22.「正義」逆位置(3)
ルーカスが証拠の剣を突きつけると、イレーネは、猫のような目をまん丸に見開き、剣を指さした。
「しません、そんな恐ろしいこと! というかこれ、私の用意した剣ではございませんわ! たしかに私は、エルマの物々しい剣を、昨晩こっそり、刃を潰した剣とすり替えましたが……私がその剣に施した細工とは、振ると偽物の血がドバーっと噴き出るようにしたことですもの!」
「なんだその演劇用の剣みたいなのは!」
「だって、そうしたら怪我をしたみたいに見えて、棄権できるかと思って! 殿下は『威力を落として平凡に戦え』スタイルでしたけど、私は『早々に棄権しようぜ』スタイルだったので」
でも、出刃包丁でもこれだけショックを受ける展開になったのだから、刃を潰した剣をそのまま使われていたら、自分はどれだけ罪悪感に苦しんでいたことか……と再び負のループに陥りかけたイレーネを、ルーカスが真剣な声で遮った。
「……待て。ということは、エルマのカリブルヌスはまず、おまえによって血のり剣にすり替えられ、さらにそこから、謎の人物によりこの痺れ薬付きの古剣にすり替えられ、それを俺が出刃包丁にすりかえていたということか……?」
「ややこしい!」
指を折り経緯を負っていたイレーネが、ばっと両手を頭に差し込む。
しかし、時間を置いてその意味が脳に沁み込んでいくと、彼女は次第に顔を強張らせた。
「つまり……」
イレーネはこわごわと、見知らぬ剣を見つめる。
それから、怯えたようにルーカスを見上げた。
「私たち以外に、痺れ薬を用意した人物がいる――」
「エルマのことを、本気で害そうとした人物が、いるということか……?」
***
聖鼎杯最終日を翌日に控えた夜、学院は静まり返っていた。
聖女や聖剣士となれなかった候補生たちが学院を離れ、それぞれ帰途に就いたり、自棄酒を呷りに町の祭りに参加したりしているためである。
今、寮に残っているのは、明日に臨む聖術師候補生のみ。
その多くは、部屋に籠って瞑想や鍛錬に耽っていたが、ただひとり――ラウル・パヴァリーニだけは、厳粛な面持ちで、学院の敷地の外れにある東屋へと向かっていた。
そこで、彼の恩師である人物が待っていたからである。
「グイド先生。お待たせいたしました」
「……いや」
柱の一つにもたれかかって夜空を眺めていたグイドは、静かに身を起こし、それからふと珍しそうな顔つきになってラウルを見た。
「クロエやジーノを伴わない姿というのを、久々に見たな」
「彼らはもはや聖女や聖剣士に内定したわけですから。今頃祝賀会に引っ張りだこですよ」
ラウルは東屋に足を踏み入れながら、淡々と答える。
それから、真っすぐにグイドを見つめ、自信に溢れた声で付け加えた。
「ですが、私も明日で追いつきます。そこからはずっと、三人一緒だ」
「……頼もしい限りだ」
グイドは低く笑う。
それから、真剣な顔つきになって、ラウルの視線を正面から受け止めた。
「ラウル・パヴァリーニ。後はおまえさえ聖術師となれば、俺の生徒三人がトリニテートを固めることになる。ルーデンの候補生の聖力量はいまだに掴めないが、当代一の聖力量保持者と言われるおまえの敵ではないはずだ。期待しているぞ」
「……活を入れるためだけに、私を呼び出したのですか?」
ラウルが問えば、グイドは片方の眉を引き上げる。
「聖術師の課題はチェルソ殿の管轄だが、聞いた話では――」
「いえ、結構です」
課題の内容を口にしかけたグイドを、しかしラウルは短く遮った。
「僕がトリニテート入りを目指すのは、先生には申し訳ないですが、枢機卿間の権力闘争に貢献するためではありません。助力など得ずとも、僕は僕の実力で、ジーノたちと並び立つ地位を手に入れてみせます」
丁寧な口調だが、その物言いには力強さがある。
冷たく整った美貌とは裏腹に、そこにはたしかに、少年らしい自負心と正義感とが滲み出ていた。
ラウルは静かに拳を握り、グイドに告げた。
「トリニテートとなれば、教皇の決定すら覆せるほどの発言権が手に入る……。僕はいずれ、平等を掲げておきながら、身分や出自で人を差別するアウレリアの社会を是正したい。そのためには、たとえ先生といえど、枢機卿の力を借りるわけにはいかないのです」
ラウルは、クロエやジーノとは異なり、自身が枢機卿たちの権力闘争を代理させられていることについても、理解している。
それでもなお、トリニテート入りを目指しているのだ。
それはひとつには、貴族の三男という「穀潰し」のような存在であっても、絶大な権力を手に入れてみせるという、少年らしい野心のため。
そしてそれ以上に――ジーノやクロエといった、彼が誇る友人に、並び立つためであった。
妾の子であっても、清らかな心で生きてきたクロエ。
出自を蔑まれても、朗らかで素直な心を保ってきたジーノ。
真っすぐに生きる彼らに触れるうちに、ラウルもまた、そうした生き方に憧れるようになった。
彼らのように、ありたい。
兄たちのスペアとしての役割しか持たない、貴族の三男の自分だけれど、もし、少しでもこの身分を生かすことができるなら。
自分は、トリニテートの権力を宮廷で揮い、友人たちを苦しめるあらゆる軛を、取り払うことをしたい。
それが、目的もなく生きていたラウルが初めて抱いた、強い意志であったのだ。
「先生。トリニテートという可能性を提示してくださったあなたに、僕は深く感謝しています。チェルソ枢機卿のように大国に尻尾を振るのではなく、自国でアウレリアの尊厳を守るべしという先生のお考えも、この国の貴族の端くれとして、十分に理解できる。ですが、――僕はあくまで、あなたの権力のためではなく、友のために戦いたい」
湖のような碧眼に、炎のような闘志が揺れる。
グイドはしばしそれを見つめていたが、やがて静かに、
「そうか」
と呟き、ならばよいと、会話を締めくくった。
無言で頭を下げ、去っていくラウルを見送る。
それから、グイドは再び星空を見上げた。
「――……本当に守りたいのは、アウレリアの尊厳などではないさ」
瞬く星の、そのどこかに大切な誰かがいるとでもいうように、彼は目を細める。
やがて彼は、自嘲の形に口元を歪めた。
「ラウル・パヴァリーニ。……友のために戦う者が、おまえだけとでも……?」
やけに、苦々しい声だった。