18.「普通」の剣技(4)
温められたにんにくの香りがふんわりと鼻腔をくすぐり、思わず一同はごくりと喉を鳴らす。
そして、そんな自分たちに戸惑いを覚えた。
だって、これはヒュドラだ。
おぞましい蛇の形をした、恐ろしい炎毒を吐く、ヒュドラなのだ。
「お待たせいたしました」
エルマが華麗に油切りを済ませた唐揚げを、皿代わりのアローロの葉に載せていく。
いつの間にか設えられていたテーブルの上には、気付けば百人分を上回る唐揚げが並べられていた。
「ヒュドラの唐揚げです。十分に下味は付けておりますが、お好みで塩などとどうぞ」
繊細に筋を切られた肉は、油を含んでふっくらと膨らみ、薄い衣は陽光を誇らしげに弾き返して、きらきらと輝いている。
だが、ヒュドラ肉。
これは魔獣の肉なのだ。食らったら死ぬかもしれない。
戦闘ですっかり腹を空かせていたジーノは、とっさに皿へと伸びる右手を、なんとか左手で抑え込んだ。
「なお、毒は魔袋ごと完全に処理したうえ、清酒で臭みを消し、寄生虫対策に隠し包丁、さらに十分に加熱いたしましたので、ご安心ください」
……死なないかもしれないが、いや、それでもヒュドラ。
魔獣の肉なのだ。
きっと筋張って、奇妙な味わいがして、到底食べられたものではないだろう。
「なおご存知の通り、猛毒で身を守る生物の常として、身はとても柔らかくジューシーです」
…………ジューシーかもしれないが、いや、それでもヒュドラ。ヒュドラなのだ。
おぞましい、蛇の形なりをした……ゲテモノの……。
きっと、ゲテモノの……。
「噛むと一気に肉汁が溢れますので、猫舌の方はご注意くださいね」
「いただきます!」
気付けば、ジーノはひとつめのヒュドラ唐揚げを頬張っていた。
「…………!」
そして、天国を見た。
舌に真っ先に感じるのは、塩の利いた薄い衣の感触。
それをさくっと歯で割れば、たちまちジューシーな肉と、じゅわっと渦巻く肉汁に行き当たる。
熱さに、歯の先がちんとした。
むちむちとした地鶏のような食感。
それでありながら、脂の乗った魚のような、濃厚な味わい。
噛めば噛むほど、丸みを帯びた脂と、塩気を帯びた肉汁が混ざり合い、口の中いっぱいに広がっていく。
無我夢中で次の一皿に手を伸ばそうとしたジーノを、しかしエルマが素早く制した。
「お待ちください。二個目は、ぜひこちらのソースとともに」
振りほどけぬほど強い力で腕を掴まれ、ジーノは思わず絶望の呻き声を上げる。
ソースがなんだ。今は塩すら欲しくない。
それよりも、早く、早く、次の一口を含みたいのに。
舌の上に、喉の奥に、この素晴らしい味わいを感じたいのに――!
もはや中毒者のような目つきをしたジーノは、無理やり「ソース」とやらを振りかけられた唐揚げを奪うようにして貪った。
そして、
「あ……――」
恍惚の呟きを漏らした。
これは、なんだ。
(口の中で、肉が、溶けていく……!)
それは、今までに経験したことのない、まさに奇跡の食感であった。
むっちりとしていたはずの肉は、つんと酸味の立ったソースを受け止めたところから、ほろりとほどけていく。
ゆっくりと溶けゆく肉の繊維は、まるでそっと寝台に横たえられていく、たおやかな乙女のようであった。
さくさくの衣と、とろける肉。
爽やかなソースの酸味と、どこまでも丸い脂の甘み。
相反する要素同士が手を取り合い、ともに笑い合っているかのような瞬間。
――それはまさに、平和。あるいは、奇跡。
目を見開いて、絶句するしかないジーノに、エルマは真顔で頷いた。
「聖水をベースにしたソースです。微量な魔力を残したヒュドラ肉は、聖水を振りかけることによって溶けるため、このような食感が楽しめます」
ジーノは、無粋にも聖力を大量投入して、一気に
「俺……、俺はなんてことを……っ!」
己の所業を悔いて涙目になるジーノの肩に、エルマがそっと手を置く。
「ジーノ様は、
「…………」
いや、ヒュドラを食すこと自体が普通ではないんじゃないかな。
ジーノが、そしてギャラリーが、またも心をひとつにする。
しかし、そのツッコミが声として紡がれる機会はなかった。
なぜなら、
「ふ……ふめええええ!」
「ちくしょう……! 初めての食感なのに……なんか……なんか、すごく懐かしいぜ……っ」
「母さああああん!」
ジーノに続き、食欲と興味を抑えられず唐揚げを口にしたほかの候補生たちが、次々とむせび泣きはじめたからである。
彼らは、舞台袖で救護班に応急手当てをしてもらった後、唐揚げの匂いに釣られて、這いずるようにして再び舞台に上がったのであった。
いくら間口の広い剣士職とはいえ、ジーノのように下町出身の候補生はほかにいない。
にもかかわらず、その出自を超えて、彼らに家庭の味を想起させるようななにかが、ヒュドラの唐揚げ、およびエルマの包丁捌きにはあった。
しかも、彼らの感動の対象はそれだけにはとどまらなかった。
「なんか……すげえ力が湧いてくる……!?」
「…………!? ヒュドラにやられた火傷が、みるみる回復してる……!?」
そう。
魔袋を取り除かれたことで毒を排され、さらに聖水によってごく微量の残存魔力すら取り払われたヒュドラ肉というのは、魔獣特有の、ひたすら滋養強壮によい成分の塊でしかなかったのだ。
聖女の癒術も真っ青のレベルで回復していく己の体に、候補生たちが愕然とする。
彼らはゆっくりとエルマのほうを振り返り、そこに陶酔の色を浮かべた。
「……やっぱり聖女だ……」
「いや、女神だ……」
「いや、あの凄まじい包丁捌き……。彼女は、戦闘と癒しを同時に司る、戦女神なんだ……」
肩書きが着実に進化している。
うっとりとエルマを見上げる彼らの中には、数日前までは「
そんな候補生を見ていたジーノに、苦々しい笑みが浮かぶ。
彼らの突然の変心が滑稽に思われたからではない。
そうではなく――わずか一時間足らずで、高慢な周囲を改心させてしまったエルマと、三年近く学院に在籍してなお、彼らのことを完全にはねじ伏せられなかった自分との差を、痛いほどに実感したからであった。
(俺に嫌がらせを仕掛けてきたやつらはぶちのめしてやったし、どんな決闘でも相手を斬り負かしてきたけど……結局、俺を侮る目ってのは消えやしねえ。ひきかえこいつときたら、ものの数十分で、こいつらの心からの尊敬まで得てやがる。……これが、出自の差ってやつかねえ)
屈強な剣士候補生たちに跪かれながら、小柄な体で凛と佇む少女の姿には、友人のラウルにも通ずる、生まれながらに高貴な雰囲気があった。
やはり彼女は、アウレリアからトリニテートを奪取する任務を命じられるほどに、能力に秀で、かつ高貴な身分の少女であるのだろう。
その圧倒的な技量。
美貌。
他者を従えるオーラ。
どれ一つをとっても、敵わない。
多少荒っぽいところはあるものの、心根はまっすぐなジーノは、潔く負けを認めた。
「……降参だわ」
「え?」
少女は怪訝そうな顔で振り返る。
ジーノは肩をすくめると、敗者の証として、師から託された聖剣を床に置いた。
「俺はあんたにゃ敵わねえ。聖剣士の座は、あんたに譲るよ」
「え? いえ――」
「言い遅れたな。俺は、ジーノ。下町のしがない肉屋の息子、ジーノ・マージだ。あんた、名前はなんていうんだ?」
当惑した様子の少女を遮り、名を問う。
聖剣士の座は逃したが、せめて誇り高い剣士のように、正々堂々とした名乗り合いというものを済ませてみたかったのだ。
だが、そこで少女はますます困惑したように首を傾げた。
「私に苗字はないのですが……」
「は? あ……孤児とか? いや、でも、学校か教会に行けば、そこで苗字をもらえるだろ?」
「いえ、学校や教会通いの経験もない……というか、そもそも戸籍がないものでして……」
その弁に、耳を疑う。
アウレリアでは、たとえスラムの最下層民であっても、出生と同時に導師から洗礼を受け、かりそめの姓を与えられ、戸籍が作られるものだ。
アウレリアより数段大国であるルーデンならば、より間違いなく社会に組み入れられることだろう。
なのに少女は戸籍が無く、しかも聞けば、学校に通ったことすらないのだという。
それはつまり、彼女は高貴なる生まれなどではないということで、さらに言えば、普通の家庭、普通の社会といったものすら知らないということで――。
(それなのに……?)
ジーノが呆然としていると、エルマは「私のことはさておき」と、なぜか納得したように頷いた。
「ジーノ様は精肉店のご令息であられたのですね。道理で鮮やかかつ繊細な太刀捌きだと、腑に落ちた思いです」
「……ご、ごれいそく?」
こと宗教色の強いアウレリアにおいて、獣肉を解体するジーノの父の仕事は、下賤の労働とされる。
学院では「豚小屋の息子」と蔑まれる出自を、妙に麗しく表現されて、ジーノは戸惑った。
「はい。周囲の料理人複数名から、アウレリアの精肉加工技術は、他国に比べて数段優れていると聞き及んでおります。一太刀のもとに頭を切り落とす技、血管や筋肉を極力潰さぬ、解剖学に則った合理的な刃運び……命に対する真摯な在り方が、そうした技術を結実させるのでしょうね」
「……いや」
そんなものが、あの下町や、自分の父にあったろうか。
だが、
「ご謙遜を。ジーノ様も、先ほど過剰な聖力こそ込めてはしまいましたが、ヒュドラの頭の軌道を見極め、一太刀のもとに邪頭を貫いたその技術、さすがはアウレリア精肉加工の神髄よと、感服する思いでございます」
エルマにそう指摘され、ジーノは思わず目を見開いた。
――いいかぁ、ジーノ。一刀両断。これが肝なんだ。
ふいに、脳裏に父のだみ声が蘇る。
――俺たちぁよ、大切な命を頂いて、捌く、それが仕事だ。
だから、相手が豚であれなんであれ、怖がらせちゃならねぇ。苦しませちゃならねぇ。
俺たちにゃ、うじうじ悩む時間も、躊躇いも、いらねえんだ。
ばさっと一思いに、斬ってやらにゃあ。
町で商品を買い叩かれたとき。豚臭いと、周囲から嘲笑われたとき。
地団太を踏んで悔しがる幼いジーノを横目に、父親はただそれだけ告げて、豚の頭を落としつづけていた。
その頃のジーノの目に、それは逃げのように映った。
蔑まれようと、ほかにできることがないから、父親はそうしているのだと。
明後日なことを告げて、仕事に没頭することで、不甲斐なさをごまかしているのだと。
だが――。
立ち込める臭気も。
汚らわしい仕事よと蔑む世間の視線も。
それらもまとめて断ってやるといわんばかりに、斬る。斬る。
家畜の汚物と血にまみれ、安い労働に汗を滲ませたその背中は、たしかに、力強さと、誇りに溢れていた。
「…………」
なぜだか、喉の奥が熱くなった。
あのしみったれた下町に、豚臭い父親に、学ぶものなどないと思っていた。
だが、そんなことはない。
そこで得た教えは、むしろ自分のど真ん中に、しっかりと根付いていたのだ。
(そっか……)
ジーノは、そのときようやく悟った。
自分が、三年かかっても学院で出自への中傷をねじ伏せられなかった理由。
それは、ほかでもない
(むしろ、俺はそれを誇るべきだったってのに……)
どうだ、これが下町の、肉屋の息子の剣だと。
胃袋を満たし、人を生かすための、迷いのない力強い剣であろう、と。
ジーノは、ふっと息を漏らし、笑った。
いよいよ、トリニテートの座など、出自に対する周囲の目など、どうでもよくなった。
(だって、そんなもんなくても、俺は……俺だ)
観客席から、身を乗り出さんばかりにこちらを見ている、ラウルとクロエの姿が視界に入る。
二人に軽く片手を挙げて答えてから、ジーノは「そうとも」と、心中で呟いた。
そうとも、俺は、俺だ。
トリニテートの身分などなくとも、あの輝かしい友人たちに並び立つのに、十分ふさわしい資質を持っている。
「……目が覚めたわ。ありがとな」
感謝の気持ちを込めて力いっぱい肩を抱けば、予想外だったらしく、小柄な少女はちょっとよろける。
「おっと悪ィ! ……にしてもあんた、ほんと別嬪だな」
しげしげと見つめて告げると、彼女は戸惑いも露わに「いえ……」と首を振ったが、そんなとき、背後から暗雲を背負ったかのような低い声が掛かった。
「ちょっと、失礼……!」
ルーカスである。
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ご心配をお掛けし申し訳ございませんでした…!