11.「普通」の歌声(3)
エルマがイレーネに叱り飛ばされ、怪しげな薬品を布鞄にしまい込むのを、ルーカスは厚底眼鏡の奥からほっとして見守っていた。
(でかした、イレーネ)
内情を知った彼女は、ルーカスの意を汲んで、実に細やかにエルマ無双の阻止に回ってくれる。
今も、薬品を仕舞わされて不満気なエルマに、滾々とイレーネが説教するのを見て、ルーカスは用務員控え室からこっそりと拍手を送った。
エルマは常に予測不可能な動きをする。
いくらルーカスが用務員の身分を生かしたところで、化学薬品などという力技を使われてしまえば、平凡化計画は一気に頓挫してしまうことだろう。
(今回は……今回の任務でだけは、エルマに活躍をさせるわけにはいかない)
ルーカスは、手すりを握る腕に力を籠め、舞台を見守った。
と、イレーネに説得されたらしいエルマが、まじまじと隣の候補生――たしかクロエとかいう、聖女筆頭候補と噂される少女だ――を見つめ、なにか納得したように頷く。
どうやら、化学薬品で聖女的効能を実現するのはやめて、隣人に倣って歌でも歌ってみようと思い立ったらしい。
軽く喉に触れ、鉢に向かって両手を組むような仕草をした。
(薬に比べれば、まだこちらの方が穏やかか……)
ルーカスはほっとした思いで、一連の行動を見守る。
先日、魔蛾の群れを誘惑しおおせたほどのエルマの歌声ではあるが、おそらく今回に限っては、それが結果に結びつくことはないだろう。
(なぜなら……彼女の歌声はおそらく、相手を誘惑し、堕落させる、
主神アウレールの庇護の厚いこの地、それも神域に数えられるこの学院において、彼女の能力は弱まっているはずだ。
じっと息を凝らし、ルーカスは遠くから、闘技場に佇むエルマのことを見つめた。
彼女は鉢を注視し、なにかを口ずさみはじめている。
その声は人込みと距離に紛れ、ここまでは届かないが、静かに歌っているのだろうということがわかった。
が、以前の魔蛾のときとは異なり、鉢に目立った動きはない。
他者の失敗を喜ぶなど騎士の恥だが、ルーカスはこの時、心底ほっとして、静かに拳を握った。
(よし)
実は、万全を期して、彼女に渡した鉢の苗は、その根を毟ってある。
つまりあの鉢に挿されているのは、苗というより草きれ同然。
一般的に歌を聴かせると植物の発育がよくなるとは言うが、よしんばエルマが魔力ではなく、純粋な癒しの歌声を浴びせたところで、苗が育つことはあるまい。
もはや、完全に死に絶えた命なのだから。
エルマは歌い続ける。
隣の候補生のスタイルを意識してか、両手を組み、いかにも清純な少女のように、そっと唇を動かして歌声を紡いだ。
美しい音色なのだろう。
イレーネも、隣の候補生もうっとりとした表情で聞き入っている。
が、エルマは手ごたえの無さを感じてか、不思議そうに首を傾げた。
(よし、順調に不調だ)
エルマが歌を中断し、口を閉ざす。
彼女はじいっと鉢を見つめると、それから周囲をちらっと見まわした。
エルマとクロエを除いた候補生たちは、もはや鬼気迫ったと形容していい様子で、舞を踊ったり聖言を唱えたりしている。
中には髪を振り乱している者もあったし、化粧も剥げ、せっかくの衣装がはだけている者もあった。
それでも能力の制御が難しいのか、彼女たちの鉢は、肝心の苗ではなく、その周囲に生えた雑草が育ってしまっているものが目立った。
時折、「やだもうっ、雑草じゃなくて苗を育てたいのに……っ」といった、苛立ちの声も聞こえる。
エルマはそれらを見て、ぽつんとなにかを呟いた。
読唇術を会得しているわけではないが、ルーカスには、
――ぜんたいかん。
と独白したように見えた。
(全体感……?)
首を傾げるルーカスをよそに、彼女はなにを思ったか、いきなり眼鏡を外してしまう。
「――…………!?」
会場のどよめきも気にせず、彼女は顔をごしごしと擦り、その美しい素肌を完璧に露わにしたうえで、さらにはお団子髪に手を差入れ、ばさりとそれを乱した。
さらには、制服の襟元にも指をかけ、乱す。
「――…………ま……っ」
白い首と細い肩を覆う、緩く波打つ黒髪。
夜明けの空のような、不思議な色を湛えた潤んだ瞳。完璧に整った顔立ちの中で、乱暴に擦られた唇だけが妙に紅い。
そこにいたのは、人目を惹き付けずにはいられない、乱れ髪の少女。
清楚なはずの白い学生服が、かえって滲み出る色香を引き立てる、魔性のような美少女だった。
「待て……っ、おまえ……――!」
ガタッと椅子を蹴飛ばして闘技場に向かって駆けつけるも、もう遅い。
エルマは鉢をすいと見下ろすと、先ほどまでの静かな歌いぶりが嘘だったかのように、ばっと両手を広げた。
途端に、彼女の醸し出す雰囲気が劇的に変化する。
そうして、
――ああ……!
まるで舞台上の歌姫のように、大仰な身振りで、髪を振り乱し、壮麗な歌声を披露しはじめた。
――来て わたしのもとへ さあ
いや、それは歌「姫」というよりは、娼婦のような。
それとも、女王のような。
艶めかしく、傲岸不遜で、すべてを従えることになんの疑問も抱かぬ力強い声。
――はやく もっとはやく さあ
まるで脳髄を溶かしてしまうような、甘い、甘い、声だった。
――……さあ!
女王の「命令」が響き渡る。
同時に、ルーカスを含む観衆たちは、奇妙な物音に気が付いた。
――ゴゴ……ゴゴゴ……
歌声ではもちろんない。
ざわめきでもない、どちらかといえば雷に近いような、
――地鳴り。
次の瞬間、
――ドォオオオ……ッ!
「きゃああああああっ!」
「うわああああああっ!」
轟音とともに、石畳が割り砕ける。
観客たちは一斉に腰を浮かし、互いに縋り合った。
咄嗟に獲物を探ったルーカスは、だが目の前のありえない光景に一瞬動きを忘れてしまう。
石畳の割れた先。
美しく設えられていた観客席のその周囲。
わずかに土を覗かせていたその場所から、ありとあらゆる植物が、恐ろしい勢いで成長を続けていた。
樹が、根が、花が、葉が、蔓が。
まるで魔獣の躰のように、獰猛さを感じさせる速さで膨らみ、周囲を飲み込んでいく。
ひときわ巨大な木の根は石畳を真っ二つに横断し、その上を、花をつけた蔓が這う。
不思議にも人々を避け、石畳を割り砕きながら植物たちが一心に進む先――そこには、エルマの見下ろす鉢があった。
成長しながら「招集された」植物たちは、まるで統制された兵のように、ぐるりと鉢を取り囲み、そこでぴたりと動きを止める。
鉢には、いまだ苗がくたりと土に伏したままであったが――それは、草きれというよりはむしろ、沈黙を貫く帝王の亡骸のようにさえ見えた。
そこに来て、歌っていたエルマはゆるりと両手を下ろし、おもむろに口を開いた。
「――やだもう。
外して、床に伏せていた眼鏡が、なぜだかきらりと光る。
心なしか、エルマの顔は誇らしげだった。
彼女はくるりと振り返り、イレーネに向かって眉を上げてみせる。
その意味は――ああ、不幸にもルーカスと、そしてイレーネにはわかってしまった――、
これなら、「普通」ですよね。
「――…………っ」
「――…………っ」
ルーカスと、イレーネが真っ白な顔で拳を震わせる。
しかもあろうことか、エルマはにこにこと追い打ちを掛けてきた。
「化学薬品を使えば、かなり精度高く苗だけを育てられたのですが、やはり必死さを滲ませたオーガニックな方法で、うっかり他まで育ててしまうというほうが、それっぽくていいですもんね。私、やっとわかった気がします。イレーネ、いつもアドバイスを本当にありがとうございます」
二人は、己がエルマから化学薬品を奪ったがために、かえって事態を悪化させてしまったことを悟った。
それにしても、化学薬品に頼らぬ「自然」な方法を取った結果、「超自然的」な現象が引き起こされるのはなぜなのか。
嫌みか。嫌みなのか。
あまりに切実な思いが込み上げ、両者とも言葉を詰まらせる。
「――…………ばっ」
「ば?」
呼吸三つ分ほどの沈黙の、その後。
奇しくも、イレーネとルーカスはぴったりのタイミングで魂の叫びを上げた。
「ばか――――――――!」