4.「普通」のお返し(3)
「…………っ!? ………っ! …………ふす!」
「驚くのはわかるが、叫ぶな」
「あ、ひとつ訂正しておきますと、最後のは驚きの叫びに紛れさせた爆笑ですわ」
厚底眼鏡を掛け、エルマとの類似感を溢れさせた用務員――ルーカスが窘めると、イレーネがいらぬことを補足し、鮮やかに心を抉った。
「……爆笑……。そんなにこの姿は冴えないか……」
「冴えないか冴えるかと言えば、それは振り切って冴えないですけれども、いえあの、なんでしょうね。色男の最後の一線を軽やかに踏み越えたというか、……ええっと、そう、エルマとのペアルック感があっていいと思います!」
「……エルマが施した変装術だからな」
なんとか絞り出したフォローの言葉にも、ルーカスはどんよりと返すだけだ。
イレーネは慌てて振り返り、エルマからもなにか言葉を、と促しかけたが、そのエルマ自身が珍しくぼんやりと佇んでいるのに気付き、首を傾げた。
「エルマ?」
「――あ、はい」
呼びかければ、いつものように淡々とした返事が寄越される。
気のせいかとも思ったが、イレーネはじっくりとエルマを検分し、どこか元気がなさそうなのを見て取った。
「どうしたの、エルマ? さすがに疲れて? 心なしか、眼鏡がいつもより曇っているような……」
「装身具の輝きで健康状態を判別するのはおやめくださいますか」
エルマは真顔でもっともな突っ込みを返したが、それから少しだけ首を振る。
「どうも、先ほどから頭がぼんやりするのです。風邪を引いてしまったのかもしれません」
「あら、珍しいこと。このアウレリア行きで、数日慌ただしかったせいかしら。あ、私、風邪に効くお茶持ってきてるわよ」
眉を顰めながらも、イレーネはエルマを休ませてやろうと、慌てて荷物を解いて茶道具を引っ張り出した。
「ふふ、風邪を引いて世話を焼かれるだなんて、あなたにもまだ新米らしいところが――」
「あ、お気遣いなく」
が、それよりも早くエルマ本人が、どこからともなく、すちゃっと湯気の立ったティーカップを取り出す。
「そんなこともあろうかと、私も用意しておりましたので」
「いつどこから用意されたのよ、そのカップは!」
「鞄からです」
あまつさえ、彼女はイレーネに小瓶を添えて、それを差し出した。
「ちなみに、こちらは鎮静作用のある花を煮詰めたシロップです。紅茶と頂くと美味なうえに、鎮静作用が速やかに広がるため、今のイレーネにもうってつけかと」
「だからその小瓶、いつどこから――って、うっま! 香り高っ!」
世話を焼くはずが、逆に焼かれているという謎展開である。
「……ほんとに、あなたって隙がないんだから……」
イレーネは小さく呟いたが、それは紅茶から立ち上る湯気に紛れてしまう。
微妙な顔つきで紅茶を啜っていると、代わりにルーカスが思わし気に尋ねた。
「エルマ。それは本当に風邪か? なにか……ほかの心当たりはないのか?」
「風邪以外にですか? はて……」
エルマは、さも思い当たらないというように顎に手を当てる。
「昨日は、就寝前に小説を三十冊ほど読み、夜明けまで工作をしただけでぐっすり寝たので、疲労ということでもないでしょうし……」
「間違いなくそれでしょ!?」
イレーネは物思いも吹き飛ばし、鋭く突っ込んだ。
「あなた、この慌ただしい時になにを遊んでいたのよ!?」
「え、遊びではなく、むしろアウレリア行きに備えていたのですが……」
エルマはきょとんとしながら返す。
いったい乱読や徹夜工作のなにが旅支度に繋がるのかと問いただせば、彼女は「よくぞお聞きくださいました」と眼鏡のブリッジを押し上げた。
「こたびの任務では、僭越ながら私が作戦をリードするようにとの命を賜りましたので、学院潜入時によくある流れをシミュレーションし、準備を整えていたのです」
「シミュレーション……?」
すでに嫌な予感がする。
イレーネとルーカスは顔を見合わせ、それからルーカスの方が慎重に切り出した。
「ちなみに聞くが、その『学院潜入時によくある流れ』とはどのようなものだ……?」
エルマは「はい」と頷き、眼鏡を光らせた。
「まず潜入者は、究極に冴えない、または目立たない姿で学院に入学。エリート系ライバルから『ふん、Bランクめ』と嫌がらせを受けます。ところが真の実力はSSSランク。『やれやれ、目立ちたくなんかないのになあ』と華麗に嘯きながら、武闘会ではバッタバッタと派手な立ち回りでライバルたちをなぎ倒し、ついでにアクシデントで現れた伝説の古龍なんかも倒します。なおその際には、銀髪オッドアイの姿に覚醒。奇しくも聖鼎杯最終日のその日に、黒幕だった父親との因縁の対決を乗り越え、優勝と英雄の座を勝ち取ります」
「おまえ今度は、誰からの、なんの書物を参考にした――!?」
「え? マルク殿の貸してくださった青年向け小説ですが。学院に潜入する際の『王道』とは何かを、学校生活経験のあるマルク殿に相談したところ、誰もが一度はシミュレーションする流れがこれだから、と快く貸していただいたのです」
「マルク……! あいつ……!」
ルーカスとイレーネは、小姓マルクがそっと心の
「準備期間は短かったものの、決め台詞の候補や、アクシデンタリーに学院を襲ってくれそうな古龍の目星も付けておきました。嫌がらせ役や黒幕父親役はこれから確保する予定ですが、まずまずの滑り出しだと言えるでしょう」
斜め下の奈落にしか滑り込んでねえよ、とルーカスは思った。
「『覚醒』とやらをする際に、瞳の色まで変わるなどというのには驚きましたが、それが『普通』だと言われれば背に腹は代えられません。角膜に直接貼り付けるタイプの彩色ガラスを開発することで、今朝方なんとか乗り越えました。こちらがそれです」
「それまったく乗り越える必要のない困難だったんじゃないかしら!?」
いそいそと布鞄から極薄のガラスを取り出したエルマに、イレーネはとうとう絶叫する。
エルマがその彩色ガラスを一般化段階に漕ぎつけていれば、大陸の眼科外科技術が一世紀分ほど前進するはずであった。
イレーネとルーカスの二人は素早く視線を交わすと、同時に溜息を落とし、エルマの肩に手を置いた。
「睡眠まで削らせておきながら残念だが、エルマ。おまえはこの任務で求められる『普通』の方向性を、まったく理解していないようだ」
「え?」
「よりによってあなた、どうしていつも致命的な教科書選択のミスをするのよ……」
げんなりと指摘され、エルマはきょとんとする。
ついで、少々むっとしたような雰囲気を漂わせはじめた。
「そんなはずは。だって、指南書の冒頭にははっきりと、『この話の主人公は、どこにでもいる平凡な学生』と――」
「平凡な学生は真の実力がSSSランクだったりしないし、武闘会で優勝したり英雄になったりしない。その主人公、結果だけ見れば途方もなくぶっ飛んでいるだろうが!」
「……それはそうですが、そもそも私に与えられた任務というのが、『普通に』『学生たちの頂点を獲ってこい』とのことでしたし……」
少々躊躇いを滲ませはじめたエルマに、ルーカスは強い口調で言い放った。
「それが間違っているんだ」
「え?」
「義兄上の命令。アウレリア国民でもない、聖力もないおまえに聖鼎杯で優勝せよなどというのが、そもそも間違っている」
きっぱりとした物言いに、エルマが怪訝そうに眉を寄せる。
「ですが、……それでは、陛下の言いつけに背くべしと、殿下はお考えということですか? 臣下が王の命に逆らうというのが、普通のことなのですか?」
「……背けとは、言っていないだろう」
ルーカスは、歯切れ悪く答えてから、言葉を手繰り寄せるようにして告げた。
「ただ……そう、おまえの解釈が、異なっているだけだ」
「私の解釈が?」
「圧倒的な活躍をもって聖鼎杯を制するのではなく……せめて、苦闘の末、偶然にも優勝してしまった、くらいの位置づけが、妥当だと――」
いつになく煮え切らない態度に、エルマは不思議そうに首を傾げる。
が、ルーカスの表情は奇しくもエルマお手製の眼鏡に隠され、読み取れなかった。
「殿下……?」
「――私もそう思うわ、エルマ」
とそのとき、イレーネが横から声を上げる。
彼女はまるでルーカスに援護射撃をするかのように、きっぱりと言葉を紡いだ。
「本来外様である私たちが、あまりに堂々とアウレリアの至高の地位を攫ってしまったら、世論的にも大問題だと思うもの。きっと陛下のご命令は、『あくまで普通の範囲を逸脱しない範囲で』聖鼎杯で戦ってこいという意味……いえ、なんなら、優勝すらしてくるなということかもしれないわ」
「え? そうなのですか?」
「ええ、そうよ。だって陛下は、『フレンツェルでの異様な功績を帳消しにするために』『学生たちの頂点を獲ってこい』と仰った。つまり――平凡な学生の在り方を極めてこいと、そう仰ったのよ」
「え……? そうなのですか……?」
エルマが静かに動揺の気配を見せる。
ルーカスも思わぬフォローに驚いてイレーネを振り返ったが、彼女は緑色の猫目をきらりと光らせ、しっかりと頷くだけだった。
「ええ、そうよ、エルマ。考えれば考えるほどにそうだわ。あなたが求められているのは聖鼎杯優勝やトリニテート入りなんかじゃない。平凡な学生がどのように戦い、どのように敗れていくか……どれだけ普通で一般的な学生に徹することができるか、それを試されているのよ」
「普通……」
あまりに突飛な主張に聞こえるが、しかしイレーネの瞳は気迫に溢れて揺るぎない。
微表情から一概に嘘だと断じることも躊躇われ、エルマは結局、逡巡の末に頷いた。
「そう、なのですか……」
「そうよ」
「……そうとも」
そしてルーカスもまた、イレーネのフォローに、ありがたく乗っかることに決めたようだった。
「確認ですが、ということは、私は聖鼎杯で優勝どころか、目立った活躍をしてはいけないわけですね?」
「そう。その通りよ」
「銀髪になったり、オッドアイになって覚醒したりするのもいけないのですね?」
「そう。その通りよ。とにかく目立つことは一切禁止」
目立つことは一切禁止、とエルマは復唱し、再び小さく頷いた。
「よくわかりました。目立つ、ダメ絶対」
まるで言葉を握りしめるように、きゅっと拳まで作る。
が、彼女がそれで決意表明をしようとしたとき、事態が急変した。
キュィ……ン!
突然、部屋に耳が引き攣れるような奇妙な音が響き渡ったのである。