26.「普通」の対話(3)
エルマはなにを思ったか、持っていたナノファイバー傘をぽいと後ろの候補生に押し付けると、こつ、と害霊に向かって歩み寄った。
「考えるよりも、目の前を見よ。机上の空論より実践を重んじる姿勢、さすがは聖術師筆頭候補生でいらっしゃいます」
「え」
「やはり、脳内シミュレーションより、実地訓練。私、
「は」
ラウルが一音節しか発音できない間に、エルマはじり、と害霊に近付いてゆく。
「対話の第一歩……歩み寄り……」
わけのわからぬことを呟きながら、飛び交う砂塵と炎、かまいたちを器用に避け、彼女は害霊の前にたどり着いた。
「第二歩……自己開示!」
ばっ! と両手を広げる。
『グゥェエエエアアアアアア!』
途端に、害霊がその口を大きく開き、凄まじい咆哮とともに疾風を放った。
が、エルマはそれらをひょいと躱す。あまつさえ、舞台上でわだかまっていた泥を団子状に丸めると、それを次々と宙に投げ、そこを
「第三歩……傾聴および、
さっ!
両手で作った
『デェァアアァああああぁああアア!』
「『デェ……アアア』。これは……『て』ですかね……」
そうして、精神の均衡すら崩すおぞましき害霊の声に、真剣に耳を傾け、自らも真似をしながら、
『グゥイいい……ぁあああ! ドゥァア……アアア……ッ!』
「『グーイ』……いえ、『グィー』? 『ドゥア』は、『だ』でしょうか。それとも『た』のつもり?」
『ズァあ……あああああああッ!』
「――ああ、そうか。叫んでいるために、途中からすべて母音がア段に引っ張られてしまうわけですね。とすると、これは『ズ』……いえ、『ス』の可能性も……?」
ひょい。ひょい。
足では泥団子を蹴って宙に浮かび、顔は真摯に害霊を追いかける。
エルマは、常人では考えられない身のこなしをあっさり実現しながら、しつこく害霊の顔にまとわりつき、見る間に彼の言語を吸収しだした。
『グゥェエエエアアアアアア!』
「『げ』または『け』。母音のニュアンスが特徴的ですね。――『もしや、ヤーデルード語ですか?』」
途中から、小首を傾げてヤーデルード語に切り替える。
反応がないのを見て取って、彼女は次々に、思いつく言語をぶつけていった。
『デェァアアァああああぁああアア!』
【あるいは、ラハイエット語?】
『グゥイィイいあああああ!』
[それとも、ガルバル語?]
『ドゥアァアアあぁああああ!!』
《まさか古代ダズー言語系統だったり》
後半ともなると、マイナーすぎてもはや誰にも理解できない。
害霊の咆哮もまた、周囲にはただの恐ろしい轟音にしか聞こえなかったが、エルマはまるで、相手が歩み寄ってきた気配を察知しているかのように、真摯に害霊に向かって話しかけていた。
いや――。
舞台上に、もう一人。
聖術に精通しているラウル・パヴァリーニだけは、害霊の変化を感じ取ったかのように、大きく目を見開いていた。
「古代……」
エルマは小さく呟いてから、ふと、なにかに気付いたように唇に手を当てた。
『もしや……――』
次に彼女が選んだのは、ラウルや、固唾をのんで見守っていた候補生たちならば、かすかに理解できる言葉。
『古代アウレリア語……?』
害霊の反応は、顕著だった。
『そゥぅあァアアあああ! ウゥアアアああぁああ、ダ、ズィイイいいあああああ! ドルィいい、にぃ゛い……ドゥエエエぇえええああ、どぉぁああああ!』
候補生が、観客がざわつく。
害霊の咆哮は、相変わらず意味を結ばない。
だが、それが単なる威嚇や攻撃なのではなく、なにかしらの意図をもって紡がれた「言語」なのだということは、もはや誰の耳にも明らかであった。
害霊は、炎とかまいたちに苛まれながら、苦悶の表情を浮かべて叫びつづける。
『ドゥアァア、ムゥアああ、ざ、るぅえあああ、ドゥアァアアああ……――!』
砂塵と、疾風とともに撒き散らされる、叫び。
だが、そう。
それは、呪詛に満ちた攻撃などではなく、どちらかといえば――悲痛な悲鳴にも聞こえた。
「せ、聖術師の部を中断する! 候補生のすべては攻撃を中止せよ! す、枢機卿以下運営陣は、害霊の封じ込め、および候補生たちの安全確保を!」
と、害霊の異様な状態から、暴走の懸念を抱いてか、進行役のチェルソがおどおどした声で宣言する。
呆然と成り行きを見守っていた周囲は、それではっと我に返ったが、彼らが舞台に乗り込むよりも早く、眼鏡姿の少女がひとつ頷いた。
「――わかりました」
彼女は、真剣そのものの雰囲気で、害霊の歪んだ顔を見つめる。
それから、炎や疾風の舞う害霊の前で、ゆっくりと両手を広げた。
「もう少し
まるで、相手のことを無条件に受け入れるかのような、無防備なポーズ。
聖女のごとき慈悲深さすら滲む仕草をした彼女は、
――ご……っ!
しかし、むちゃくちゃに暴れる害霊に正面からぶつかる形となり、宙に激しく跳ね飛ばされた。
小柄の少女の体は、まるで毬のように跳ね、鈍い音を立てて石畳に叩きつけられる。
同時に、害霊はまるで突然眠りに落ちたかのように動きを止め、ざら……と音を立てながら、砂となってその場に崩れ落ちた。
舞台には一瞬、針の落ちる音さえ聞こえそうな、沈黙が満ちた。
「――……お」
だらりと仰向けになったまま、ぴくりとも動かない少女を見て、観客の誰かが引き攣った呟きを漏らす。
「起き上がらないぞ……!」
それを引き金に、観客席も控え室も、候補生のいる舞台上も、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
「大変だ! あの子、死んじまったんじゃないか!?」
「相討ちか!?」
「エルマ!」
青褪めたルーカスが、壁を乗り越えて舞台に飛び出そうとする。
が、彼ははっとしたように顔を上げると、素早く背後のイレーネを振り返った。
「――イレーネ。おまえはどうする」
端的な、問い。
通常、あれだけの勢いで、あれだけの高さから固い地面に叩きつけられたら、重傷は免れない。
エルマが無茶をするたびに真っ青になっていたイレーネであれば、傷口を見ただけで昏倒する恐れもあった。
が。
「――見くびらないでくださいませ」
イレーネは、ぐっと拳を握りしめ、静かに答えた。
「私は、エルマを信じると決めたのです。どんな無茶も、無鉄砲も、あの子なりの意図があってのものだし……それを怒ったり、突き放したりなどは、もうしないと」
よく見れば、その拳はかたかたと震えていた。
やはり、心配なのだ。恐ろしいのだ。
友人が危機に瀕することを、笑って受け止めることなどできない。
それでも――イレーネは、それを受け入れると、決めた。
「だから……もちろん、私も行きます!」
言うが早いか、彼女はメイド服の裾をばっと捌き、自らも壁をよじ登りはじめた。
ルーカスの介助を得て、なんとか舞台上に舞い降りる。
そして、脇目も振らず、エルマに向かって駆け寄った。
「エルマ!」
エルマは既に、先に乗り込んだ枢機卿や候補生たちによって、舞台の端へと避難させられ、さらに、同じく駆けつけたクロエや、救護班によって介抱を始められていた。
「お姉様! エルマお姉様! どうぞしっかりなさってください!」
「意識消失……呼吸もないぞ!」
「脈は!?」
見たところ、頭部を含めて外傷はない。
ルーカスは彼らからエルマを奪い取ると、素早く全身に視線を走らせ、ついでその手首を取り、さらには首筋にも指を当てた。
「脈は……――」
だが、彼はそこでふと怪訝な顔つきになった。
「…………?」
「エルマはどうなんですか!?」
息を切らしたイレーネが鋭く問えば、ルーカスは無言で、手に取ったエルマの手首を戻す。
ほっそりと白いエルマの手。
その手はなぜか、親指と人さし指で円を作り、残る三本も揃えて緩く曲げられている。
両手ともだ。
やけにゆっくりと刻まれる心拍。
そして、無呼吸と思われるほどにゆっくりとした、深い呼気。
それらを総合し、結論付けると、ルーカスは重い重い溜息をついて、静かに天を仰いだ。
「――……瞑想中だ」
「はい!?」
眼鏡の下で遠い目をしながら、ルーカスは聞き返してくる周囲に説明した。
「南の大陸の修行僧が、このようなスタイルで瞑想をしているのを見たことがある。彼女……エルマは、どうやら深い精神世界に潜っているようだ」
「はい!?」
つまりはそういうことであった。
なんとか理解の追い付いたイレーネは、がくりとその場に崩れ落ちる。
彼女は湧き上がる怒りと虚しさと突っ込みを、「覚悟」の二文字で必死に押さえ込んでいた。
「やっぱりと……言うべきなのか……っ。わかっては、いたけれど……っ、いたけれど……っ、無事ならそれは、いいことなのだけど……っ」
ぐぬぬ、と葛藤するイレーネの肩に、ルーカスがそっと手を置く。
『色男と美少女の図』というよりは、『ベテラン中間管理職と、最近になって管理職の苦しみを知るに至った若手の図』とでもいうような趣が、そこにはあった。
「失礼。そこの候補生――エルマ殿を、保健室にお運びしてもよろしいでしょうか。見たところご無事のようですが、ルーデンからの大切な候補生を、このまま舞台に横たえておくわけにはまいりませぬゆえ」
とそこに、遠慮がちに話しかけてくる者がある。
ぱっと振り向いてみればそれは、こたびの任務の依頼者――親ルーデン派筆頭の枢機卿、チェルソであった。
彼は、元から頼りなげな頭髪が振り落とされてしまうのではというほどに、ぺこぺこと頭を下げ、こちらを伺い見た。
「治療には、アウレリアでも指折りの聖医導師と、聖女に内定した生徒を宛てさせますので……! その、害霊の暴走で、貴国からの候補生が倒れたということは、どうぞ、その、フェリクス王陛下には……――」
親ルーデンの人間としては、フェリクスの機嫌を損ないうるいかなる要素も排除したい、ということなのだろう。
その政治的配慮を理解したのと、実際、エルマをこのまま闘技場に置いておくわけにはいかないとの判断で――実際彼らのすぐ横では、今もほかの枢機卿や候補生が、砂となった害霊に険しい顔で対峙している――、ルーカスたちはチェルソの申し出を受け入れた。
すると、チェルソは米つきバッタのような素早さで、エルマを闘技場外へと運ばせていった。
ルーカスたちもそれに続こうとするが、
「エルマ殿……エルマ殿は、どこへ!?」
背後からの叫びに、振り返る。
ラウルだ。
彼は、いつまで経っても決定的な動きをしない周囲にしびれを切らし、聖術を振るって害霊の砂を壺に押し込んでしまったところだった。
既に砂の姿になっていたとはいえ、候補生で唯一、害霊の封じ込めに成功したラウル。
即ち聖術師への内定も望めるはずで、その顔は達成感に溢れていていいはずだったが、彼はひどく険しい表情を浮かべていた。
「チェルソ枢機卿が、今まさに保健室へと運んでいるところです」
「……そうか」
ルーカスが用務員としての体裁を維持しつつ応じれば、ラウルは言葉少なに頷く。
そうしてそのまま、自らも保健室へと足を向けたので、ルーカスは怪訝な顔になった。
「どちらへ?」
「保健室へ。害霊はもはや、いかなる『言葉』も発してはくれなかった。ならば僕は、彼女に問いたださねば」
「問いただす?」
ルーカスが聞き返すが、ラウルはそれを振り払う勢いで舞台を去ろうとする。
とそこに、ひとり退出しようとする教え子を不審に思ったらしい枢機卿――グイドが、眉を寄せてやってきた。
「ラウル。どうした?」
「先生……僕は行かねばならないのです」
「だが、害霊の扱いに最も長けているチェルソ殿が退出してしまった今、あの害霊の壺の安全確保は、おまえが頼りだ。見ろ、枢機卿陣も、候補生たちも、こわごわと壺を見るだけで、近付けやしない」
恥ずかしながら、剣の脳しかない俺もだが、とグイドが唇を歪めると、ラウルはぱっと顔を上げた。
「その害霊の正体について、僕はエルマ殿に確かめに行くのです」
「――なんだと?」
聞き返すグイドの声に、ルーカスの低い声も重なった。
「ラウル・パヴァリーニ殿。どういうことです?」
「…………」
ラウルは、逡巡するように一瞬唇を引き結ぶと、次には悩む時間のほうが惜しいと判断したのか、グイドに向き直り、覚悟を決めたように話し出した。
「エルマ殿は、様々な言語で呼びかけることによって害霊の反応を測り、最終的に、古代アウレリア語によって、彼との『会話』に成功していました」
「古代アウレリア語? 聖術陣に書き込まれる、あの言語か?」
「ええ。古代アウレリア語は、陣の構築に使われる聖なる言語。あれを解読できるのは、よほど聖術に精通した聖職者か、僕のように独学で解読を目指した学生くらいしかいない。『邪悪な存在のはずの』害霊が、会話に用いるほど聖なる言語を体得しているなど、ありえないはずです」
話を聞いていたグイドが、「たしかに」と難しい顔で頷く。
傍らではルーカスが、慎重な口調で切り出した。
「……それで、害霊は古代アウレリア語で、なんと言っていたのです?」
「……確証は、ないのだが」
ラウルは、ぐっと眉根を寄せ、記憶をたどるように目を細めた。
「エルマ殿の拾っていた音を、繋ぎ合わせるならば。それはおそらくこうだった。『タ』、『ス』、『ケ』、そして『テ』。繋げて、僕たちの言語に翻訳するのならそれは――」
――助けて。
周囲が、静かに息を呑んだ。
ラウルはルーカスに頷くと、再びグイドに向き直って、続けた。
「エルマ殿が古代アウレリア語で話しかけた瞬間から、害霊の咆哮は明らかに性質を変えていました。あれはまぎれもなく、意図を伴った『言語』だった。エルマ殿は、害霊の叫びは、母音が変質しやすいうえに、音が濁りやすいと言っていました。それを踏まえ、あの音を解釈するならば、彼の……害霊の叫びは、おそらくこういう意味になります」
次に告げられた言葉を聞いて、グイドは顔色を失った。
「助けて。騙された。私は――」
――私は、トリニテート。
次話より非エルマ回、即ちシリアス先輩のターン!
シリアスが何話連続で生き延びられるか、その活躍を温かく見守っていただけますと幸いです。