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15.「普通」の剣技(1)

 秋深き空はどこまでも澄み渡り、わずかにひやりとした風が、興奮した人々の頬を心地よく撫でてゆく、まさに武闘会日和の朝。


 聖剣士の部に臨むべく、淡々と闘技場へと足を進めるエルマとは裏腹に、イレーネは既に疲労困憊の態だった。


「エルマ……ほんと、あなたって……あなたっていう人は……」


 小さな独白は、もはや魂を削りきった人のような虚ろさだ。


 そう。イレーネはルーカスとの密談を経てからというもの、今この瞬間に至るまで、エルマをなんとか足止めしようと、あらゆる手段を講じてきたのである。


 が、部屋を真っ暗にしておき寝坊させようとすれば、逆にジェントルに起こされ、あげく「目覚まし時計なるものを発明しましたので、どうぞ」とプレゼントされる謎展開。

 朝食の準備を遅らせて遅刻させようとすれば、昨日の異常生育した野菜で仕立てた、マクロビ食フルコースを振舞われるという逆転劇が待ち受けていた。

 ちなみに時計は大層精巧で美麗な作りで、料理のほうは軽やかに昇天しそうな美味しさであった。


 ほかにも、懇々と説得してみたり、脅したり宥めすかしたりしたのだが、逆にこちらが必死過ぎるのを不思議がられ、途中で撤退。


 やけくそになり、「ああっ、お腹が痛い! 私のことを思うなら、聖鼎杯など辞退してそばで看病して!」ともんどりうってみたところ、診察では原因が掴めなかったエルマが――仮病なのだから当然だ――真顔になり、全身外科手術の用意をしはじめたので、イレーネは「治りましたぁ!」と挙手せざるをえなかった。


 結果、今、エルマは特に何ごともなかったように、舞台への入り口をくぐろうとしている。

 聖女の部とは異なり、舞台は剣技が披露される危険な空間となるので、入場するのは候補生だけ。従者や侍女はここで待機だ。


 イレーネがじっとりとした視線を送っていると、それに気付いたエルマが、ふと後ろを振り返った。


「――イレーネ」

「な、なによ!?」


 今度はどんな展開が待ち受けているのかと、イレーネが脊髄反射で肩をびくつかせると、エルマはそれをいなすように、ぽんと肩に手を置いた。


「大丈夫。いくらなんでも、私とてこの場で剣士無双をしようなどとは思っておりません。目指すは『普通』。あくまでも『普通』。どうぞ大船に乗ったつもりでいてください」

「…………」


 自信満々の様子に、イレーネはかえって不安になった。

 その大船、実は泥船なのではないだろうか。


「ほ、本当に『普通』を目指すのよ? 言っとくけど、聖剣士や勇者にとっての『普通』ではないからね? 伝説級の武器とか隠し持ってないでしょうね。今回は魔獣退治が課題らしいけど、一撃で倒したりしてはだめよ。本当の本当にわかってる?」


 エルマは神妙に頷きながら聞いていたが、「伝説級の武器」のあたりではっとした様子を見せると、素早く靴底からなにかを取り出し、ぺいっと闘技場の廊下に投げ捨てた。


 見たところ、ミスリルだとかの希少金属でできていそうな、明らかに物々しい感じの短剣だった。


「もちろんです。お任せください」

「今なに捨てたーーーーーーっ!?」

「……いえだって、エクスカリバーの兄弟剣なんて、その辺を散歩していれば、ごろごろ遭遇するじゃないですか」

「そういうところよエルマーーーーー!」


 イレーネががくがく揺さぶると、エルマは大人しく「すみません」と声を振動させながら謝った。


「メインの武器は事前に回収され、試合時に手渡される手筈になっているからと、油断しておりました。まさか護身用のナイフで『普通』を逸脱してしまうところだったとは」

「むしろ、小物の武器ですらエクスカリバー級ってどういうことなのよ! ねえ、本当に大丈夫なの!? 魔獣瞬殺とか、秒で優勝とか、本当にしないでね!?」

「大丈夫です。お任せください。そもそも今の私は侍女なのですから、それに見合ったことしかいたしません」


 エルマはあくまで静かに請け負う。

 イレーネはあと一歩踏み込もうとしたが、あまりに二人が騒ぎ過ぎたため、入場門付近のほかの候補生たちがざわつきはじめている。

 それに気付いた彼女は慌てて自制し、「なら、いいわ」と、エルマを門へと促した。


 見れば、冴えない用務員に扮したルーカスもまた、少し離れた舞台脇に控えている。

 こちらに近付きながら、首尾はどうだ、といった心の声を飛ばしてきたので――実際には眼鏡が鋭く光っただけだったが――、イレーネはそっと視線を床に落とした。


 背後でそんなサインが送り合われているとは知らず、エルマはまっすぐに舞台へと進む。


 剣士という部門上、候補生たちは昨日とは打って変わって、筋骨隆々とした男性が多い。

 その中で、背中をぴんと伸ばしてなお小柄なエルマは、冴えない眼鏡姿とはいえ、歩くだけで注目の的だった。


 いや、この場にいる候補生や観客のほとんどが、彼女の素顔を知っている。

 絶世の美貌を眼鏡で覆い隠しているからこそ、「今日は眼鏡を外すのか」「いつ外すのか」と、かえって関心を集めてしまっている有様だった。


「せめて、眼鏡を外させて平凡顔メイクをさせればよかった……っ」


 観客席に座す学院話題の人物、クロエと――信徒化した彼女はさて措くとして、ラウルまでもが、じっとエルマを見つめているのを認めて、イレーネは歯噛みした。

 いったい自分はなにをしていたのか。

 マクロビ全席を食していたのだ。


 悔やんでももう遅い。

 己の食欲と、同僚の料理の腕前を恨むしかないイレーネであった。


 と、候補者のすべてが舞台に出揃う。


 最後に入場を果たしたのは、筆頭候補と噂されるジーノだった。

 下町出身の彼は、学院では微妙な立ち位置にあるのか、彼が入場した途端、ほかの候補生たちが距離を置いたり、鼻白んだ表情を浮かべたりする。中には、「豚臭ぇ」と野次を飛ばす者もあった。


 一方では、精悍な体つきとやんちゃそうな顔立ち、そして優れた武技がそうさせるのか、相当数のファンも付いているようで、彼が舞台を踏むと同時に、観客席から黄色い声が上がる。


 それらを見て取り、イレーネはきゅっと顔を引き締めた。

 ジーノを睨みつけるようにして見据え、ついで観客席に視線を移す。


 彼女はなにかを抑え込むようにして拳を握ると、ついで頭を振り、再び舞台に向き直った。

 聖剣士の部の開会まで、あと少しだ。


 舞台上に並ぶのは、ざっと六十名ほどの聖剣士候補生たち。

 武器によって聖力を補うことができるぶん、わずかな聖力しか持たずとも、武技さえ優れていれば候補生になれるようで、聖女や聖術師に比べてその数は多い。


 舞台の中央には聖術陣が二つ、そして候補生たちの前には、聖布で厳封された箱がそれぞれ置かれている。

 陣で二体の魔獣が召喚されるとともに、候補生たちの武器も解放される手筈になっているのだ。


 候補生たちは事前に登録した武器のみを用い、魔獣を倒す。

 見事魔獣を討ち取れば聖剣士の座が与えられ、逆に髪の毛一筋ぶんであっても傷を負えば、失格だ。

 もし二体の魔獣が倒された時点で、複数名の候補生が残っていれば、彼らで直接剣を交えてトリニテートを決めることとなる。


 まずは魔獣を倒すべし、と、誰もが闘志を湛えて聖術陣を睨みつけていた。


「――それでは、これより、聖剣士の部を開始する」


 やがて、舞台中央、聖術陣のすぐ横に陣取った枢機卿が、朗々とした声でそう告げる。

 今日の進行役は、昨日とは打って変わり、反ルーデン派筆頭――グイドであった。


「召喚する魔獣は、ヒュドラの(つがい)。辞退を申し出る者は控えの間の用務員に向かって合図を送るように」


 彼はよく通る低い声で言い渡すと、すっと右手を掲げた。


「それでは、候補生たちに神のご加護を。聖剣士の部――開始」


 ――ぱああああっ


 グイドの合図とともに、武器を納めた箱と陣とが一斉に光を放つ。

 候補生たちは素早く己の剣を取り出しながら、目を細めて陣を見守る。


 はたして現れたのは、ぐねぐねと身をくねらせる巨大な蛇を、いくつも集めてくっつけたような、おぞましい姿の魔獣――ヒュドラであった。


 舞台上で蠢く二体は、どちらも獰猛そうな(あぎと)から涎を滴らせ、敵意を露わにしている。

 その体液も猛毒を帯びているらしく、ぽたりと涎の垂れた床が、じゅっと音を立てて削れるのがわかった。


 シューッ、シューッ、と威嚇するような声に、たちまち闘技場全体が緊張に包まれる。

 控えの間で見守っていたイレーネもさすがに、魔獣の凶悪さに眉を寄せた。


「こんなに恐ろしい魔獣を召喚するだなんて……」


 過去の聖鼎杯の記録を見るに、召喚される魔獣はせいぜいA級、大導師が数人で倒せる程度のものだ。 それが、まさかS級――熟練の聖騎士団と大導師が束になってようやく倒せる強さのものだとは。


 観客はもちろん、候補生たち自身、特に、ヒュドラの性質を少しでも知っている者は、そのあまりの難儀さに顔を強張らせた。


 ヒュドラは九つの頭と、毒の炎を持つ魔獣。

 頭は一つを切り落とせば、傷口から二つが再生し、吐き出した炎が頬を掠りでもすれば、たちまち全身を焼かれるような痛みに襲われる。

 剣士の天敵とも呼ぶべき存在だ。


 中には、その圧倒的な強さの気配に呑まれ、己の剣を取り出せない者すらあった。

 いや、半分ほどの候補生たちが、完全に硬直してしまっている。


「う……うおおおおおおおおっ!」


 と、候補生の一人が、己の怒号によって緊張を打ち払い、ヒュドラに向かって突進を始めた。

 周囲もはっとし、追従するように次々と陣へと走り出す。


「エルマは……!?」


 イレーネ、そしてすぐ隣にやってきたルーカスが身を乗り出して見れば、エルマはようやく武器箱に手を掛けたところだった。


「よ……よし! ちょっと出遅れた感じのある動き! ナイスよ!」

「出足は好調だな」


 二人は息もぴったりに、手すりに隠れたところでガッツポーズを決める。

 特にルーカスは、これからなにが起こるかを知っているような、勝利を確信した笑みを浮かべ、舞台に佇むエルマを見守った。


 視線の先では、エルマがゆっくりとした動きで――傍目には一応、恐怖に竦んでいるように見える――、箱の蓋を持ち上げている。

 彼女はそれから、不思議そうに小首を傾げた。


「悪いな、エルマ。箱の中の武器は、ほかの得物にすり替えさせてもらったぞ」

「え!?」


 傍らのイレーネが、ぎょっとしたように振り返る。

 そこまでやるか、とでも思っているのだろう。翡翠の瞳に、強い驚愕の念を見て取ったルーカスは、ばつが悪そうに肩をすくめた。


「必要な措置だ。なにしろ、すり替えでもしないと、あいつは平然とオリハルコン製のカリブルヌスを持ち込むつもりだったようだから」

「……カリブルヌス……?」

「伝説上にしか存在しないはずの名剣だ」


 ルーカスは、用務員としての権限を活かし、エルマが登録した武器の内容を検めたところ、それがとんでもない代物だったのだと説明した。

 「武器の来歴」についての記載事項が、これまたぶっ飛んでいたということも。


「なんでも、『父が散歩中に拾った剣』だそうだ。峻厳な森の最奥で、龍に守られた巨岩に突き刺さった剣を、どうしたら散歩中に引き抜けるんだと思うが、なにしろエルマだ。万が一本当だったら、と思い、すり替えた」

「……ですね」


 イレーネは端的に頷くにとどめた。

 ただでさえ強いエルマに、そんな伝説級の剣など与えたらどうなるか。

 結果は火を見るより明らかである。


 と、武器箱の蓋に手を掛けたところで、エルマが動きを止める。

 しゃがみこみ、小首を傾げたまま動かない彼女に、次第に観客がざわめきはじめた。


 イレーネは、自らも舞台に向かって首を伸ばしながら、隣のルーカスに尋ねた。


「それで、なににすり替えられたのですか?」

「ああ、それは――」


 ルーカスが口を開くのと同時に、エルマがすいと箱から武器を取り出す。

 宙にかざされたそれを見て、観客たちが一斉にどよめいた。


「出刃包丁ーーーーーーーっ!?」


 そう。

 それは、どちらのご家庭にも必ず一本は常備されている、なんの変哲もない出刃包丁だったのである。

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