6.「戦車」逆位置
「戦車、逆位置」
ハイデマリーの白い指先が優雅に動いて、一枚のカードをめくった。
十字に並べられたカードの、ちょうど中心に位置する札だ。
上下が逆さになったその表面には、黒と白の
王子は若く、きりりと引き締まった表情で前方を見つめ、またがる戦車も豪華な仕立てである。
見るからに力強さを感じるカード。
しかし、占いの類を「女子どもの遊び」と片付けてきたクレメンスは、それにどう反応してよいのか悩み、眉を寄せた。
「……どういう意味だ」
「正位置、つまり上下が正しい向きであれば、見た通りよ。力強く前に進む戦車――事態の前進、行動力、力強さ、スピード……」
ただし、とハイデマリーは不思議な笑みを浮かべて呟いた。
「今回は逆位置ね。あの子ったら、もう」
もう、と言われても、クレメンスには何を責められているのかわからない。
怪訝な顔でいると、横からひょいと顔をのぞかせたリーゼルが、興味深げにタロットへと視線を落とした。
「十字、五枚のスプレッド。現在・原因・未来・対応策に最終結果だっけ?」
「大枠はそうよ。けれどあの子の周囲を知りたいと思いながらシャッフルしたから、ちょっとだけ内容が異なるの。厳密には、周囲への影響・本質・周囲からの影響・対応策に最終結果よ。――さすがに詳しいわね、【嫉妬】?」
「ふん、占いもまた淑女の嗜みよ。それにしても、戦車の逆位置ねえ」
それだけのやり取りで二人はすっかり通じ合っているようだが、クレメンスにはさっぱりわからない。
曖昧な表情で佇んでいると、意外に
「【色欲】は、あたしたちのかわいいエルマが今どうしているかを占っているの。五枚のカードは、それぞれあの子を取り巻くものの象徴よ。即ち――」
女性のように美しく整えた爪先で、とんと中心のカードを指す。
「中心のカードが示すのは、『原因』。環境を引き起こすもの。始まりの性質。占われるエルマの持つ、核となる在り様」
ついで、その左右を順々に指さす。
「そして、『原因』を取り巻く二つのカードは、エルマに影響し、影響される周囲の象徴。平たく言えば、左側は『エルマが周囲に与えるもの』で、右側は『エルマが周囲から与えられるもの』といったところかしら」
指は次に、十字の上のカードを指し示した。
「『原因』の高みに位置するのは、『対応策』。現状に困難が現れた場合、エルマを導く鍵となるものの象徴ね。そして――」
最後に、指はすっと宙を切り、十字の下のカードを軽く弾いた。
「最後にめくるのが『最終結果』。すべての要素を織り込んで、エルマや周囲がどんな結末を迎えるかを表すものよ」
リーゼルは過去に家庭教師を務めていたとかで、その口調は明朗である。
スプレッドと呼ばれるカードの配置を端的に説明し終えると、彼は再び、絵柄を露わにしている中心のカードに指を戻した。
「さあ
「『原因』」
「そう。そして、戦車の正位置の意味は?」
「事態の前進、行動力、スピードだ」
「よくできました」
教師そのものの口調に乗せられて、うっかり生徒のように従順に答えてしまった自分に気付き、クレメンスははっとする。
が、リーゼルはいかにも当然のことであるように、威厳溢れる佇まいで頷くだけだった。
「さて、逆位置の場合、意味は逆転する。若く実力を付けはじめた王子ががむしゃらに突き進むその在り方が、負の方向に作用するということね。つまりこの場合、意味するのは、『暴走』、『空回り』、『視野の狭窄』――」
そこまでを朗々と説明して、リーゼルはふふっと苦笑を漏らした。
「まったく、あの子にも困ったものねえ。大方、ここの非常識極まりない連中に仕込まれた怪しげなスキルを披露して、暴走しているんでしょう」
大当たりだが、リーゼルの言う『非常識極まりない連中』の中に、決して自分自身は含まれていない。
いけしゃあしゃあと、自身だけが常識人であるかのように振舞うリーゼルに、突っ込みたい気分を抑えられなかった真の常識人・クレメンスは、思わずぼそりと呟いた。
「……おまえも、あの非常識生命体を育成した張本人だろうに」
「あん?」
だが、それには思いのほかどすの利いた声で相槌が返る。
ついびくりと肩をそびやかしたクレメンスに、リーゼルは嘆かわしいというように首を振ってみせた。
「まったく、なんて生意気なじじいなのかしらね! 人がせっかく親切に解説してあげたというのに、礼の一言すらなく、見当違いの嫌みを投げてよこすなんて」
彼は大仰な仕草で両手を広げると、エルマを象徴する戦車のカードを取り上げ、愛しげに頬ずりした。
「あの子が去ってからというもの、この場にいるのは、小生意気な坊主か、気の利かない男か、生意気なじじいばかり。あと女狐。ああ、私に似て、受けた恩をきちんと返せる素敵なあの子が、早く帰ってくればいいのに!」
リーゼルはこれで、エルマの「道徳の師」を自任している。
恩は二倍に、仇は五倍に。
彼がしばしば掲げていたその教えは、素直なエルマの行動方針として染み込んでいるはずだった。
「言って、おくが」
がそこに、がりがりと飴を齧っていたイザークが、低い声で物申す。
「『もらったら、もらったぶんだけ返しましょう』と、最初に教えたのは、俺だ。聖獣を意図せずして拾ったら、スープに。魔獣の
彼もまた、エルマの躾に一番寄与したのは自分だと訴えたがっているようだった。
ちなみに、一騎当千と謳われた戦士時代には軍で共同生活を送っていた彼なので、互恵精神はこれでなかなか豊富なのである。
しかし、虫の飴の語を聞いたホルストは、おえっと舌を出す仕草をした。
「やっぱりあの悪趣味な飴は、【暴食】の差し金だったわけ? 勘弁してよね、なんの罰ゲームかと思ったじゃない」
エルマがにこにこ差し出すから、食べざるをえなかったけど。
ホルストが渋面を浮かべると、「あら」と横からハイデマリーが気だるげな声を上げた。
「わたくしは好きだったけれど。独特な香りで胸がすっとしたし、滋養強壮にいかにも効きそうじゃない? なんなら、今この瞬間に二、三粒欲しいくらいだわ」
「……【色欲】って、ときどき突飛な嗜好を見せるよね。なに、疲れてるの? それなら僕が薬を出そうか?」
「あなたの腕は信頼しているけれど、薬って嫌いなのよね」
気まぐれでわがままな監獄の女王は、ホルストの珍しい気遣いもさらりと受け流すと、「さて」と視線をクレメンスに巡らせた。
「ご覧の通り、わたくしのタロットは占いというより、単なるおしゃべりのツール、こうしてみんなで結果を想像し合うための、ちょっとした小道具のようなものよ。どうせ監獄住まいのわたくしたちでは、結果を検証することなどできないのだから」
彼女は新参者のクレメンスに、そっと笑いかける。
瞬く間に緊張をほぐしてしまう、優しい藍色の瞳は、空間さえ異なればまるで聖女のようだった。
「だから、クレメンス。もっと肩の力を抜いて。次のカードはなにか、一緒に見てくださる?」
そうして彼女は、今度は十字の左側、『影響される周囲』のカードに手をかけた――。