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24.「普通」の対話(1)

 聖鼎杯最後の一日、聖術師の部。

 前日に引き続き晴天に恵まれたこの日、闘技場は最終日ということも手伝い満員であった。


 観客たちの目的は、当代一の実力者、氷のような美貌と前評判を集める候補生、ラウル・パヴァリーニ。

 そして――聖女・聖剣士の部で、勝利はほかの候補生に譲ったとはいえ、会場で誰より目立っていた美貌の少女、エルマである。


 そうすれば平凡に徹せられる、と言わんばかりに、頑なに眼鏡を掛けて、冴えない姿に擬態する彼女の姿勢は、好奇心旺盛な観客からすれば、むしろ興味という火に油を注ぐだけである。


 結果、観客たちは雁首を揃え、なによりもエルマの入場を楽しみに舞台を見下ろしていたのだったが――。


「…………朝から、疲れました……」


 聖術師候補生のうち、最後に舞台の石畳を踏んだエルマはといえば、珍しく背を丸くし、史上最大にやる気のない佇まいであった。


 それというのも彼女は、イレーネがおかんむりだと見て取るや、聖術師の部のこともうっちゃって険しい山頂を目指し、岩塩の採取に徹夜で臨んでいたからである。


 名峰セルモンティは、常人の足なら往復四日は掛かる山。

 それを一晩で登頂し、最もおいしい塩を有する岩を探し、朝までに引き返して精練、さらに唐揚げ用の肉を仕切り直しで用意するというのは、さすがのエルマでも骨が折れた。


 過去にないことだが、下ごしらえが終わった途端、テーブルに伏してうとうとしてしまったほどだ。

 ふと目を開けると、イレーネは既に保健室から帰って来ていて、カーテンの隙間から差し込む朝陽を拾いながら、愛読書に視線を落としているところだった。


 ぱっと身を起こすと、掛けられていたらしい毛布がするりと肩を滑る。

 エルマは脊髄反射でそれを受け止め、ついで無意識に――かつ華麗に――折り畳みながら、まじまじとイレーネを見つめた。


 イレーネはそれに気付くと、ぱたんと本を閉じ、こちらに向き直った。


「おはよう、エルマ」

「……おはようございます」


 若草色の瞳は、拗ねたような、呆れたような、むず痒そうな、けれど敵意や嫌悪感のない感情を浮かべている。


 イレーネの表情と、向こうから声を掛けて来てくれた事実に、エルマはふと、小さな溜息を漏らした。


 その時抱いた、じわりと心臓が緩むような感覚はなんと呼ばれ、なぜ生じるものなのかを、これまで「友人」のいなかったエルマは知らなかった。


「は。そうでした、肉を揚げねば」


 血流がよくなると、思考も徐々にはっきりしてくる。

 素早く立ち上がり掛けたエルマだったが、イレーネがそれを制した。


「いいわ」

「え――」

「今は、いらない」

「……まだ怒っていらっしゃるのですか?」


 微表情を見た限りでは、そのようにも思われないのだが。

 困惑したエルマが首を傾げると、イレーネは苦笑した。


「怒ってなんかないわ。むしろ、私はあなたに謝らなきゃいけない」

「え……?」

「……私、あなたに話したいことがいっぱいあるわ。あなたの話も聞きたい。私たち、もっときちんと、対話すべきなのよ。でもそうするには、今じゃ時間が足りないわ。対話も唐揚げも、聖術師の部が終わって――この任務がすべて片付いてからにしましょう」


 そう言い切る態度は、先輩侍女としての、あるいは年長者としての風格に満ちている。

 エルマは無意識にフライパンを求めていた手をおずおずと引っ込め、「はい」と頷いた。


「時間が足りないとのことですが……私、そんなに寝ていましたでしょうか?」

「ええ、起こすのが忍びないほどだったわ。早く支度しないと」


 イレーネはくすりと笑って立ち上がり、カーテンを開ける。

 一斉に降り注いできた光の矢――朝陽のおおよその入射角を目で測り、珍しくエルマは顔を強張らせた。


「……思いのほか、日が昇っているようなのですが」

「そうねえ。今、何時だと思う?」

「……その前に私からも質問をよろしいですか? 聖術師の部の、入場指定時間は何時でしたっけ」

「あら、偶然ね。あなたの質問の答えは、私の質問の答えと一緒よ」


 くるりと振り向いたイレーネと、青褪めたエルマ、ついでにベッド脇に置かれたエルマ作の目覚まし時計が、同時に答えを示した。


「――九時!」







(大急ぎで向かったおかげで、結果的には間に合ったものの……)


 変な時間に眠ってしまい、かつ朝食も取らず、慌てて身支度を整えたため、頭の芯がぼうっとする。

 凛とした佇まいの候補生たちに続き、粛々と舞台を進みながら、エルマはそんな自分に内心で首を傾げた。


 こんなにも体が重く感じることが、これまでにあったろうか。


 無かった気もする。

 が、似たような感覚なら過去に抱いたことがある気もする。


 強い酒を飲んでしまった時や、苦手な花の香りを嗅いでしまった時というのがそれだ。

 思考がふわふわとし、眠くなる。

 なにかがどんよりと沈んでいくような、いや、逆に、ぐうっと、体の奥底でなにかが蠢くような。


 ぼんやりしたまま入場、整列を済ませ、初日と同じく、再びチェルソ枢機卿が開会の宣言をするのを聞きながら、エルマは結論付けた。


(風邪でしょうね)


 思考が散漫になっていることを裏付けるような、雑な結論だった。


 だいたいそんなことよりも、とにかく自分は「対話」なるものについて、よくよく考えねばならない、とエルマは気を引き締めた。


 なにしろイレーネは初めての友人だ。

 普通の交友というものについては日々模索中だが、わからないならせめて、全力で臨まねばなるまい。


 これまで、とにかくイレーネは食いしん坊だという認識が先走り、彼女に美味しい食事を提供するのが友情かと思いかけていたが、彼女が求めるのは対話だという。


 だとすれば、自分は考えつく最高の対話技術を体得して、それに臨むというのがあるべき友情の姿だろう。


 対話。

 ……対話。


 その二文字についてつらつらと考えているうちに、チェルソ枢機卿が課題について説明し、大仰な仕草で、なにやら禍々しい印象の壺を開けた。

 途端に、ぶわっと凄まじい風が捲き起こり、ついでに空に暗雲まで集まり、候補生までも含めた周囲が悲鳴を上げる。


 舞台上を吹き抜ける間にかまいたちと化し、石畳を割り砕いていったそれを、エルマはひょいと器用に避け――避けながら、頭ではまず「対話」の定義について検討を始めていた。


 風が唸る。

 砕かれた破片が舞う。

 雲に覆われ、薄暗くなった舞台の中央には、大量の砂塵が舞い、巨大な人の顔を出現させていた。


(対話。対話とは……)


 ――ぐぃいいあああああ!


 顔が咆哮し、巨大な口ががばりと開かれる。

 途端に、その場に立っていられぬほどの強風が吹きすさび、幾人かの候補生たちが舞台のへりに叩きつけられた。


「わあああああ!」

「ひぃ……っ!」


 その、心臓を震わせるような轟音と、衝撃。

 候補生たちの多くが恐怖に顔を歪め、叫び出す。


 エルマは「対話」の実践スリーステップに想いを馳せながら、さりげなくそんな彼らに同調した。


「わー」


 擬態は万全だ。


 巨人顔から放たれる衝撃波をさりげなく躱しながら、エルマは再び思考の海へとダイブを決めた。

次話、エルマなりの凡人擬態無双(前編)。

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