す。
剥き出しの背中、くびれた腰から足首にかけての滑らかな曲線は、息が止まるほど扇情的だった。
「……ちょっとは恥じらいなさいよ」
「あなたは女なのでしょう? それに体なんて、ただの商品にすぎないわ。愛しい人の前以外では、ね」
肩越しに微笑まれ、リーゼルは鼻に皺を寄せる。
それでも彼が去るつもりがないと見ると、ハイデマリーはネグリジェをまとい、溜息とともに寝台に腰を下ろした。
「わかったわ、話せばいいんでしょう? ただ、悪いけれど、横にならせてもらうわよ。私にとっては、寝物語くらいにしか値しないような、つまらない話だもの」
言うが早いか、さっさと寝台の天蓋を下ろしてしまう。
彼女は、紗の向こうでなにかを取り出して顔を拭い、どうやら化粧を落としているようだった。
素顔を他人に見せたくない女心は理解できたので、リーゼルは静かに話の続きを待った。
「――……そうねえ。なにから話せばいいのかしら。わたくしが生まれたのは、アウレリアの外れの、とても小さな田舎町だったそうよ。季節は冬。産気づく前に母親が食べていた最後の食事はりんご。いかにも冬よね。ちょうど雪が降っていて、セルモンティ山の頂に降り積もる白雪のような肌と、光を閉じ込めたかのような輝く髪を持ったわたくしは、まるで雪の精か天使のようだと――」
「序盤で引っ張っろうったって、そうはいかないわよ。ぐだぐだした描写はいいから、展開のスピードを上げなさいよ」
「――天使のようだと噂が立って、教会に親を殺されて拉致されたの」
劇的に加速した展開に、リーゼルはぎょっと目を剥いた。
「は!?」
「誕生と同時に、凄まじい聖力の発現が感じられたのですって。白い服をまとった人間が何人もやって来て、わたくしを連れ去ったわ。わたくしはあまりに幼かったから、教会は記憶を封印も操作もしなかった。ただ、聖力の影響なのか、わたくしの脳裏にはある光景が刻み込まれていたの。それが何度も何度も蘇るものだから、物心ついたころには、うっすらと事態を把握していたわ」
真っ白な雪景色。
力なく倒れた女性の手、その先に転がる真っ赤なりんご……血。
自分を取り囲む男たち。
その中に紛れ込む、金貨を握りしめた男。
直前まで、自分をあやしていた――父親。
次にある記憶は、もう、教会の奥深くから見上げた空になっていた。
清潔で穏やかな空間。
惜しみなく注がれる教育と眼差し。
矛盾する記憶のかけらに、ハイデマリーは沈黙を選び、無口な少女と目されるその内側で、じっと真実を考え続けていた。
教会という場所が優雅な檻で、自分が籠の鳥なのだと理解するのに、数年を要した。
「教会はわたくしを従順な聖女に仕立て上げるつもりのようだった。本当はもう少し成長するまで、しっかり洗脳したかったのだろうけれど、それよりも早く、聖鼎杯のタイミングがやって来てしまったの。そこで存在を披露すれば、聖女の地位は揺るぎないものになる。だから、ほかのトリニテート――聖剣士や聖術師も早々に内定を与えてしまって、幼すぎる聖女の登場を、いかに演出するかに心血を注ぎはじめたのよ」
教会の都合に巻き込まれるようにトリニテートの座を約束されたのは、聖術師候補のレナート、そして、聖剣士候補のグイドという二人の青年だった。
ハイデマリーは聖鼎杯の数カ月ほど前から、彼らに引き合わされていた。
既に学院で頭角を現していた二人は、職種も出自も異なれど、互いに認め合い、研鑽し合う親友だったようだ。
ただし、ハイデマリーへの態度は二人でかなり違っていた。
レナートは、自らも聖術に精通する者として、底知れぬ聖力を持つハイデマリーに本能的な警戒心――嫌悪といってもいい――を覚えたようだった。
彼は、見る者を篭絡するハイデマリーの力に、魔性めいた要素すら感じると言い放ち、しきりと彼女を攻撃してきた。
一方グイドはといえば、聖力そのものよりも武技に重きを置く聖剣士であったためか、ハイデマリーへの警戒心はほとんど抱かなかったらしい。
ぶっきらぼうな言動とは裏腹に、年の離れた妹のようだと言って、彼女のことをかわいがった。
「レナートはしばしばわたくしを攻撃したけれど、決して聖女の座から引きずり落とそうとはしなかった。一人でも欠落があれば、トリニテートが成立しないと理解していたからだわ。彼は、親友のグイドとともに、栄えあるトリニテートとして祖国を支えるのが夢だった。二人は友情の誓いすら交わしていたようよ」
けれど、という呟きとともに、あえかな吐息が天蓋を揺らす。
布越しで見えはしなかったが、彼女は、笑みを浮かべているようだった。
「……聖鼎杯の前日にね、怖い夢を見たの。それでわたくし、すっかり聖女になるのが嫌になってしまったのよ。だから、グイドに『お願い』して、教会から逃げ出したの」
もともと、幼い少女が教会に閉じ込められ、さらには一生をそこで終えようとするのを疑問に思っていたグイドは、逡巡の末に手を貸してくれた。
激怒したのはレナートの方だ。
聖女が脱走しただけでなく、それを助けた聖剣士も欠落。これではトリニテートは成立しない。
自分との誓いより、後から来たハイデマリーへの同情を優先したグイドに、裏切られたという思いもあったのだろう。
レナートはその後、ひとりだけ聖術師の座を得て教会へと籠った。
それは教会側の配慮だと世間からは思われているが、おそらく本当は、レナート側がそれを望んだのだ。
グイドがいなくても夢を叶えてみせるという、彼なりの意地であり意趣返しとして。
「ちなみに、グイドの方は、脱走を助けた罪を問われ、教会の運営する学院で子飼いにされているそうよ。そしてわたくしはといえば、ささやかな逃走劇を演じながら、やがて娼館の扉を叩いた」
あまりに目立つ美貌、与えられた教育、そして勝手に周囲を魅了してしまう力を、彼女は持て余していた。
これでは村娘に混じって暮らしていくことなどできない。
ならば、美しく、教養高く、見る者を篭絡する人間が集まる場所へ――と、彼女はそう考えたのだ。
世俗の極みに身を置くことで、聖職者連中からの探索回避と、意趣返しを図った、というのもある。
そして実際に飛び込んでみれば、そこはまさに、彼女の運命の場所であった。
「貞操と引き換えに、わたくしは自由と力を得た。……まあ、籠の鳥であることには変わりなかったのだけれど、少なくとも当時のわたくしは、自分が何にも縛られないと思っていたわ。そうして、気ままに過ごし、やがて大切な人に出会い、恋を覚え、エルマを授かり――今に至る、といったところかしら」
魔族の生き残りと身を結ばれるに至った経緯を、彼女はそんな風に軽やかにまとめた。
それから、顔に触れていた手を下ろし、こちらに向き直るような気配を見せた。
「めでたし、めでたし」
「……待ちなさいよ……」
リーゼルはといえば、思った以上に過酷な半生を、さらりとした口調で語られてしまったことに動揺を隠せず、両手で頭を抱えた。
「以前、本当に
「手札は大切にしまっておく主義なのよ。隠し通す価値もない札を、今こうして披露しただけ」
「さすが、夢見の悪さを理由に聖女の座を投げ捨てた女は、言うことが違うわ」
げんなりとした顔で毒づいてから、リーゼルはふと顔を上げた。
「……どんな夢だったのよ」
「え?」
「あんたに脱走を決意させた夢」
リーゼルはソファから身を起こし、首を傾げたらしい相手を、天蓋ごしに見つめた。
「いくらあんたが炭素繊維並みに図太い神経の持ち主で、しかも元から教会に違和感を抱いていたとはいえ、幼い女の子に、人生のすべてを投げ捨てさせるって、相当よ。……どんな夢だったのよ」
ハスキーで中性的なその声には、好奇心というよりも、労わりだとか、心配だとか、そういった素朴な感情が滲んでいる。
ハイデマリーは小さく息を漏らし、ぽつりと呟いた。
「……あなたのそういうところが、わたくしは大好きだし、とても苦手だわ」
「はん。あんたの弱点になれたなら光栄だわ。――で、どんな夢よ」
再三尋ねると、ハイデマリーはしばし沈黙したのち、口を開いた。
「……暗い聖堂で、悪趣味な剣に貫かれて、自由も、言葉も、力も奪われ――化け物になってしまう夢よ」
厳かで、ひっそりとした声だった。