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17.「普通」の剣技(3)

「お、女の子が食われたぞ……!」

「わあああああっ!」


 彼らの脳裏に浮かぶのは、無残に引き裂かれ、臓腑を晒した哀れな少女の姿だ。


 小柄な体からは、おびただしい血が流れているのかもしれない。

 昨日見た整った顔は、皮膚のかけらも残さず蹂躙されているのかもしれない。


 いや、蛇の体と、あれだけ強力な毒の炎を持つヒュドラのことだ。

 少女は牙で引き裂かれるのではなく、丸呑みにされ、その体内で溶かされる責め苦を負っているのかもしれない。


「――エル、マ……!」

「くそ……っ!」


 イレーネはもはや立っていることもできず、その場にふらりと崩れ落ちた。

 ルーカスもまた、用務員に扮していることを忘れ、手すりを飛び越え舞台上へと駆け上がっていく。


 そしてジーノはと言えば、目の前で起こったことが信じられないとでもいうように、ただ蛇頭を蠢かせるヒュドラのことを凝視していた。


「ヒュドラの腹を切り裂く! 運営! 枢機卿以下、全候補生による援護を! おい、その剣を貸せ!」


 壇上の人となったルーカスが鋭く吠え、この場で最も威力のあるジーノの剣を奪おうとする。

 既にヒュドラは少女を消化するためか、床を這いずるのをやめ、蠢く頭を満足そうに震わせていた。


「早く!」

「……どういうことだ」


 が、ジーノはルーカスの叫びにすら耳を貸さず、怪訝な顔つきでヒュドラのことを見つめるだけだ。

 ――いや。

 ヒュドラというよりは、その腹の中にいるであろう、少女のことを。


「なんであの子、『おいしそう』だなんて舌なめずりしてたんだ……?」

「――…………は?」


 言葉がすぐには理解できず、ルーカスが思わず聞き返す。

 しかし、ジーノがそれに答えるよりも、ヒュドラに起こった異変が、回答の役割を果たした。


 ――ぶるぶる……っ、ぶるんっ


 数を増やし、二十では収まらない蛇頭が、震える。

 それは、愉悦の蠢動のように思われたが――いや、よくよく見れば、ヒュドラの目がおしなべて反転し、いわゆる、白目を剥いた状態になっている。


 ヒュドラは、痙攣を起こしていた。


「いったい……なにが……!?」


 異変に気付いた観客までもが、ざわざわと疑問を口にした、その瞬間。


 ――べろろろろろろろんっ!


 なにかが凄まじい勢いで剥がれるような音とともに、ひとつの小さな影が、ヒュドラの口から飛び出してきた!


「あ……っ、あれは……!」


 空高く舞い上がったその影は、宙で両膝を丸め、両腕を胸の前で交差させている。

 その目元、そして右手の先辺りが、陽光を弾いてきらりと光った。


「ルーデンの候補生――!?」


 それは、眼鏡と出刃包丁であった。


 空中でくるくると華麗に回転した少女――エルマは、しゅたっと石の舞台に着地を決めると、条件反射のように両腕をY字に掲げた。


 そのほっそりとした右手には、なんの変哲もない出刃包丁。

 そして左手には、ピンクがかった、えもいわれぬ質感の、巨大な球状のなにかを器用にぶら下げている。


 動揺を隠せぬギャラリーを置いてけぼりにして、彼女はそっと出刃を置き、その傍らに球状のなにかを安置すると、再びすっと立ち上がった。


 猛毒の炎を放つヒュドラに呑み込まれたというのに、怪我のひとつも負った様子ではない。

 ただ不思議なことに、食われる前と比べると、彼女はなぜかほっかむりを装着しており、それを含めた頭部から爪の先まで、全身をヒュドラの消化液であろう粘性の液体にまみれていた。


 くん、と臭いを嗅いでみたエルマは、閉口したように肩をすくめる。

 ついで、硬直している周囲をよそに、眼鏡とほっかむりを投げ捨てて、美貌を露わにすると――驚くべきことに、その髪も肌も、まったく濡れていなかった――、さらに、制服の襟元を寛がせはじめた。


「エ……エルマ……!?」

「きゃぁっ! お姉様……!?」


 突如として始まったストリップショーに、観客席からどよめきが上がる。

 我に返ったイレーネは、待ったを掛けようと身を乗り出したが、それよりも早く、


 ――ばっ!


 エルマは制服を脱ぎ捨てて、それに覆われていた姿を周囲に晒してしまった。


 ……王宮お仕着せのメイド服姿を。


「下に着てたんかあああい!」

「ちくしょおおおおおおお!」


 女性陣も男性陣も、等しく叫びを上げる。

 悲喜こもごもの現場であった。


 いずれにせよ、いつもの侍女姿を取り戻したエルマは、絶句しているルーカスに向かって、真顔でサムズアップを決めてみせた。


「妙味の王様・ヒュドラを、聖力で消し飛ばしてしまう無粋な輩には任せておけぬ、とのご懸念、このエルマ、しかと理解いたしました」

「……は?」

「武闘より料理。伝説の剣より出刃包丁。剣士であるより、侍女であれ。そういうことですよね。私、お二方のメッセージを真摯に受け止め、あくまで(・・・・)侍女(・・)として、このヒュドラに向き合いたいと思います」

「…………は?」


 もうなにもかもよくわからない。


 が、ルーカスが硬直してしまったその一瞬の隙を突き、エルマはジーノに眼を飛ばす。


「――せっかく皆さんが二十まで頭を増やしてくださったヒュドラ一体が、台無しになってしまったではありませんか。今度食べ物を粗末にしたら、ジーノ様の分は無しにいたしますからね」

「………………はい?」


 要領を得ないでいるジーノに、エルマは珍しく、ふんっと鼻を鳴らし、それからヒュドラに向き直った。


 一番巨大な鎌首部分を、真っすぐに内側から裂かれたヒュドラは、俎板の鯉のようにビクビクと震えていた。


「――バルツァー流が奥義……」


 エルマはすうっと身をかがめ、右手に握った出刃包丁をゆっくりと構える。

 そして、


威汰堕鬼魔栖(いただきます)――!」


 天高く跳躍しながら、それを真一文字に振り下ろした――!


「なにしてんのよエルマーーーーーーッ!」

「おまえ、やはり必殺技名(それ)を言ってみたかっただけじゃないのかーーーーーー!」


 イレーネとルーカスが、両手を頭に突っ込んで絶叫するも、時すでに遅し。

 エルマのほっそりとした右手から繰り出される出刃包丁は、ごうっと唸りを上げて宙を切り裂いた。


 ヒュドラはその巨体を天高くまで舞い上げ、そこでぴたりと静止する。


「こ、これは、まさか……」

「ああ」


 いつか見た光景が蘇ったイレーネが呟けば、ルーカスは低い声で頷く。


「……太刀筋が鋭すぎて、ヒュドラも切られたことに気付いていないな……」

「やっぱり……!」


 二人は遠い目になりはじめ、同時に、この先待ち受ける展開について、うっすらとした理解を結びはじめた。


 取り残されたのは観客たち、そしてジーノのほうだ。

 彼らは、筆頭候補生ジーノすら視認しきれぬスピードで刃を振るった少女に瞠目し、それから、宙でぴたりと静止してしまったヒュドラに、困惑の視線を向けた。


「こ、これは……?」


 が、次の瞬間、


 ――バラララララララララッ!


 そんな統制の取れた音とともに、ヒュドラの体がばらばらに切り離れてゆくではないか。

 いや、「ばらばら」などというものではなく、彼らが次に目を開けたときには、ヒュドラはすべて、頭部と皮、そして肉とに分かれ、床の上に敷かれた清潔な布の上に、ブロック状に美しく整列していた。


「なにこれ!?」


 国境、宗教、性別出自。

 その他すべてを乗り越えて、その場にいた全員の心が、ぴったりひとつに揃う。


 エルマはそれを声援とでも思ったのか、軽く手を挙げて応え、それから、ぴくりとも動かなくなったヒュドラの肉に向けて、ちょっと残念そうに眉を下げた。


「……やはり、もう少し頭を増やしてから、魔袋を剥ぎ取ればよかった……」


 まるで、料理の手順を誤ったことを悔やむ、主婦のような口調であった。


 そう、主婦。

 ヒュドラに対峙するエルマを見て、ジーノは強烈な既視感を抱かずにはいられなかった。


(この、姿……。Sクラス魔獣を前にしても、なんの闘志も抱かない佇まい……)


 目の前の少女からは、闘志、害意、勝利への妄執や生への渇望、そういった、巨大な敵に臨む時、必ず人間が抱くであろう感情が一切感じられなかった。


 なぜなら、彼女にとってそれは、生死を懸けた戦いなどではないからだ。

 「食うか食われるか」の決着など、とうについている。

 今この場において、絶対者は彼女。

 ヒュドラは――ただの食料でしかない。


(俺の剣が、一撃で相手を斬り殺す『聖剣士の剣』だというなら……)


 ジーノはごくりと喉を鳴らした。


(この子のそれは――『主婦の包丁捌き』!)


 語彙のレベル感がまるで揃っていない。

 揃っていないが、それはほかのなにより的確に、エルマの動きを表していた。


「はっ!」


 短い掛け声とともに、エルマが旋回しながらばっと布を払う。

 すると布から放たれたヒュドラ肉は、まるで嵐に揉まれる木の葉のように、激しく渦を巻きながら上空へと飛翔していった。


 それを高らかに掲げた右手の一振りで一口大に刻み、かと思えば、いつの間にか左手に取り寄せた酒の瓶でそれらの臭みを消し、さらには包丁から持ち替えた右手でハーブのようなものを叩きつける。


 まさに、熟練の技。


 それはしかし、プロの料理人のように、工程ひとつひとつを細分化し、じっくりこなしていく類の仕事ではない。

 たとえば同時に十皿分の調理をこなす食堂のおばちゃんのような、あるいは夫の世話と子どもの躾と犬の餌やりを同時進行でこなす主婦のような、はたまたあらゆる煩雑な業務を網羅的にこなす王宮侍女のような、そう、どこか女性的な力強さを帯びた動きであった。


(見える……! あの子の背景になぜか、働き者の主婦の姿が……!)


 ジーノは闘技場の片隅から、幼い日に感じた匂いや音が、ふと漂ってくるかのような錯覚を抱いた。


 例えばそれは、手狭で粗末な家の調理場。

 雑然としたその場所に、彼女は女王のような足取りでやって来る。


 事実、その場において彼女は女王なのだ。

 くたびれたエプロンを身に着けども、家族の腹を満たすという崇高な任務は、いつも彼女の瞳に凛とした光を与える。


 周りを取り囲むのは、相棒、いや、もはや自分の手足とも呼べるほど使い込んだ調理器具たち。

 目の前には食料。


 ときに首を断たれ、内臓を晒したそれらを見ても、彼女の心には何の怯懦のさざ波も立たぬ。

 害意もない、闘志も、勝利への妄執もない。

 あるのはただ、淡々とした日常に横たわる、己のこなす仕事への誇り。


 彼女は右手で肉を裂き、左手でそれを清め、ときに口や顎まで使いながら迅速に調理を進める。

 それは常に時間との戦いだからだ。

 彼女の戦場のすぐ後ろには、腹を空かせた大切な者たちが待っているのだから。


 ごはんまだー?

 ちょっと待ってな、あとはこいつをしっかり焼けば終わりだよ!

 えー、またモツ焼きかよー。


 いつの日か交わした、幼い自分と母の会話までをも思い起こしはじめたジーノの横では、観客がどよめきを続けていた。


「見ろ……! あの駆け上がるような削ぎ切り、からのリズミカルな筋切り!」

「っていうかあの酒やハーブ、今どこから出てきたんだ!?」

「ああっ、救護班だ! 救護班からかっぱらったんだ!」


 舞台の片隅で、消毒用の強い酒と、解毒作用を持つアローロの葉を掠め取られた救護班は、なにが起こったのか理解できず、ぽかんとした姿勢で固まっている。


 彼らが大量に沸かしていた湯も、気付けばヒュドラ肉の湯通し用にしっかり使われていた。

 よくよく見ればエルマが俎板代わりに使っていた布も、彼らの用意していたシーツの一部だ。


「ちゃっかりだ……! あの子、相当なちゃっかり者だ……!」


 有り合わせですべてを事足らせようとする、主婦的執念に観客が声を震わせる。

 周囲の動揺をよそに、エルマは今度は、ばっと大鍋に油を投入し、素早く熱しはじめた。


「待て、あの油と鍋は今どこから出てきたんだ……!?」

「あれだ……! ヒュドラの体内から剥ぎ取った球みたいなやつ、あの大きいほうに、大量の油が入ってるんだ!」


 そう。ヒュドラは炎毒と呼ばれる攻撃を可能にするために、体内に瘴気を帯びた液体を溜める魔袋と、それを炎に加工するための大量の油を保持しているのである。エルマはそれを奪い取ったのだ。

 

 ちなみに鍋は、もちろん鞄から取り出したものである。


 理解が、ツッコミが、行動に追い付いていなかった。


 くるくるとせわしなく鍋の周囲を動き回るエルマの動きは、踊っているようにすら見える。

 同じ舞台上でエルマに見入っていたジーノは、彼女がふんふんと何かを口ずさんでいるのに気付いた。


 鼻歌だ。


(ご機嫌か!)


 さては好物なのか。


 そのあまりに泰然とした態度に、ジーノは戦慄を覚えた。


 鍋が煮立つ。

 いつのまにか塩こしょうやにんにく、小麦粉を絡められた――これは布鞄から登場したようだ――ヒュドラ肉が、じゅっと音を立てて投げ込まれる。


 からから、ぴちぴちという、楽しげな油の音。

 こんがりときつね色に転じていくヒュドラ肉。


 やがて漂い出す、揚げた肉特有の、えもいわれぬ香ばしく旨味ある香り――。


 とうとうジーノは、そして人々は悟った。


「ヒュドラの、唐揚げ……!」

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