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20.「正義」逆位置(1)

「『正義』の、逆位置」


 札をめくったハイデマリーは、珍しく哀しそうな声を漏らした。


「あら、まあ……」


 ほう、とこぼれた溜息の先には、凛と前を向く女王の絵がある。

 左手に天秤、右手に剣。それぞれ、公正な裁きと断罪とを象徴するものたちだ。


 平等、調和。均衡に、誠意。

 「正義」のカードはそういった、安定した状態を表す――ただし、正位置ならば。


「逆位置。……『正義』の逆位置ねえ?」

「……なにか問題なのか?」


 気になったクレメンスがつい尋ねてしまうと、ハイデマリーはかすかに顔を顰めた。


「まあ、解釈次第だけれど。このカードが逆位置で出た場合、意味するのは『不均衡』。安定が崩れた状態よ。エルマが周囲から与えられたもの。不協和、釣り合いの崩壊、偏り、一方通行……」


 彼女は連想される言葉を紡ぎながら、カードに白い指を滑らせた。


「ぶつかりあって均衡を失った正義――喧嘩でもしたかしら?」


 物憂げに呟く様子は、心配性な母親そのものである。

 難しい表情で口を閉ざした麗しの女王に、周囲が肩をすくめながら声を掛けた。


「喧嘩、できる相手に、恵まれたというのなら、結構なことではないか」


 特徴的なぶつ切れの口調で告げたのは、相変わらず大量の菓子を頬張っているイザークである。

 彼は、強靭な顎でもりもりとクッキーを咀嚼しながら、わずかに首を傾げた。


「喧嘩とは、対決であり、対決とは、語り合いだ。俺は、聖獣に、魔獣、はては魔蟲や妖精の類までも、遭遇するたびに、拳を戦わせ、彼らの魂を、身の内に感じてきた」

「身の内に感じるっていうか、胃袋に収めただけだよね」


 即座に、横で紅茶に暴力的な量の砂糖を投入していたホルストが応じる。

 すると、その隣でマニキュアの仕上がりを確認していたリーゼルも加勢した。


「そうよぉ。【暴食】がなんでもかんでも食べられるって教えるものだから、あたしたちは一時期ずいぶんゲテモノ食生活を強いられたんじゃないの。ヒュドラだっけ? 高級地鶏のフライだと思っていたのが、蛇だったと知った時の衝撃、あたしは忘れないわよ」

「……うまい、うまいと、一番、食っていたのは、【嫉妬】だったと、思うが」

「だからこそショックだったんでしょ! ドラゴンといい、ヒュドラといい、【暴食】の料理は倫理観を味で軽々超越してくるから、たちが悪いのよ」


 リーゼルはふんと鼻を鳴らすが、ほかの「大罪人」たちは静観の構えだ。

 というのは、潔癖症のきらいがあるリーゼルを除けば、ホルストやモーガンのように食への興味が低いか、またはハイデマリーやギルベルトのように食への許容度が高いかの、どちらかだったからである。


 特にギルベルトは、愛するハイデマリーが鶏のように淡白な味わいの肉を好むと知っていたので、イザークがヒュドラ狩りに出かけると聞くと、ぽんとエクスカリバーやカリブルヌスを貸して寄越すほどであった。


 勇者時代、ギルベルトは名剣と呼ばれる存在にやたら遭遇する体質だったので、この監獄においては、伝説の名剣も、切れ味のよい果物ナイフと同等の扱いである。


 ゲテモノ食いの定義について云々しだした周囲を、ハイデマリーはしばらくぼんやりと見守っていたが、やがてソファに身を沈めると、傍らのモーガンに紅茶のお代わりを所望した。


「ねえ、【怠惰】。あなたが手ずから入れた紅茶が飲みたいわ。ミルクはなし、レモンをたっぷり絞ってちょうだい」

「おや。ブランデーも垂らしましょうか?」

「今日はいいわ。けれど、レモンはブランデーと同じくらいに香り高い、新鮮なものでなければいやよ」


 女王が嫣然と言い切ると、モーガンはやれやれと溜息をついた。


「わがままな方だ。わかりましたよ、庭のレモンを摘むところから始めましょう」

「ギルを使っていいわよ」

「では遠慮なく」


 そうしてギルベルトを伴い、部屋を去っていく。

 それを見送ると、ハイデマリーはソファに掛けたまま頬杖を突き、卓上のカードを眺めた。


「さて……均衡を失ったあの子への、『対応策』も見てみようかしら」


 彼女は浮かない表情のまま、ひらりと「正義」の真上に位置するカードを翻す。


 今回現れたのは、ローブをまとい、厳粛な横顔を見せる老年の男性の絵だった。

 左手には杖、右手にはランタンを掲げて、老人は暗い道を静かに歩んでいる。


 ハイデマリーはなぜかくすりと笑うと、知性を宿した老人の瞳の辺りを、そっと人さし指で隠した。


「『隠者』ね。意味するのは、経験、助言――ああ、よかった。エルマに起こった不均衡は、きっと()によって解決の糸口をもたらされるでしょう」


 ゆったりとした口調には、能力ある占術師か、さもなければ霊験あらたかな巫女のような、静かな迫力が滲む。

 そばでハイデマリーの占いを見守っていたクレメンスは、「ばかばかしい」と鼻を鳴らすことすら忘れて、つい彼女を見つめてしまった。


「彼とは……誰なのだ?」

「隠者の正体? ふふ、内緒よ」


 美貌の女王は、そっと目を細めて笑う。

 その藍色の瞳には、ランタンを掲げた隠者が愛娘に救いの手を差し伸べる様が、まるで現実に見えているかのようだった。


「……ああ、でもそうね、随分と年若い隠者かもしれないから、老婆心ながら、わたくしもおまじないをしておこうかしら」


 彼女はそんなことを呟き、白い指をそっと、逆位置となった「正義」のカードに掛けた。


 そうして指でとんと隅を押さえ、すうっとカードを半回転させていく。


「位置を、正しく。不均衡から、均衡へ。善意と誠意がたがわず噛み合う、調和の取れた状態へ――」


 正位置に収まった「正義」の女王は、宙を射抜くように、凛と前を見据えていた。




***




 夕闇の迫った学院。

 薄暗い廊下を、ランタンを片手に黙々と進む者があった。


 全身を陰気なローブに包み、さらに冴えない眼鏡で顔を覆った姿は、まるで老人そのものといったところだ。


 が、その足取りはよくよく見ればしっかりとしており、ランタンを掴む手もまた、力強く、張りのある肌をしている。


 学院の片隅にある保健室に向かっている彼の正体は、――用務員に身をやつした、ルーカス・フォン・ルーデンドルフであった。


「イレーネ・フォン・ノイマン殿。在室でしょうか」


 清潔な白い扉の前にたどり着いたルーカスは、念のため用務員としての体裁を維持しながらドアをノックし、それからするりと入室を果たす。

 赤い夕陽の差し込む、薄暗い空間には、簡易のベッドが六台。

 イレーネは、その最奥のベッドでぽつんと一人、シーツごと膝を抱えていた。


「……保健医は」

「……先ほど帰られました」


 言葉少なに人払いされていることを確認しあい、それきり両者は黙り込む。

 ランタンを置き、フードを下ろし、眼鏡を外す頃になっても、イレーネはなにも言わない。


 ややあって、静かな溜息とともに切り出したのは、ルーカスのほうだった。


「――で。いつになったら部屋に戻るつもりだ?」

「明日の早朝にでも。……今日一晩は、ここで頭を冷やします」


 低い声で答え、イレーネは再び押し黙る。

 普段はおしゃべりなほうである彼女は、感情が溢れると逆に、口数が減ってしまうようであった。


 居心地のよいとはいえない沈黙に、ルーカスは無言で顎を撫でる。

 なにしろ、人との間合いを取ることに優れたルーカスだ。

 普段ならば、友人と喧嘩してふさぎ込んでいる女性を見かけたら、そっとその場を離れるだろうが、今回はそうしなかった。


 彼には、聞きたいことがあったためだ。


「――イレーネ」


 ルーカスは、奇妙に静かな声で問うた。


「おまえが今回そうやってエルマと距離を置こうとするのは、本当に、エルマの無茶に腹を立てたからだけなのか?」

「…………?」


 イレーネが、怪訝そうに顔を上げる。

 逆光で見えにくい表情をよく検分するために、ルーカスは、こつ、と靴音を立てて寝台に一歩近づいた。


「質問を変えよう。おまえは、今回かなり協力的に、エルマの活躍を止めようと働きかけてくれた。それはなぜだ?」

「……なぜって、それはだって、殿下が、エルマの正体が魔族であると――」

「そうだな、俺が頼んだ。だが……一昨日の依頼であったにもかかわらず、なぜおまえは、細工を(・・・)施した剣(・・・・)など用意(・・・・)できたんだ(・・・・・)?」


 猫のような緑の瞳が見開かれる。

 薄日でもそうとわかるほどに、彼女は肩を揺らした。


 ルーカスは、いつの間にか寝台のすぐそばにまで距離を詰め、イレーネを見下ろした。


「先ほど、出刃包丁とすり替えた元の剣を、エルマに返そうと回収してな。その時、カリブルヌスであるはずのそれに、どうも違和感を覚えて、今更ながら検めてみた。するとどうだ。そいつは……名剣どころか、刃の欠けた古剣だったよ。それも、細工の施された、な」

「…………」

「これまでのおまえの態度で、少々気になるところが俺にはあったんだ。それでも意識には上っていなかったそれらが、その瞬間、すべて浮上した」


 思えばイレーネは、時折妙に、アウレリアやトリニテート候補生たちについて詳しかった。


 また、ルーカスが協力を依頼する前から、エルマの活躍の阻止にやけに協力的だった。

 意を汲んで、と彼女は言っていたが、日頃ルーカスのことを上司とも思っていなさそうなそぶりを考えるに、その協力的な態度はいささか妙である。


 それに先程の試合で、ルーカスが出刃包丁にすり替えたと告白したときには、やけに――ルーカスからすれば必要以上に――驚いていたようであった。


 最も気になったのは、彼女の視線。

 イレーネは、このアウレリアに来てから、やけに周囲をきょろきょろと見回すことが増えた。

 闘技場においては、特に。


 大切な友人であるエルマの試合中でさえ、時折、そうせずにはいられないというように、観客席の一点を見つめていた。


 まるで、そこに心を寄せる相手か、そうでなければ、なにかの合図があるかのように。


 黙り込むイレーネの顎を掬い取り、ルーカスは低く告げた。


「答えろ。おまえは、いつからエルマ妨害の準備を進めていた? なぜ、アウレリア側の筆頭候補生――ラウル・パヴァリーニやジーノ・マージを熱心に見つめ、かつ、それを隠そうとする? ……おまえの目的は、なんだ?」

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