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21.「正義」逆位置(2)

「おまえの目的は、なんだ?」


 エルマのカリブルヌスは、まず何者かによって柄の部分に、痺れ薬を塗りつけた古剣に替えられていたのだ。

 そのすり替えた剣をさらにルーカスが出刃包丁にすり替えたことになる。


 塗りつけられていた痺れ薬は、即座に人を死に至らしめる毒ではないが、ヒュドラと対峙する際に使うというなら、話は別だ。

 ただでさえ、この地に溢れる聖力で疲弊したエルマから、痺れ薬は体の自由を奪い、致命的な敗因となりえるだろう。

 「エルマのぶっ飛んだ活躍を防ごうという、一般的な配慮から」と言い訳するには、あまりに備えが過剰すぎた。


 それに、イレーネはアウレリアに来たのは初めてと言いながら、やけにこの地、そしてこの学院の情報に詳しい。


 時折、敵勢力であるはずのラウルやジーノをこっそりと視線で追いかける様子から、ルーカスはとある疑いを持つに至ったのだ。


 もしやイレーネは、トルソ枢機卿がフェリクスと通じているのと同様に、グイド枢機卿傘下の学生たちと通じているのではないか、と。


「――…………あ」


 至近距離から真っすぐ睨みつけられ、イレーネは観念するかのように、あえかな息を漏らした。


「……アウレリアは、聖地なのです」


 そして、震える声で告白を始めた。


「さては、原理主義の一派か? 魔族どころか、他国の者を聖地から遠ざけよと主張する類の」

「原理主義……? え、ええ、まあ。私は根っからの聖書(バイブル)原理主義で、安易な二次創作は死すべしと思っていますけど」

「――…………は?」


 そして、次の瞬間には、ルーカスを混乱の坩堝に叩き込んだ。


「特に、リバは絶対ダメです。ダメ絶対。地雷。聖書(げんさく)がラウジノである以上、ジノラウなんて唱えるやつは異端者です。ただし脇カプはよし。グイジノはぎりオッケー、むしろ当て馬としては推奨です。ご理解いただけますか?」

「まったくご理解いただけん!」


 突然緑の瞳を爛々と輝かせ、熱く語り出したイレーネに、ルーカスは思わず顎にやっていた手を離して叫んだ。


「おまえはいったい何の話をしている!?」

「え? 殿下が振ったんですよね? 聖書の話ですけど」


 そうして、シーツの隙間から取り出したのは、何度も読みこまれ、擦りきれてしまった一冊の本だった。

 題名もほとんど薄れてしまっているが、「薔薇の剣士~獣の歌が聴こえる~」の文字が見て取れる。


 ルーカスはなんだか、すごく嫌な予感がした。

 が、イレーネは覚悟を決めたとでもいうように息を吐きだすと、一気に話しはじめた。


「周囲に積極的にばらすようなものではないと思っていたので、これまであまり語りはしませんでしたが、……私、腐女子ですの。腐女子ですの。特にクール攻めやんちゃ受け、またはおバカ受けが大好物の、腐女子ですの!」

「……後半の情報は、初めて聞いたな」


 しかも三回繰り返された。

 静かに引いたルーカスをよそに、イレーネは拳を握って語りつづけた。


「そんな私を開眼させ、決定的にこの恐ろしき沼に引きずり込んだのが、この『薔薇の剣士~獣の歌が聴こえる~』、通称薔薇ケモですわ。この一巻が刊行されたのは、もう三年も前のこと。あまりにどストライクなキャラ設定、そしてリアルな世界観に、私は一節を諳んじられるくらいにこの本を読み込みました」


 ときどき作品のすばらしさについて脱線しそうになりつつ、イレーネが語るにはこうだった。


 薔薇ケモは、アウレリア国立学院を舞台に、少年たちが戦い成長し、そして愛し合う物語だ。

 主人公の名はラウルにジーノ。

 どちらもありふれた名前であるが、時折描写に出てくる「氷の聖術師」という肩書や「下町出身の少年」といった属性、そしてやけにリアルな設定から、学院在籍の生徒か、その関係者が、実在の生徒をモデルに妄想を書き連ねているのだろうと、当時からファンの間では話題になっていた。


 実際、観光業と並び、聖書の印刷業で栄えていたアウレリアは、個人でも容易に小規模出版をすることができたので、この手の自費出版物は、国内全域に溢れていた。


 ただし薔薇ケモは、思わず諳んじたくなるほどの印象的な文章、そして目を閉じていても光景が見えるようなドラマチックな展開が受けた結果、密かに版を重ね、ルーデン王国の一部読者にまで頒布されていたのである。


 熱心な教徒となったイレーネは、何度も何度も聖書(薔薇ケモ)を読み込み、やがて、ある野望を胸に秘めるようになった。


「いつか……いつの日か、このモデルだというラウル様とジノたんを、この目で見たいと……!」

「たん、ってなんだ、たんって」


 特に、「聖鼎杯編」と銘打たれた章で、トリニテート入りを果たしたジノたんが、感極まってラウルに愛を告げるシーンは、全薔薇ケミストが感涙にむせばずにはいられない名場面であった。


 仮に現実のラウルとジーノがトリニテートとなれば、さすがにキスはせずとも、小説と同じシチュで――もとい、観客に囲まれた闘技場で、抱擁くらいは交わすだろう。

 最低でも、小説と同じコスで――もとい、法衣とアローロの冠をまとった姿で、挨拶くらいはするだろう。


 だとすれば、他は脳内補完でなんとでもなる。

 逆に言えば、挿絵もないこのご時世、補完の基礎となる人物二人についてだけは、なんとしても肉眼で捉える必要があった。


 見たい。

 聖なるコスをまとい聖なるシチュに身を置いた二人を、なんとしても見たい……!


「そのためには、エルマがトリニテート全部門を制覇する、という事態は、絶対に避けなくてはなりませんでした……」

「…………」

「私は、決めていたのです。この私の決意を知ったら、エルマは驚くかもしれない。呆れるかもしれない。けれど、それでも譲れない。私は、トリニテート入りを決めるラウジノを見るのだと。あの名シーンをこの目に刻みつけるのだと。そしてできれば、エルマにもそれを見てもらって、薔薇ケモのすばらしさに開眼させ……ともに、この腐の沼に、引きずり下ろしてみせると……!」

「……………………」


 ルーカスは、無言で天を仰いだ。


 もうやだ。


 ろくな部下に恵まれなかった男の悲哀を、あえて言葉で表すなら、それはその四文字で事足りた。

が、面倒見のいいルーカスは、痛みはじめた頭を押さえながら、ぼそぼそと突っ込みの言葉を口にした。


「おまえ……。本当に、そんなくだらない理由で剣に細工まで……?」

「くだらなくありません! 一大事です!」

「で、その甲斐なくエルマが大活躍してしまったから拗ねていると? だとしたら、それはさすがに改めるべきだ。結局やつは、目論み通り火傷で失格となり聖剣士とはならなかったわけだし、……なにより、己の目的のためにエルマに平凡な振る舞いを期待し、意に沿わなかったら怒るなど、あいつが哀れだ」


 自らも、ある種「己の目的のためにエルマに平凡な振る舞いを期待」していることは重々承知しつつ、ルーカスはあえてきっぱりと言い切った。


「あいつの能力を搾取するのも、その意思を無視して封じ込むのも、どちらも同じくらい身勝手なことだ。……俺も含めて、な」


 諭すように告げれば、イレーネは押し黙る。

 彼女はそのまま、しばらくシーツとにらめっこをしていたが、やがてぽつんと呟いた。


「……私、寂しかったのですわ」


 素直な告白は、夕闇に溶けてしまいそうなほど、か細かった。

 無言で眉を寄せたルーカスから目を逸らすように、イレーネは俯いたまま続けた。


「……あの子、いつも泰然としているでしょう。なんでもできる。できるから、頼らない。頼るという発想が、まずない。フレンツェルでは一回だけ、たしかに私に縋ったように思ったけれど……結局、それきり。あの子はいつも、有能で、……とびきり有能で、だから無頓着。私はそれが、寂しいのです」


 こんなにも相手との距離が掴めない友情は、初めてなのだとイレーネは言った。

 出会ったばかりの頃、エルマは能力が突き抜けているだけで、感情の起伏に乏しい、人間味のない少女なのだと思った。

 けれど、付き合いが深まっていくうちに、その考えは変わった。

 分厚い眼鏡と抑揚のない口調を取り去ってしまえば、彼女もまた、些事で悩み、戸惑い、人との距離を測りあぐねる、普通の女の子だとわかったからだ。


 けれどその気付きは、同時にイレーネをもっと欲深くもしてしまった。


 エルマが他者と「普通」の友情を結ぶ、そうした心の用意があるのなら。

 イレーネは、彼女ともっと親しく――親友に、なりたいと。


「……エルマが、初めてだったのです。身分に囚われず、偏った趣味の持ち主でもあっさりと受け入れてくれる、同年代の女の子。突飛で、豪快で、でも変なところで抜けていて、目が離せない……びっくり箱みたいな子」


 イレーネは男爵令嬢。

 とびきり身分の高い貴族令嬢とはいえなかったが、そうであってさえ、領地でも王宮内でも、しがらみは絶えなかった。

 そんな中で、身分の上下も気にせず、対等に、心置きなく趣味を語れるエルマとの関係は、ただただ心地よかった。


 だが――対等。

 そう考えたときに、むしろ、自分ばかりがエルマから恩恵を受けているのではないかと、イレーネは不安になったのだ。


「あの子は、なんでもできる。もはや侍女の仕事については、私が先輩として教えられることなどなにもないし、こうした特殊な任務を与えられても、あの子ならいろいろな能力を生かして、切り抜けていくのでしょう。粛々と、淡々と。私がやきもきしたり、心配したりしても、それを歯牙にもかけずに」


 やきもきするのは、いつも自分ばかりだとイレーネは思った。

 自分ばかりが、エルマのずば抜けた能力に圧倒され、無謀さに肝を冷やし、心配したり、感情を乱したりする。


 それが、イレーネには悔しくてたまらなかったのだ。


「だって……友情って――友達って、そういうものではないでしょう? もっと、互いが互いを思い合ったり、頼り合ったり……そうあるべきでしょう? なのに現実には、私ばかりがあの子を思って、あの子に新しい世界を教えてもらって……。私は……、ひとつでもいい、エルマの優位に立ちたかったのです……!」


 イレーネは、シーツのひだをぎゅっと握りしめた。


「私が最も得意である腐の世界に彼女を引きずり込んで……、ひとつでもいい、エルマに、私が、未知の世界というものを教えてあげたかった……!」

「未知の方向性が間違っているだろうが!?」


 ルーカスはつい叫んだが、イレーネはそれには反論せず、「ですが」と、再び肩を落とした。


「そうした私の勝手な思いが、……今回、結局、エルマを危機に追いやってしまいました」


 その、悔恨に満ちた呟き。

 イレーネがどうしてここまで塞ぎ込んでいるかに、ルーカスはようやく思い至った。


「……エルマがヒュドラに呑み込まれたのが、そこまでショックだったのか」

「目の前で友人を魔獣に丸呑みにされて、ショックを受けない女子などいませんわ」

「だが……」


 エルマは無事だったろう。

 以前には、崖から海に身を投げたこともあったろう。


 反論は思いついたが、結局ルーカスはそれを呑み下した。

 戦闘や死体を見慣れているルーカスと、貴族令嬢として育ったイレーネでは、その辺りの衝撃も当然異なるだろうと、理解できたからだった。


「私……」


 とうとう、イレーネの目が潤みはじめた。


「もう、ぐちゃぐちゃです。……エルマと……もっと仲良くなりたい、頼られたいって、そう思って……、だからエルマの剣をすり替えて、殿下と一緒に、エルマが困るたびにガッツポーズをして……でも、あんなことになるなんて、思っていなくて……」

「ああ」

「その時になって急に怖くなって……しかも、エルマにとっては、それすらも、全然、問題ない感じで……結局、いつもと同じ、私ばかりが心配していて……っ」

「ああ」

「それが腹立たしいわ、自分が不甲斐ないわ、……しかも、ジノたんは予想以上にかっこいいわ、ラウル様の応援ぶりが尊くて見逃せないわで、もう……視線も考えも定まりません……っ!」

「萌えるか悩むかどちらかにしろ!」


 最後涙をこぼして叫んだイレーネを、ルーカスは一刀両断した。

 それから、静かに溜息を落とし、「おまえに、いいことを教えてやろう」と切り出した。


「エルマは今、アウレリア一険しいと言われるセルモンティ山の、おそらく山頂付近にいる」

「…………はい?」


 そのなにが「いいこと」なのだか、わからない。

 イレーネは眉を寄せた。


「明日の試合も控えているというのに、休みもせず、エルマはなにをしていると言うのですか? 登山?」

「山頂付近で採取できるという希少な岩塩を、取りに行くそうだ」

「…………は?」


 なぜここにきて、岩塩。

 ますます怪訝そうな顔つきになったイレーネに、ルーカスは唇の片端を持ち上げてみせた。


「わからんか? 唐揚げは塩派(・・)のイレーネ」

「…………!」


 イレーネは、目を見開いて「まさか……」と呟いた。


「そう。あいつは、おまえが落ち込んでいるのをあいつなりに思い悩み、行動しているんだ」


 怒られてしまった、どうやら自分が悪いらしい、どうすればいいのだろう。

 お腹が空いているのだろうか、美味しいものを作れば喜んでくれるだろうか。

 「たしかに塩派」とは言っていたから、では、とびきりおいしい塩を用意してみればどうだろうか。


 ――イレーネって、本当に食べるのが好きですよね……。

 ――う、うるさいわねっ。あなたの料理を食べると、あらゆるもの思いが吹き飛んでしまうのだもの、しょうがないでしょ!


 先日交わした会話が、蘇る。

 イレーネは情けなく眉を下げて、唇をかみしめた。


「あいつはこれまでも、数々の言葉を鵜呑みにしてきては、盛大にやらかしてきているが、振り返ってみれば、あいつが鵜呑みにするのは、あいつが信用を置いた相手や、その人物が勧めてきた書物だけだ。……イレーネ。それだけ、おまえの一言は、あいつにとって重みがあるということだ」

「…………っ」

「おまえだけが振り回されている? とんでもない、あいつだって振り回されているさ。想いが不均衡? とんでもない、あいつだって、十分おまえに心を砕いている――ただそれが、表情や言葉にではなく、突飛な行動に表れているだけで」


 女性は特に、行動よりも、その時々の表情や言葉を重視しやすいのかもしれないが。

 ルーカスはそう肩をすくめると、静かに続けた。


「信じてやれ、エルマのことを。足りない表情や言葉ではなく、あいつの突飛な行動と、その奥にある素直な想いを。……少なくとも、俺はそうする心の用意ができている」


 だからルーカスは、エルマが無茶無双をやらかすたびに、激しくツッコミはすれども、突き放すことはしないのだ。

 それはまさしく、癖の強い騎士団をまとめ上げる男ならではの、懐の深さと経験の豊かさと言えた。


 すっかり薄暗くなった保健室に、沈黙が訪れる。

 やがて、イレーネはルーカスを見上げ、ぽつんと呟きを漏らした。


「……殿下の、その、包容力……」


 素直な感嘆の響きに、ルーカスはいたずらっぽく片眉を持ち上げる。


「惚れそうか? 残念だが、色よい返事はできんぞ」

「いえ、『包容受け』というのもアリだなと、目から鱗が落ちる思いでした。ごちそうさまです」

「…………待て、なぜ俺を『受け』と括る?」


 ルーカスは顔を引き攣らせながら、イレーネの表情が清々しいものに戻ったのを見て取り、「それにしても」と話題を切り替えた。


「剣を包丁にすり替えた俺に、それを指摘する資格があるかはなんだが、さすがに剣に細工を施すのはやりすぎだと思うぞ。エルマだから最悪の事態にはならなかったが、普通なら、十分に悪意ある、そして致命的な行動だ」

「細工……。そうですよね。こたびのことは、私からエルマにきちんと話して、どんな怒りでも罰でも受け入れようと思っています」

「ああ。だいたい、一介の侍女が痺れ薬なんてどうやって手に入れたというのだか――」

「は?」

「……ん?」


 だが、途中でイレーネが怪訝そうに顔を上げたので、途中で口を閉ざす。

 聞き返されて、ルーカスもまた眉を寄せた。


「なにか疑問でも?」

「疑問と言いますか……え? 痺れ薬? 痺れ薬ってなんのことです?」

「は? おまえがエルマの活躍を阻止するために、すり替えた剣の柄に、薬を塗った布を巻き付けたんだろうが」

「はっ?」


 ほら、とルーカスが証拠の剣を突きつけると、イレーネは、猫のような目をまん丸に見開き、剣を指さした。


「しません、そんな恐ろしいこと! というかこれ、私の用意した剣ではございませんわ!」

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