<< 前へ次へ >>  更新
83/169

11.「普通」の歌声(3)

 エルマがイレーネに叱り飛ばされ、怪しげな薬品を布鞄にしまい込むのを、ルーカスは厚底眼鏡の奥からほっとして見守っていた。


(でかした、イレーネ)


 内情を知った彼女は、ルーカスの意を汲んで、実に細やかにエルマ無双の阻止に回ってくれる。

 今も、薬品を仕舞わされて不満気なエルマに、滾々とイレーネが説教するのを見て、ルーカスは用務員控え室からこっそりと拍手を送った。


 エルマは常に予測不可能な動きをする。

 いくらルーカスが用務員の身分を生かしたところで、化学薬品などという力技を使われてしまえば、平凡化計画は一気に頓挫してしまうことだろう。


(今回は……今回の任務でだけは、エルマに活躍をさせるわけにはいかない)


 ルーカスは、手すりを握る腕に力を籠め、舞台を見守った。


 と、イレーネに説得されたらしいエルマが、まじまじと隣の候補生――たしかクロエとかいう、聖女筆頭候補と噂される少女だ――を見つめ、なにか納得したように頷く。


 どうやら、化学薬品で聖女的効能を実現するのはやめて、隣人に倣って歌でも歌ってみようと思い立ったらしい。

 軽く喉に触れ、鉢に向かって両手を組むような仕草をした。


(薬に比べれば、まだこちらの方が穏やかか……)


 ルーカスはほっとした思いで、一連の行動を見守る。

 先日、魔蛾の群れを誘惑しおおせたほどのエルマの歌声ではあるが、おそらく今回に限っては、それが結果に結びつくことはないだろう。


(なぜなら……彼女の歌声はおそらく、相手を誘惑し、堕落させる、魔性の(・・・)声だから)


 主神アウレールの庇護の厚いこの地、それも神域に数えられるこの学院において、彼女の能力は弱まっているはずだ。

 じっと息を凝らし、ルーカスは遠くから、闘技場に佇むエルマのことを見つめた。


 彼女は鉢を注視し、なにかを口ずさみはじめている。

 その声は人込みと距離に紛れ、ここまでは届かないが、静かに歌っているのだろうということがわかった。


 が、以前の魔蛾のときとは異なり、鉢に目立った動きはない。

 他者の失敗を喜ぶなど騎士の恥だが、ルーカスはこの時、心底ほっとして、静かに拳を握った。


(よし)


 実は、万全を期して、彼女に渡した鉢の苗は、その根を毟ってある。

 つまりあの鉢に挿されているのは、苗というより草きれ同然。


 一般的に歌を聴かせると植物の発育がよくなるとは言うが、よしんばエルマが魔力ではなく、純粋な癒しの歌声を浴びせたところで、苗が育つことはあるまい。

 もはや、完全に死に絶えた命なのだから。


 エルマは歌い続ける。

 隣の候補生のスタイルを意識してか、両手を組み、いかにも清純な少女のように、そっと唇を動かして歌声を紡いだ。


 美しい音色なのだろう。

 イレーネも、隣の候補生もうっとりとした表情で聞き入っている。


 が、エルマは手ごたえの無さを感じてか、不思議そうに首を傾げた。


(よし、順調に不調だ)


 エルマが歌を中断し、口を閉ざす。

 彼女はじいっと鉢を見つめると、それから周囲をちらっと見まわした。


 エルマとクロエを除いた候補生たちは、もはや鬼気迫ったと形容していい様子で、舞を踊ったり聖言を唱えたりしている。


 中には髪を振り乱している者もあったし、化粧も剥げ、せっかくの衣装がはだけている者もあった。

 それでも能力の制御が難しいのか、彼女たちの鉢は、肝心の苗ではなく、その周囲に生えた雑草が育ってしまっているものが目立った。

 時折、「やだもうっ、雑草じゃなくて苗を育てたいのに……っ」といった、苛立ちの声も聞こえる。


 エルマはそれらを見て、ぽつんとなにかを呟いた。

 読唇術を会得しているわけではないが、ルーカスには、


 ――ぜんたいかん。


 と独白したように見えた。


(全体感……?)


 首を傾げるルーカスをよそに、彼女はなにを思ったか、いきなり眼鏡を外してしまう。


「――…………!?」


 会場のどよめきも気にせず、彼女は顔をごしごしと擦り、その美しい素肌を完璧に露わにしたうえで、さらにはお団子髪に手を差入れ、ばさりとそれを乱した。

 さらには、制服の襟元にも指をかけ、乱す。


「――…………ま……っ」


 白い首と細い肩を覆う、緩く波打つ黒髪。

 夜明けの空のような、不思議な色を湛えた潤んだ瞳。完璧に整った顔立ちの中で、乱暴に擦られた唇だけが妙に紅い。


 そこにいたのは、人目を惹き付けずにはいられない、乱れ髪の少女。

 清楚なはずの白い学生服が、かえって滲み出る色香を引き立てる、魔性のような美少女だった。


「待て……っ、おまえ……――!」


 ガタッと椅子を蹴飛ばして闘技場に向かって駆けつけるも、もう遅い。

 エルマは鉢をすいと見下ろすと、先ほどまでの静かな歌いぶりが嘘だったかのように、ばっと両手を広げた。

 途端に、彼女の醸し出す雰囲気が劇的に変化する。


 そうして、


 ――ああ……!


 まるで舞台上の歌姫のように、大仰な身振りで、髪を振り乱し、壮麗な歌声を披露しはじめた。


 ――来て わたしのもとへ さあ


 いや、それは歌「姫」というよりは、娼婦のような。

 それとも、女王のような。


 艶めかしく、傲岸不遜で、すべてを従えることになんの疑問も抱かぬ力強い声。


 ――はやく もっとはやく さあ


 まるで脳髄を溶かしてしまうような、甘い、甘い、声だった。


 ――……さあ!


 女王の「命令」が響き渡る。

 同時に、ルーカスを含む観衆たちは、奇妙な物音に気が付いた。


 ――ゴゴ……ゴゴゴ……


 歌声ではもちろんない。

 ざわめきでもない、どちらかといえば雷に近いような、


 ――地鳴り。


 次の瞬間、


 ――ドォオオオ……ッ!


「きゃああああああっ!」

「うわああああああっ!」


 轟音とともに、石畳が割り砕ける。

 観客たちは一斉に腰を浮かし、互いに縋り合った。


 咄嗟に獲物を探ったルーカスは、だが目の前のありえない光景に一瞬動きを忘れてしまう。


 石畳の割れた先。

 美しく設えられていた観客席のその周囲。

 わずかに土を覗かせていたその場所から、ありとあらゆる植物が、恐ろしい勢いで成長を続けていた。


 樹が、根が、花が、葉が、蔓が。

 まるで魔獣の躰のように、獰猛さを感じさせる速さで膨らみ、周囲を飲み込んでいく。


 ひときわ巨大な木の根は石畳を真っ二つに横断し、その上を、花をつけた蔓が這う。

 不思議にも人々を避け、石畳を割り砕きながら植物たちが一心に進む先――そこには、エルマの見下ろす鉢があった。


 成長しながら「招集された」植物たちは、まるで統制された兵のように、ぐるりと鉢を取り囲み、そこでぴたりと動きを止める。

 鉢には、いまだ苗がくたりと土に伏したままであったが――それは、草きれというよりはむしろ、沈黙を貫く帝王の亡骸のようにさえ見えた。


 そこに来て、歌っていたエルマはゆるりと両手を下ろし、おもむろに口を開いた。


「――やだもう。雑草(・・)じゃなくて苗を育てたいのに」


 外して、床に伏せていた眼鏡が、なぜだかきらりと光る。

 心なしか、エルマの顔は誇らしげだった。


 彼女はくるりと振り返り、イレーネに向かって眉を上げてみせる。

 その意味は――ああ、不幸にもルーカスと、そしてイレーネにはわかってしまった――、


 これなら、「普通」ですよね。


「――…………っ」

「――…………っ」


 ルーカスと、イレーネが真っ白な顔で拳を震わせる。

 しかもあろうことか、エルマはにこにこと追い打ちを掛けてきた。


「化学薬品を使えば、かなり精度高く苗だけを育てられたのですが、やはり必死さを滲ませたオーガニックな方法で、うっかり他まで育ててしまうというほうが、それっぽくていいですもんね。私、やっとわかった気がします。イレーネ、いつもアドバイスを本当にありがとうございます」


 二人は、己がエルマから化学薬品を奪ったがために、かえって事態を悪化させてしまったことを悟った。

 それにしても、化学薬品に頼らぬ「自然」な方法を取った結果、「超自然的」な現象が引き起こされるのはなぜなのか。

 嫌みか。嫌みなのか。


 あまりに切実な思いが込み上げ、両者とも言葉を詰まらせる。


「――…………ばっ」

「ば?」


 呼吸三つ分ほどの沈黙の、その後。

 奇しくも、イレーネとルーカスはぴったりのタイミングで魂の叫びを上げた。


「ばか――――――――!」

<< 前へ次へ >>目次  更新