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7.幕間(1)

 聖鼎杯初日の、夜。


 実質的には前夜祭の位置づけとなるこの時間、円形闘技場は民に開放され、文字通りのお祭り騒ぎが繰り広げられていた。


 神に捧げるための聖酒を飲み交わし、讃美歌を陽気に歌い、隣人と肩を叩き合う。

 敬虔な信徒の多いアウレリアにおいて、日頃は眉を顰められるこれらの行いも、この聖鼎杯の期間だけは、すべて神に感謝を示すためのものとされ、許容されるのだ。

 聖鼎杯とは、彼らにとってそれほど特別な儀式であった。


 一方、参加する側である候補生――学生たちはといえば、翌日から始まる武闘会本番に備え、開会式を終えた後は、学生寮に戻る者がほとんどだ。


 彼らは翌日に備え、多くは早々に寝台にもぐり込んでしまうため、この日付が変わる時間帯ともなると、寮内はしんと静まり返っていた。


 そんな中、燭台の細い光を片手に、外廊下を歩く人物が、一人。

 闇にあっても物おじせずに歩みを進める金髪の少女――イレーネである。


 彼女はやがて、敷地の外れにある薪舎にたどり着き、右から三つ目の扉を確認すると、それを静かにノックした。


「もし。部屋の薪が切れてしまって、主人が眼鏡をナノクリーニングするのに難儀しているのですが」

「眼鏡が。それは大変ですね、ただいま」


 とりあえず文章に「眼鏡」の語を混ぜる、というのが、イレーネたちの決めた合言葉だ。

 すぐに冴えない眼鏡の用務員――の姿をしたルーカスが扉を開けてくれたので、イレーネはするりと薪舎の一室に潜り込んだ。


 それから、燭台を手近な床に置くと、ルーカスに向かって恭しく一礼した。


「お呼びでしょうか、殿下?」

「今更取って付けたように畏まられてもな。いい、もはや改まった言葉遣いもいらん」


 ルーカスは暑苦しい鬘と眼鏡をむしり取り、ばさりと髪を掻き上げると、ようやく落ち着いたように薪の山に腰を下ろした。

 突然の美男の出現である。


 密室に、水も滴る色男と二人きりという状況だが、なんといっても、イレーネは「ふす!」と相手を爆笑してしまった後だ。

 ときめきよりも、何度見ても鮮やかなビフォーアフターへの感動を覚え、しみじみと溜息を漏らした。


「本当に……美醜のすべてを無意味化する、なんて力を秘めた眼鏡かしら。もしかしてあの子が見ている世界とは、こんなものなのでしょうか」

「……恐ろしい可能性を突きつけないでくれるか」


 自分の甘いマスクが、エルマにまったく通じていない可能性を指摘されて、ルーカスがわずかに声を低める。

 が、彼は軽く頭を振って、思考をすぐに切り替えると、真剣な顔で口を開いた。


「さて。呼び出してすまないが、おまえに頼みがある」

「お任せください。エルマのスリーサイズなら既に聞き出しておりますわ。上から――」

「違う。待て、おまえはいったい俺のことをなんだと思っているんだ」


 きりっとメモを取り出したイレーネを制し、ルーカスは天を仰ぐ。

 それから苦虫をかみつぶしたような顔で、イレーネにも腰を下ろすよう告げると、しっかりと視線を合わせた。


「頼みたいのは、もっと別のことだ。……明日から本番を迎える聖鼎杯で、エルマが今日のような『活躍』をしてしまわないよう、協力してほしい」

「活躍をせぬよう、協力……」


 怪訝そうに反復してみせたイレーネに、ルーカスは頷き、説明を補足した。


「具体的には、聖鼎杯で三部門とも頂点を極める、などといった異常事態を阻止してほしい。聖鼎杯の結果には関わらずとも、人心に強い印象を残す今日のような事態も、できれば阻止したい。協力してくれないか、イレーネ」

「それは、あの……」


 真っすぐ見つめられたイレーネは、困惑も露わに、おずおずと聞き返す。


「『トリニテートを獲ってこい』という、陛下のご命令に逆らう……ということです、よね?」

「…………」


 押し黙ったルーカスに、イレーネは慌てたように両手を突き出した。


「いえ、殿下が仰るのですから、なにか事情があるのでしょうし、私としても陛下よりは、殿下の命に従いたく存じます。それで今日も、なにかおかしいなとは思いつつ、あの場で殿下に同調したわけですし」


 エルマに、「優勝するな」「むしろ凡人に徹せよ」と説いたあの時のことだ。

 やはり、こちらの意図を汲んでのことだったかと、ちらりと視線を上げたルーカスに、イレーネは戸惑いがちに頷いてみせた。


「あのとき私は、外国人の我々がアウレリアの象徴を獲ってはいけないとか、殿下がそうした政治的配慮をしているのかなと思ったんです。あるいは、あの子が本気を出すと、聖鼎杯どころじゃない被害が起こりそうだから、苦労性まじめ微受けポジの殿下が止めざるを得ない、といいますか……」

「待て、なんだその呪文のような不思議な属性は」

「だから私もフォローはしましたが……でも」


 ルーカスの突っ込みについてはさらりと躱しつつ、イレーネは一度きゅっと両手を握り合わせた。

 次いで彼女は、ぱっと顔を上げる。


「やはり、国王陛下のご命令に背いてまで優勝を避けよというのは不思議です。しかも殿下は、優勝どころか、活躍そのものを回避せよと仰る。できれば……理由についても、お教えいただけませんか?」


 そうして、真っすぐに相手を見つめ返した。

 ルーカスはその視線を受け止め、しばし口を閉ざす。


 じじ、と燭台の炎が揺れる音だけが、二人の間に響いた。


「――……今から話すことを、決して外には漏らさないと、誓えるか?」


 やがて、低い声でルーカスが切り出す。

 恐ろしいほどに真剣な顔だった。


 イレーネは無意識に喉を鳴らし、「……は、い」と答え、声が震えていることに気付き、慌てて言い直した。


「はい。誓います」


 ルーデン一の色男。

 女たらしで、気さくで、最近では苦労性な一面ばかりが目立つ彼だが、やはり、若くして騎士団中隊を束ねる男であり、民を束ねる王族の一員なのだと、改めて思い知らされるようだ。


 ルーカスはしばし言葉を探すように視線をさまよわせたが、やがてばさりと髪を掻くと、溜息とともに、端的に告げた。


「――エルマは、おそらく魔族だ」

「…………!」


 イレーネが息を呑む。

 ルーカスは足を組みかえると、口の端を軽く持ち上げた。


「厳密には、魔族の生き残りか、またはその娘だ。圧倒的な美貌、膂力、能力。これまでにも『人とは思えない』と形容されることが多かった彼女だが、先日、とうとう義兄上はエルマが魔族であることを断定した。クレメンス元侯爵の断罪に際し、囚人たちの罪状が真実であるかをひとつひとつ洗っていたが――最も冤罪臭のする『魔族の子を宿した』という娼婦。彼女が、真に有罪であることが判明したからだ」


 フェリクスは愚鈍な王の仮面をかぶった傍らで、ヴァルツァー監獄に収容される囚人たちの裁判履歴を、丁寧に遡っていた。

 当時の証言、提出された証拠、状況。十五年以上前のものについての作業は難航を極めたが、それでも彼は、彼の納得する真実が見極められるまで、時間を掛けてそれらを調べた。


 魔族と番ったというその娼婦――ハイデマリーの、その腹を見たという娼館通いの町医者。当時の同僚。ハイデマリーが袖にしたという属国の王族。

 その他関係者と思われる者を片っ端から連行し、自白剤や催眠まで用いて当時の状況を再現した。

 そして、彼女の腹にはくっきりと、邪悪な形の痣が浮かんでいたと――彼女は本当に、魔族の子を宿していたとの結論を得たのである 。


「年齢と照らし合わせても、その腹の子とはエルマのことだ。特異な身体能力も、魔族ゆえと言われれば説明が付く。つまり……エルマは、魔族、ないし、魔族の血縁者だ」

「…………」


 イレーネはじっと黙り込んだ後、ぽつんと呟いた。


「なにかこう……」


 それから、微妙な表情で続けた。


「それがなに、というか……ものすごい、今更感がありません? こう……エルマって実は魔族だったんだよ! と言われても、あー、やっぱりー? 知ってたー、みたいな……」

「…………言うなよ。同感だ」


 ルーカスは心持ちげんなりした顔になると、膝に突いた両手に頭をうずめた。


「あいつのこれまでの所業を思えば、正体が魔族だとわかっても全く驚かないというか……むしろ、魔族だからあんななのか、と腑に落ちてほっとするというか……我ながら感覚が麻痺しているとしか思えんが……」

「ですよね……」


 神妙にイレーネが頷くと、ルーカスは「だが」と身を起こした。


「その感覚は、いささか麻痺が過ぎていたようだ。俺たちは、あいつが善良な精神の持ち主であることを知っているが、一般的な民からすれば、魔族とは未だに恐怖の対象であり、攻撃の対象だ」

「……正体が判明すると、エルマが民衆から迫害されると?」

「いや……」


 ルーカスは苦々しい表情を浮かべ、親指で唇を擦った。


「むしろ逆だ。……エルマは、このままでは、義兄上に徹底的に搾取される」

「搾取……?」


 不穏な単語に怯えたように、ゆらりと炎の影が揺れる。

 続く声もまた、物憂げだった。


「……義兄上はあの通りの御方だ。自らの臣下が、たとえ魔族だろうが親の仇だろうが興味はない。関心があるのはただ一点。相手が、自分にとって――あるいはルーデンにとって、有益か否かだ」

「有益……」

「ああ。それでいくと、図抜けた能力と、不死身に近い強靭な肉体を持つという魔族の臣下(エルマ)は、むしろ好ましい限りだろう。実際、義兄上はエルマの有用性(・・・)に気付いてからというもの、無茶な任務を与えてばかりいる」


 これまでにエルマが巻き込まれた数々の任務を思い出したのか、ルーカスの表情はますます険しくなった。


「結果はいつも上々。義兄上は大満足だ。任務を通じて実利を得るというのもそうだが、おそらくあれは、同時に彼は、冷静に検証(・・)しているのだと思う。どこまでエルマは有益たりえるのかと」

「そんな……」

「折しも、エルマが魔族の娘だということが判明した。となると、その検証はますますとどまるところを知らない。魔を疎む領地(フレンツェル)に放り込んだらどうなるのか? 魔を焼き払うという聖域(アウレリア)に放り込んだら? ――そう。今回の任務は、おそらくその検証が主眼だ」


 イレーネの目が大きく見開かれた。


「魔を、焼き払う……。アウレリアは聖なる土地だから、ということですか?」 

「ああ。アウレリアはアウル教発祥の地。この国には、至る所にルーデンの比ではないほどの聖堂がある」

「そしてそこには、かつて魔族を絶滅に追いやった聖剣や、聖具が数多く収められている……。つまり、強力な聖域ということですね」


 アウレリアについての情報を引っ張り出しつつ、イレーネが相槌を打つ。

 ルーカスは、彼女が意外なほどアウレリアに詳しいことに内心驚きつつ、静かに頷いた。


「その通りだ。そして、聖域に近付けば近付くほど魔族の体には負荷がかかるのだという」


 説明を聞き、イレーネははっとして唇に手を当てた。


「そういえばあの子……今日、妙に調子が悪いと……」


 ルーカスもまた顔を険しくする。

 そして続けた。


「学院に踏み入った初日で、これだ。数日逗留すれば、さらに体調は悪化するかもしれない」

「それに、トリニテートの表彰式は、最終日に、最も聖力に満ちた聖堂で、強力な聖具を使いながら表彰されるといいますわね。エルマがもしそれに接してしまえば……あの子はさらに、追い詰められてしまうかもしれない、ということですか……?」

「ああ。それはなんとしても避けねばならない。そして――それ以上に避けたいのは、エルマが聖域でも活躍できると、証明してしまうことだ」


 その先にどのような事態が待ち受けているのかを、イレーネは理解できてしまった。


「たとえ満身創痍であっても、聖域で……つまり相当な逆境で働けるとわかれば、陛下はさらなる『検証』を行うおつもりなのですね?」

「……彼には、エルマが少女の形をした兵器にでも見えるらしい。最終的には、戦場に放り込もうと考えているようだ。エルマは聡いが、妙に世間知らずなところがある。微表情の解読や演技はできても、根が純粋だ。『普通』の切り札をかざして、嫌らしい手練手管を使う義兄上に、うっかり騙されることは十分にありえる。……それは、なんとしても避けたい」

「……もしや、出発前に、陛下と口論されていたのはそのことで……?」


 ふと気付いたイレーネがおずおずと問うと、ルーカスはわずかに目を逸らして答えた。


「……一発殴っただけだ」

「……わぁお」

「好ましく思う女が戦場に放り込まれるのを、はいはいと喜んで見送る騎士がいるものか」


 端正な顔が、ふてくされたような表情を浮かべる。

 短絡的な言動であるようだが――恐らくは、そうした性質こそが、彼が民や騎士団の団員たちから慕われている要因なのだ。


 イレーネはひっそりと苦笑を浮かべると、やがて頷いた。


「わかりましたわ。つまり私は、エルマが明日以降こそは大人しくしてくれるよう、思いつくすべての手段を講じればよいのですね」

「ああ。特におまえには、エルマが気を許す友人として、説得や刷り込みを頼みたい。できるか?」


 ルーカスが問うと、イレーネは器用に片方の眉を上げてみせた。


「曲がりなりにも王宮に勤める一員でありながら、国王陛下の命を裏切り、任務が失敗するよう立ち回る。そんな不遜で恐れ多いこと、――私以外のどんな婦女子ができると言いますの?」


 燭台の光を受けて、猫のような翠の瞳がきらりと光った。

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