3.「普通」のお返し(2)
「はー、緊張した! ここが聖地アウレリアの中枢にして……あれが、噂に名高いトリニテート筆頭候補生なのね。生で見られるだなんて!」
アウレリア国立学院の誇る円形闘技場、その控え室の一室に落ち着いたイレーネは、簡素な椅子にどさりと腰を下ろしながら、感嘆の声を上げた。
「引き換え、エルマ。あなたのその、
イレーネが見上げた先には、エルマがひっそりと佇んでいた。
いつもの王城規定のメイド服ではなく、ほかの控え室にいる学生たちと同じ、白を基調とした制服をまとっている。
お団子頭に分厚い眼鏡はそのまま――つまり、冴えない印象はそのままに維持した、学生服姿のエルマは、「はて」と首を傾げた。
「私はあくまで普通に気配を殺した程度ですが。そもそも、私は日ごろそんなにも目立った気配を放出しておりますでしょうか?」
「いえ、気配っていうかね? 言動がね?」
イレーネは少しばかり遠い目になる。
たしかに王城でのエルマは、常に冴えない姿に身をやつし、佇まいもひっそりとしている。
しかしながら毎日のように、まぐろを解体したり反射炉を作ったり行き交う人々を誘惑したりと、なにかしらぶっ飛んだ騒動を引き起こすので、「エルマ、それ即ち大騒動」くらいの認識なのである。
イレーネはやれやれと溜息をついた。
「ま、いいわ。聖鼎杯本番――トリニテート入りを懸けた武闘会が始まれば、いやでもあなたは目立つことになるはずだもの。『任務』が始まりもしないうちから目立つ真似をして、不要な敵意を買うことにならずに済んで、本当にほっとしたわ」
嘆息に混ざって飛び出した、不穏な単語――「任務」。
そう。
彼女たちは、性懲りもせずに臣下をこき使うフェリクスによって、新たな任務を命じられていたのである。
「まったく、陛下ときたら……。エルマや殿下、そして私のことを、私兵かなにかと勘違いしていらっしゃるのではないかしら。収穫祭から帰ってきたと思ったら、今度はアウレリア国へ向かえ? 私の緻密な新刊購入スケジュールは崩れっぱなしよ、あの腹黒狐王め! 労働基準法違反だわ! 特別手当を要求する! 私はそれで新刊を買い増し、作者様への愛を示すのよ!」
「…………? なんだかイレーネ、いつもに増して感情の起伏が激しいというか、……興奮気味ではありませんか?」
きゃんきゃん吠えていると、微表情を読んだのかエルマが不思議そうに首を傾げる。
イレーネはわずかに目を見開いたが、次の瞬間にはむすっとエルマを見つめ返し、一層の早口で告げた。
「そんなことないわよ。私は至って通常運転よ? 腹黒狐はさすがに言いすぎたかもしれないけれど、仕方ないじゃない。最大の趣味と完璧な計画を妨害されたら、人間誰だって感情が揺らぐわよ」
「いえ、その揺らぎ方がどうも――」
「それに、感情の起伏がどうのと言うなら、それはルーカス殿下の方だわ。あんなに怒りをあらわにした殿下、初めて見たもの。ちょっと、微チャラキャラの認識が揺らぐくらいの険しい表情だったわ。陛下から任務を言い渡された後の殿下を、エルマ、あなた見ていて?」
エルマの指摘を躱すように、イレーネははあっと息を吐く。
質問にはすべて答えるのが基本姿勢のエルマは、素直に疑問を取り下げ、「いえ」と首を振った。
「陛下の居室を辞してからずっと、通常業務に当たっておりましたので。険しいお顔……今回の任務が、そんなにも不快だったのでしょうか?」
「そうでしょうね。あるいは、私たちが退室した後も、しばらく陛下とお話されていたようだから、そこでなにか言われたのではないかしら」
イレーネは当日のことを思い出したのか、猫のような瞳を剣呑に細める。
「だいたい陛下は、部下を人ではなく、駒のようにしか思っていらっしゃらないのよ――」
そうして彼女は、二日前――フェリクスに新たなる任務を言い渡された日のことを振り返った。
「聖鼎杯で優勝して『
その日もフェリクスの居室に呼び出された三人は、唐突に告げられた命に、揃って声を上げた。
「お待ちください。聖鼎杯というのは、たしかアウレリア国が教会の威信をかけて最高の宗教人材を決めるための催しでは?」
胡乱な眼差しで切り出したのは、ルーカスである。
「国立学院の学生ならば誰でも参加できる、という建前とはいえ、トリニテートはアウレリア国中の憧れであり目標であるはず。それを、
冷静な指摘を寄越した異母弟に、フェリクスはにこやかに答えた。
「あはは、大丈夫大丈夫。ぜひルーデンから横槍を入れてほしいって、そう頼んできたのは当のアウレリアの方だし。ついでに言えば、今回の任務の主役――聖鼎杯で活躍してほしいのは、ルーカス、君じゃなくてエルマのほうね」
「…………!?」
告げられた内容に、三人は瞠目した。
フェリクスが説明するには、こういうことである。
アウル教の聖地アウレリア法国では、教皇に次ぐ七人の枢機卿が実権を握っている。
慈愛と調和を掲げる枢機卿たちは、しかしながら実際のところ、大国ルーデンと協調して経済発展すべしという「親ルーデン派」と、属国という汚辱を脱してアウレリアの宗教的権威を取り戻すべしという「反ルーデン派」とに分かれ、日々諍いを繰り広げているのだという。
三十年に一度執り行われる「聖鼎杯」、並びに、そこで決められる三部門の優勝者、すなわちトリニテートは、本来は宗教的に神聖極まる存在のはずだった。
しかし、前回の聖鼎杯で、聖女に内定していた学生が病死してしまった結果、トリニテートが成立せず、直後にルーデンに征服されたことで、聖鼎杯それ自体の宗教的価値は大きく毀損。
今ではすっかり――少なくとも運営側の枢機卿たちにとっては――自分たちの権力闘争の「代理戦争」に過ぎなくなってしまったのだという。
つまり、それぞれが目を掛けている学生を、教皇に並ぶ権威を誇るトリニテートに押し上げることで、自身の権力を確保しようというのである。
そんなわけで枢機卿たちは、下町や他国にも探索の手を広げ、優れた聖力を持つ人材を学院に呼び込んできた。
が、目下、学院内でトリニテート筆頭候補と目されているのは、三人とも反ルーデン派の枢機卿が集めた人材。
グイドというこの枢機卿は、自身も前回の聖剣士に内定していたが、聖女の欠落でそれが叶わなかった経緯を持つ。
積年の夢を叶え、自身の息のかかった学生たちを、なんとしてもトリニテートに決めようと意気込んでいるものと思われた。
そこに強い危機感を覚えたのが、チェルソという、親ルーデン派の枢機卿だ。
トリニテートのうち、三人全員がグイドの手の者となれば、親ルーデン派の凋落は必至。
彼としてはなんとしても、トリニテートのうち一人でも、親ルーデン派の学生を送り込む必要があった。
とはいえ、彼らの「手持ち」の学生では、グイド子飼いの三人の実力には、遠く及ばない。
この際、聖力を持ち合わせていなくとも構わない。
聖鼎杯という名の武闘会に、三人を圧倒する武技を持ち合わせる人物を送り込みたい――と、そう、フェリクスのもとに嘆願書を寄越してきたのである。
もちろんルーデンからすれば、属国は友好派に傾いているほうが望ましい。
そこでフェリクスは、教会の収蔵する美術品のいくつかと引き換えに、あっさり嘆願を呑んでみせたと、そういうわけである。
「とはいえ、王弟を送り込むのはさすがにあからさまだし、そのグイド卿門下の三人っていうのがみんな十五くらいの少年少女だっていうから、まあ、釣り合いっていうのかねえ? そういうのを考えてさー」
フェリクスは相変わらず、人を苛立たせるような間延びした口調で続けた。
「チェルソ卿は、聖力が無くてもごまかせる『聖剣士』部門くらいしか期待してないっぽいけどさ。どうせなら、エルマを送り込んじゃえば、うっかりひとりで三部門制覇できたりなんかして、お得かなっていう」
とはいえ、ほかのトラブルは引き起こしそうだから、ルーカスとイレーネは、そのフォローに回ってね。
そう告げて、フェリクスはエルマに向かって微笑んでみせたのである。
「エルマ、王命を遂行するのは至って『普通』のことだ。フレンツェルで流布してしまった『
と。
やり取りを思い返したイレーネは、改めてエルマに向かって眉を寄せた。
「というか、エルマったらまだ『普通』にこだわる気? 相変わらず、そこまでして帰りたいの? いい加減そろそろ、自分に『普通』の才能はないんじゃないかなー、って気付きはじめていい頃よ。もう」
「諦めたらそこで試合終了です。収穫祭での友人紹介はほかの形で叶いましたが、だからと言って最初の目標を手放すのは違うかと」
エルマが淡々と答えると、イレーネは軽く鼻を鳴らした。
「ほんとに、もう。妙な方向に根性を発揮するんだから」
「それを言うなら、私が陛下になにかを命じられるたびに、一緒に巻き込まれてくれるイレーネの根性も相当なものです」
実際のところ、能力の図抜けているエルマと異なり、イレーネは単に、エルマと親しいからという理由で巻き添えをくらっているだけだ。
いつでもエルマを見放すことは可能なのに、なにかと付いて回って、エルマの「普通道」を見守ってくれている。
静かに、しかし感謝を込めてエルマが告げると、イレーネは一瞬押し黙り、そっぽを向いた。
「……別に、私だって命じられているわけだし、役得だって多いから、巻き込まれてあげているだけだわ」
「役得……?」
「巻き込まれるといえば、殿下はどうされているのかしら? 王弟である殿下の介入がばれないように、変装した姿で落ち合う手筈になっていたはずだけど」
エルマが不思議そうに首を傾げると、イレーネはそれを遮るように椅子から立ち上がり、控え室の外へと身を乗り出した。
と、その動きでようやくイレーネたちの入室に気付いたのか、学院の用務員と見られる男がこちらへと近付いてくる。
みすぼらしい鼠色のローブに、陰気臭く顔を覆ったフード。
さらに厚い眼鏡と長い前髪で顔を隠し、全体的に冴えない印象をしたその人物は、「本日から最終日までのスケジュールを示した資料です」とぼそぼそ告げて、紙の束をイレーネに手渡した。
「あら、ありがとう。あなたがこの部屋付きの使用人ということなのね?」
「はあ……」
「そう。なら早速で悪いのだけど、控え室の
雑事を仕切りなれた侍女の
つらつらと捲し立てるのに対し、相手が無反応で立ち尽くしているのに気付き、彼女は少々むっとした。
ついでこの感覚、前にもどこかで抱いたことがあると、ふと思う。
「……メモに書いて渡しましょうか? ああ、でもあなた、字が読めて?」
冴えない眼鏡。表情の見えない相手。
自分より格下の人間のはずなのに、どこか人の上に立つ人物のような気品と迫力を滲ませている――。
「いいわ、もう一度だけ言って差し上げる。これが最後だから、一度で覚えてちょうだい」
脅すように告げながら、イレーネは気付いた。
そうだ、彼はエルマと似ているのだ。
出会ったばかりの頃の、冴えなくて真意の見えない彼女と。
まるで兄妹か、さもなくば――。
「言うわよ? まず……――。…………」
「で……――っ!?」
殿下、の叫びは、瞬時に手を伸ばしてきた相手によって塞がれた。