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10.「普通」の歌声(2)

(今日が過ぎれば、こんな日々も終わるのかしら……)


 クロエは、手渡された鉢の苗を見つめながら、ぼんやりと考えた。


 国樹としてアウレリア中に根を張るアローロの苗は、しかし幹となるべき部分を執拗に傷つけられ、力なく土に倒れている。

 さりげなく周囲を見渡す限り、それほどに手ひどく傷つけられている苗はない。

 恐らくは、クロエたちの師、グイドの存在を煙たがっている一派の仕業――


(……では、ないでしょうね……)


 自らの考えを即座に打ち消して、クロエは苦々しく笑った。


 俯いていても感じる、敵意。

 聖女筆頭候補として、クロエは入学以降数々の視線に晒されてきたが、こんなにも憎しみの籠もったものは他にない。

 正体は、考えるまでもなく明らかだった。


(ルアーナ様は……そうまでして、私を排除したいのね)


 ルアーナ。正式な名を、ルアーナ・コンテスティ。

 アウレリア国内で権勢を誇るコンテスティ商会の娘で、クロエと同じ父を持つ――腹違いの姉だ。

 クロエの母は元はコンテスティ家の侍女で、その美貌から、コンテスティ家当主アロルドの御手付きとなったのである。


 が、同じ年に生まれた異母妹のことを、ルアーナは決して快く思っていない。

 聖女筆頭候補という地位にありながら、クロエとその母の家がいまだに治安の悪い片田舎にあるのは、ひとえにルアーナがクロエのコンテスティ家入りを拒否しているがためだ。


 いや、拒否するくらいならともかく、彼女の敵意は鮮明で、クロエに持ち込まれる養子縁組の誘いや、縁談、留学、奨学金、その他あらゆる幸福への手掛かりを、ことごとく妨害してくるのである。


 その手法も、針を仕込んだり服を裂いたりといった直接的なものから、悪意ある噂の流布や、周囲への攻撃など、精神を苛むものまで多岐にわたる。


 以前、気さくに声をかけてくれたクラスメイトの一人が、暴漢に襲われかけたと聞いてから、クロエは自分と同格か、それ以上の能力の持ち主としか友誼を結ばないことを決めていた。


 結果、友人と呼べる存在は、圧倒的な聖術と貴族の身分で他者を寄せ付けないラウル、そして、貴族令嬢の嫌がらせなど歯牙にもかけない下町出身のジーノ、その二人くらいのものである。


(あの二人なら大丈夫と、思っていたけど……)


 クロエが彼らに寄せる信頼は厚い。

 だが、ルアーナは策を練り、その二人までも巻き込むような行動に打って出た。


 クロエはきゅっと握った拳で、無意識に胸元を押さえ込む。

 そこには、先日、ルアーナが突きつけてきた契約書が忍ばせてあった。


 ――よくって、売女の娘さん。

   あなたの行動次第で、お友達がトリニテートの栄光を掴むか、うらぶれた元候補生の一人に成り下がるのかが決まるのよ。


 嫌らしく吊り上がった、紅を塗りたくった唇を思い出す。

 ルアーナが持ちかけた内容は、こうだった。


 クロエはトリニテート入り――聖女部門優勝を辞退せよ。そうすれば、ラウルとジーノのトリニテート入りを全面的に支援する。

 逆にクロエが聖女になったならば、内定後に「売女病」のことを周囲に言いふらして、トリニテートの成立ごと妨げてやる、と。


 売女病とは、アウレリア国内で時折見かけられる、手指の爛れと目の異常を主症状とする病だ。

 進行すれば失明すら免れない、恐ろしい病。

 それに、クロエの母が罹患してしまったのである。


 この病は女性、特に身持ちの悪い商売女にばかり発現し、アウレリアが誇る高水準の癒術でも快癒が難しいことから、聖力を退ける不徳の病――即ち、売女病などという蔑称で呼ばれる。

 聖女信仰が盛んで、女性の貞潔を尊ぶアウレリアの民からすれば、恥ずべき病であり、治療を受けるのも困難だというのが現実であった。


 クロエの母、ゾーエは、ただでさえ囲われ者。

 世間体の悪く、しかも快癒の見込みのない売女病に罹った彼女を診てくれる聖医導師は少ない。

 クロエが持つのも「治癒」ではなく「育成」、それも植物を主な対象とした能力に過ぎず、治療には役立たない。


 病が病であるだけに、ラウルなど聖術師たる友人に内実を明かして頼ることもできず、結局、クロエたちは、細々とした内職で医療費を賄いつつ、コンテスティ家の援助を当てにせざるをえないのであった。


(敬虔なアウル教徒の多いアウレリア国内で……それも聖女の母が売女病だなんて……だめだわ、露見すれば確実に、私は聖女の座を引きずり落とされることになる)


 最初から聖女になれない、というならまだましだろう。

 問題は、トリニテートの一人に内定した後に、ゾーエの病が発覚することだ。

 トリニテートは、聖女、聖剣士、聖術師の三人が揃って初めて成立する。

 聖女が不適合者だったので、補欠を繰り上げました、とはいかないのは、三十年前の一件を見ても明らかだ。


(グイド先生は、元は聖剣士に内定されていた。でも、当時の聖女が亡くなったせいで、トリニテート自体が成立せず、身分を持て余して学院教師に身を落とすことしかできなかった……)


 その後、学院で教鞭を揮うことの重要性に気付いた枢機卿の一部が、グイドに倣って続々と学院入りした結果、グイドの教師転向は、今ではだいぶ自然なことと受け止められている。

 が、長く聖剣士としての立身出世を望んでいた男が、突如学院という閉じた世界に押し込められるのは、ずいぶんな挫折感があったろう。

 現に、周囲もグイドに対して、腫れ物に触るような態度をとることが多い。


(ラウルくんも、ジーノくんも、お情けでもらえる枢機卿の地位や、腫れもの扱いの学院教師の座なんて望んでいない。ふたりが望んでいるのは、あくまでもトリニテートという、至高の権力であり、身分――)


 昨夜交わした会話を思い出し、クロエはそっと眉を寄せる。

 二人には、叶えたい夢、燃える野望、それに向けた溢れんばかりの情熱がある。

 それを自分が妨げることは、絶対にあってはならない。


 ルアーナの持ちかけた契約の巧みなところは、クロエの聖女辞退を条件に、ゾーエの治療の継続だけでなく、ラウル、ジーノへの支援を約束したところだろう。


 貴族であるだけにしがらみの多いラウルと、下町出身であるだけに枢機卿たちからの支援を得にくいだろうジーノ。

 権威あるコンテスティ商会の後押しがあれば、二人とも、スムーズにトリニテート入りがなされるはずだ。


(私さえ引けば……ラウルくんも、ジーノくんも、夢を叶えられる……)


 押さえた胸元で、かさりと紙の擦れる音がする。


 結局、クロエは、ルアーナが突きつけた契約書にサインしたのだ。

 彼女たちがそれぞれ一部ずつを保有するその契約書は、聖なる世界樹の繊維から作られたもので、書かれた内容は絶対となり、契約者を縛る。

 契約を反故にしようものなら、クロエの人生にはあらゆる禍が降ってかかるだろう。


(それも、今日まで。こうして、なにもせずにぼんやりと立っていれば……すべて、済む)


 クロエは、目の前の鉢をぼんやりと見つめ、小さく「ごめんね」と呟いた。

 自分のせいで傷を付けられ、すっかり地に伏した苗の姿が、見ていて苦しかった。


「――もう! いったいなにをしているのよおおおお!」


 ところが、そんなクロエを叱り飛ばすかのように、鋭い怒声が響いた。


 すぐ隣――闘技場の一番端に陣取った、ルーデンからの候補生、その侍女である金髪の少女だ。

 一応声は潜めているようだが、主人であるはずの黒髪の少女の胸倉を掴み上げんばかりに詰め寄っている。


 クロエは思わず、耳を澄ませてしまった。


「だから! エルマ! 平凡! 平凡よ!? この流れでどうして神妙に、怪しげな薬品の数々を取り出すのよ!」

「怪しげとは失礼な。これは兄直伝の、あらゆる植物を死細胞からでも急激修復し、同時に葉緑体に働きかけて光合成と成長を爆発的に促す薬品で――」


 飄々とした様子で語る少女の名は、そう、たしかエルマというのだった。

 昨日の控え室での一件、そして恩師グイドの警戒から、クロエもまたちらちらと視線を向けてはいたのだが――やはり、その姿は地味で、冴えない少女にしか見えない。


 本当に彼女が、四方向からの聖術をさらりと躱し、元聖剣士グイドをもって「実力がわからない」と言わしめたほどの人物なのだろうか。


 ルアーナとのいざこざも一瞬だけ忘れ、クロエはそんな疑問を胸に抱いたが、いやしかし、少女から放たれる言葉の数々は、たしかに耳慣れぬ単語に満ち、そして奇妙な迫力を湛えていた。


「だからね!? 急激とか! 爆発的とか! 明らかに平凡ルートから両足踏み外してるでしょうが! 本当に周囲を見回してその判断なの!?」

「いえだって……、皆さま、めいめい最善を尽くしておられるようなので、聖力に心もとない私としては、己の出来る最善の方法を取ろうと……それが『普通』なのかと――あっ、イレーネ、なにを」

「おバカああああ!」


 イレーネというらしい侍女は、激高したのか、エルマの握っていたガラスの瓶を奪い取り、素早く蓋を外して床に向かって投擲した。

 ガラス瓶が石畳に触れる前に、エルマが素早く両手で瓶と蓋のそれぞれを掴み取ったが――恐るべき反射神経だ――、わずか一滴、瓶の中で波打った液体が、ぴっと跳ね飛んでしまう。


 その滴は、本当に偶然、クロエが見つめていた鉢の中に落下した。


(え……?)


 一瞬、鉢の中の土が震えたように思えて、思わず目を擦る。

 そのさらに次の瞬間には――土に倒れていたはずの苗が、みるみる茎を太らせ、ぴんと葉を左右に張り出した。


(ええええええええええええっ!?)


 思わず、心の内で絶叫する。いや、一部は口や鼻から漏れ出て、「ふす……っ!?」と奇妙な音を奏でた。


(な……っ!? え!? えええっ!? ええええええっ!?)


 そんなまさか。

 聖力もなしに、どうしてここまで生命が回復するのだ。


 アウレリアは、他国に比べ聖医導師の数に恵まれているぶん、逆に医学や科学の水準は低い。

 目の前で起きた現象は、「薬を与えたら緑が元気になりました☆」で済ませるには異常極まりなく――いや、間違いなく、医療科学先進国であっても異常だと思うのだが――、クロエはその濃緑の瞳を見開いて、まじまじと隣人を見つめてしまった。


(や……薬品というのは、ルーデン独特の言い回しで、本当は聖水……いえ、霊薬(エリクサー)だったりするのかしら……?)


 そう考えれば、まだしっくりくる。


「こんな薬品を用意して臨むなんて、どれだけやる気満々だったのよあなたは!」

「え、でも、その日の気分に合わせて 、薬品の小瓶の二、三は、鞄に忍ばせておくものではございませんか?」

「香水瓶じゃないのよ!? っていうか神聖なこの場、この局面で、人工感ばりばりの化学薬品持ち出してくるの、あなたくらいだからね!? ほら、その不穏な瓶を早く仕舞って! 周囲を見るのよ、わかってる!?」

「周囲……」


 横ではまだ、早口の会話が小声で展開されていたが、クロエはそれを衝撃のあまりぼんやりと聞き逃し、ぎこちない動きで鉢に向き直った。


 すっかり完全な葉の形を取り戻し、つやつやと陽光を弾き返している苗。

 なんだか苗が快哉を叫んでいるような幻覚さえ抱いて、クロエは思わず、「よかったね……」と呟いてしまった。


 植物に愛されやすい体質。

 恩師グイドやラウルたちの言う、「希代の育成能力がある」というのには正直自信がないが、土に触れたり、緑を育むことが好きなこと自体は、事実だ。


「――『光あれ 茂れる葉の そのあわいに』……」


 ほんの一節だけ、口ずさむ。

 謝罪と、感謝と、祝福と。

 元気に回復した苗を前に、素直な感情が紡いだ、素朴な歌だった。


 すると。


 ――ふわ……っ


「――…………!?」


 いつになく強い光が鉢の周囲に溢れ、思わず肩を揺らしてしまう。

 硬直するクロエの前で、苗は音が鳴りそうなほど勢いで背丈を増し、胴を太らせ、あっという間に鉢を砕き割らんほどの若木へと成長した。


「おお……!」

「一瞬で若木になったぞ! すげえ……!」


 観客たちがどよめくのが聞こえる。いや、クロエ自身もかなり動揺していた。


 植物の育成を促す己の歌声。

 しかし、こんなに劇的な効果を見たのは初めてだ。


「――歌声で育成。なるほど」


 と、左隣から涼やかな声が聞こえる。

 群集の声をかき分けるように、すっと耳に滑り込んできたその音に、ついクロエが惹かれて振り返ると、視線の先で、眼鏡姿の少女がおもむろに頷いていた。


「イレーネ、私、ようやくわかりました。やはり時代は、――オーガニックですよね」

「……………………はい?」


 奇しくも、イレーネなる侍女と、声が重なる。

 そしてその後――クロエは、奇跡を、見た。

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