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13.「普通」の歌声(5)

「――――!?」


 今、この天使のような美少女の、花のように可憐な唇から、とんでもなく俗悪な単語が紡がれた気がする。

 硬直する周囲をよそに、エルマは明らかに怒気をはらんだ声で続けた。


「女性にのみ発現する、四肢の爛れと視細胞の硬直狭窄を主症状とした病。それは、私の知識では、『線虫病』に分類されます。なぜならばその原因は、病原菌でも神の怒りでもなく、ミジンコ糞野郎が植え付けられ、植え付けた、寄生虫だから」

「寄生虫……?」


 呆然と反復する観客たちの前で、エルマはごそごそと布鞄を漁りながら続けた。


「通常、羊やヤギといった家畜の直腸に生息するその寄生虫は、ミジンコ糞野郎の逸脱した性的嗜好によって、男性器を経由し、女性の体内に寄生、成長します。癒術で癒えぬのは、当然のこと。術の発動に不可欠と言われるイメージが、病原菌と寄生虫では大幅に異なるうえに、基本的に聖力とは命を育む力。癒術でいくら体を回復させたところで、寄生虫(げんいん)もまた死滅させられないのだから」

「――…………!」


 明快に解き明かされて、一同が絶句する。


 エルマは、静かにルアーナを見た。

 そして、売女病の名を聞いた途端に、クロエへの嫌悪を示した観客たちのことも。


「おそらくお母君は……、唯一彼女にだけは、原因の心当たりもあったことでしょう。けれどそれを公言することなく、耐え忍んだ。彼女以外に被害者が出なかったのは、彼女が一切ほかの異性と交渉を持たなかったから。そのような女性を、この国では『娼婦』だとか、『あばずれ』と呼ぶのが普通なのですか?」

「…………っ」


 周囲の人間の顔色が変わる。

 特にルアーナのそれは青を通り越し、紙のような白さになっていた。


 エルマの主張が真実なら、――彼女は被害者ではなく、加害者の娘なのだから。


 張り詰めるような沈黙の中、エルマはくるりとクロエに向き直った。

 それから、そっと眉間を開き、まるで聖母のように慈愛深い表情を浮かべた。


「クロエ様、……お辛かったですね」

「――…………」


 予想外の人物からの労りに、再度クロエの瞳が潤む。

 ただしそれは、先ほどまでのものとは、まったく異なる種類の涙であった。


 エルマは優しくクロエの髪を掬い、耳にかけてやる。

 そうして、クロエの腕を取り、彼女の前に置かれていた鉢へと触れさせた。


「ですが、ご安心を。実は私の兄がこの病への特効薬を開発しておりまして、私もレシピを知っております」

「え…………?」

「主原料は奇しくもこの、アローロの樹。この樹液を酸で反応させ、晶析、分離させることで原薬を得られます」

「え…………!?」

「なお、時間の都合上、完成したものがこちらにございます」

「えええええ……っ!?」


 もう、どこからツッコんでいいかわからない。

 布鞄から取り出した小瓶をすちゃっと掲げたエルマの前で、クロエは目をまん丸にして立ち尽くした。


 そして、ただただ、目の前の少女のことを見つめた。


 植物を意のままに操る圧倒的な能力を持ち、クロエが抱えていた悩みを根底から切り崩し、特効薬まで差し出してみせる、人とは思えぬ美貌の少女。

 その姿に、後光が射しているように思ったのは、なにも自分だけではないだろう。


「ど……、どうして……私のことを、……助けてくれるの、ですか……?」


 問いながら、知らずクロエの頬には涙が伝いはじめていた。


「縁もゆかりもない……他国の、ライバルの筆頭とも言われる、私のことを……なぜ……?」


 奇跡だ。

 これは奇跡だ。


 渡された小瓶の、その力強い重みを感じながら、クロエは、この幸運を本当に受け取っていいのかを悩み、問うた。


「なぜ……――?」

「みかじめ料です」

「…………はい?」


 そして戸惑った。


 なんだか、文脈から外れまくった単語を聞いた気がする。


 会話に取り残されたクロエに、エルマはなにを思ったか、爽やかな笑顔を浮かべてみせた。


「失礼、レッスン料のようなものだとお考え下さい。あなた様のお姿に、学ぶところが多くございましたので」

「わ……私なんかから……?」

「ええ。あなた様からは、オーガニック……自然体の大切さを教えていただきました」


 よく――というか、さっぱりわからない。

 自分の振る舞いから、果たしてこの奇跡のような少女が学ぶことなど本当にあるだろうか。


 クロエは混乱しながら必死に考えた。


 いや、それともこれは反語的表現というアレかもしれない。

 理不尽な状況に抗議すらせず、じっと感情を殺して過ごしていた自分を見て、自然に振る舞うことの重要性を再認識した、といった主旨の。


(私はいつも……いろいろなものを、押し殺して、見ない振りをして……そればかりだったから)


 ふと、昨夜ラウルたちと交わした会話を思い出す。

 彼らはクロエのことを優しいと評した。器が大きいとも。


 だが、本当の自分はそんなものではないということは、誰より本人が知っている。


(私はただ……臆病だっただけ。本当は嫌だったことも、争うのが怖くて言い出せずに、じっと黙り込んでいただけ)

「あの……――」


 クロエは意を決して顔を上げる。

 しかし、彼女が口を開くよりも早く、


「――冗談じゃないわよ! ……ぜんぶデタラメよ、詐欺だわ!」


 甲高い女の声が闘技場に響き渡った。

 ルアーナだ。


 彼女は顔を引き攣らせたまま、エルマとクロエを指さして叫んだ。


「みんな、そこのルーデン女に騙されているのよ! だってそうでしょ? あの女が最初にお母様からお父様を奪ったのは事実よ。あの女は汚らわしい売女なの! 加害者はあなたたちで、わたくしたちは被害者! それは、揺るぎない事実なのよ!」


 燃えるような瞳、力強い口調。顔は強張っていてもなお、彼女には年頃の少女以上の迫力がある。

 それにいつも圧倒され、黙り込んでいたのはクロエだ。

 自分だけが我慢すれば、などという自己憐憫に浸かり込み、決して戦おうとしなかった。


「ルアーナ、てめえ……!」

「言わせておけば――」


 血相を変えたラウルとジーノが、今また、クロエをかばおうと前に出る。

 しかしそれを、クロエは初めて自らの意志で制した。


「待って」


 ちらりとエルマのほうを見て、それからルアーナを見据え、息を吸い込む。

 初めて自らの感情を解放する、その心臓が震えるような感覚に、頬が熱くなった。


「――ルアーナ様。私、……あなたのことが、大嫌いです」


 声は思いのほか、凛と響く。

 ルアーナは、まるでか弱いだけの小動物が突如噛んできたとでもいうように、最初、ちょっと目を見開き、それから呆れ笑いの形で吐息を漏らした。


「――……は。そう」

「大嫌い。数少ない私の友達を傷つけた卑劣さも、母のことを口汚く罵るその言葉遣いも、取り巻きをお金で購う嫌らしさも、ずる賢さも、視野の狭さも、ヒステリックなところも、全部」


 ルアーナからしてみれば、妾の子に嫌われたところで、それがどうしたという思いなのだろう。

 だが、クロエにとっては、誰かを明確に「嫌う」ということは――相手を傷つけることも辞さない、その覚悟を決めるということは、大きな、とても大きな決断なのだ。


「死ねばいいとは思わない――それは、やはり思えない。けれど、苦しめばいいと思います。あなたが私を苦しめたのと、同じ分だけ」


 誰かの苦しみを願うことは、恐ろしいことなのだと思っていた。嫌うこともまた。

 卑劣で、残忍で、禁忌。

 相手のことを許せるからではなく、「してはいけないこと」をする自分が許せないから、クロエは抵抗をしなかった。


 けれど、それではだめなのだ。


 だって、実際にルアーナへの怒りは、傷つけられた悲しみは、捌け口を求めて心の底に蠢いていた。

 それを無理やり押し固めたところで、事態は沈静するどころか、悪化しただけだった。


 もっと早くこの怒りに向き合って、ルアーナに対峙し、声を上げていれば。

 もしかしたら、母の病の原因だって、もっと早く解明されたのかもしれない。

 いらぬ不名誉は避けられたのかもしれない。


 自分に必要だったのは、暴れる負の感情を、固い殻の中に押し込めることではなく、きちんと外へ解放してやることだったのだ。


(猛々しい巨木や蔓を制御し、石畳を割り砕いてみせた彼女のように――)


 クロエは、これまで無意識に握りしめていた右の拳を、そっと緩めてみた。

 これまでずっと、感情が溢れそうになるたびに、握り込んでいた拳。


「奇しくも、私たちどちらも、ミジンコ糞野郎の娘ではありませんか」

「…………っ」


 過去にクロエに向けてきた暴言が、倍にもなって返ってくる事態を理解し、ルアーナが青褪める。

 クロエは、愚かなルアーナに微笑みすら浮かべながら、右手の拳から、ゆっくりと親指だけを起こした。


「石を投げられたり、服を裂かれたり、中傷文を仕込まれたり。私、大変な親を持つ娘の苦労というのには、あなたのおかげで随分詳しくなりました」

「…………っ」


 そして、震えるルアーナの前で、


「ですので――地獄の苦しみというものを、ご案内させていただきますわ」


 クロエは、右の親指を地面に向かって振り下ろした。


 ひゅっ、と、誰かが息を呑む音がする。

 繊細で儚げだったクロエから滲む、得も言われぬ迫力。


 やり取りを見守っていたイレーネは、つい呟きを漏らした。


「どうしよう……せ、聖女筆頭候補が……闇堕ちしてしまったわ……っ」


 涙目だった。


「そうでしょうか」

「そうでしょうか、じゃないわよ! どうすんのよエルマ! あんな清純そうな子が……!」

「はて。彼女の心根は、あまり変わっていないように思いますが」


 イレーネにがくがく揺さぶられながら、エルマは首を傾げる。

 それというのも、彼女にだけは、クロエがごく小さな声で付け足した言葉が聞き取れたからだった。


 ――地獄の苦しみというものを、ご案内させていただきますわ……ともに(・・・)、ね。


 クロエは、彼女の言葉の通り、自らもまた加害者の娘であることを理解しているのだ。

 これまでに比べれば、売女病患者やその縁者に向けられる視線は格段に和らぐだろうが、理不尽にも、コンテスティ家当主への非難や攻撃の一部は、クロエにも向けられることになる。

 これから彼女は、それと戦っていくことになるのだろう――ルアーナとともに。


 「でもなにかこう……先ほどまでと比べて、随分芯が強くなった印象はありますよね。微表情的にも」


 ただ、今のクロエならば、適切な怒りをきちんと表し、外と戦っていけるのではないかと、エルマはそんなことを考えた――無論、その変化の原因が自分にあるとは、露にも思わぬ彼女なのだが。


 と、エルマの視線を感じ取ってか、クロエがくるりと振り返る。

 彼女は、そのあどけなく可憐な顔に、凛とした表情を浮かべ、エルマを仰ぎ見た。


「あの――改めて、本当にありがとうございます。申し遅れましたが、私、クロエ・コンテスティと申します。このたびのこと、心から御礼申し上げます」

「いえいえ、手持ちの薬が余っていただけですから」

「いえ、それだけではありません」


 クロエの濃緑の瞳には、それまでのような弱々しさは一切ない。

 代わりに、こちらを射抜くような真っ直ぐさがあった。


 彼女は、あどけない顔にこぼれるような笑みを浮かべた。


「私、ようやくわかったんです。黙っているだけじゃいけない。敵に遭ったら――力一杯踏みにじらなきゃ、って」

「やっぱこの子、闇落ちしてるじゃないのーーー!」


 そばで会話を聞いていたイレーネは、堪らず叫びだし、再度エルマの肩を揺さぶった。


「なんかあどけない微笑みから、真っ黒けっけのオーラが滲み出てない!? 気のせい!? ねえ気のせい!?」

「気のせいではありませんか? イレーネ、後でこの成長した草花を使った料理を作って差し上げますので、どうぞ落ち着いてください」

「そんなのいらな――……いる。それはいる。わかった落ち着く」


 真顔になってぱっと手を離したイレーネに、エルマは温かい表情を浮かべる。


「イレーネって、本当に食べるのが好きですよね……」

「う、うるさいわねっ。あなたの料理を食べると、あらゆるもの思いが吹き飛んでしまうのだもの、しょうがないでしょ!」


 そんなやり取りをしている間も、クロエはにっこりと微笑んでエルマを見つめていた。

 その笑みにどす黒いオーラを感じ取れる気もするが、いや、一心にエルマを見つめる瞳、その目付きだけは、一点の曇りもなくキラキラと輝いている。


 イレーネは、エルマの返事を待ち続けるクロエの姿に、ふと既視感を覚えた。


「ええと、クロエ様、でいらっしゃいますね。ご決心に水を差すようで恐縮ですが、別に私は、敵を踏みにじるだとか、そのような教えを掲げた覚えは――」

「あっ、すみません……! やはり、踏みにじるくらいでは足りませんよね? もっとこう、すり潰したり捩じ切ったり、やりようがありますものね。お恥ずかしいです……」

「え、いえ」


 素直な佇まいでありながら、師匠エルマすら圧倒して暴走してゆくこの気配も、誰かを思い出させる。

 怪訝さに目を細めるイレーネの前で、今度クロエは、そっと頰に手を押し当てた。


「私、もっと精進しなくては。偉大なる師匠たるあなたに、少しでも近付けるように」

「え」

「私、あなたから強さを――ものすごい力をもらったような気がしているんです」


 なんだろう。

 ひたむき、と言えばその通りなのだが、その範疇に収まらないくらいの熱量。


「エルマさん、と仰るのですよね? エルマさんは本当に素晴らしいお方……」

「いえあの、クロエ様? もしもし?」


 やり取りを観察していたイレーネは、あ、と思った。

 誰と似ているのかわかった。


「差し支えなければ――お姉様、と、呼ばせていただいても……?」


 デボラだ。


 うっとりと狂信的な、いってしまっている瞳。

 イレーネが「デボラ()」と名付けた目付きをしたクロエは、いつの間にか神に祈る信徒のようなポーズで、エルマのことを見上げていた。


「あの……」


 しん、と静まり返る闘技場の舞台で、


「そろそろ、この場合の聖女が誰かを判定したいのですが――」


 とりあえず、一度皆さん退場していただけませんか。


 チェルソ枢機卿の、哀しげで弱々しい舞台進行の声が掛かった。

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