37.シャバの「愛」はもどかしい(7)
「やれやれ、我らが女王は気前のいいことで」
カードも一通り遊び尽くし、飽きを覚えた囚人たちが、三々五々部屋を去っていった――ちなみにクレメンスも、土地収受の処理をすべくモーガンやリーゼルとともに消えていった――その後。
がらんとした居室には、二人の人物だけが残された。
悪戯っぽい表情が特徴的な青年、ホルストと、蠱惑的な笑みを絶やさぬ監獄の女王、ハイデマリーである。
囚われる前にはもっぱら「狂気の少年博士」と呼ばれていたホルストは、その隠しようのない酷薄さを瞳に滲ませ、肩を竦めながら紅茶を啜った。
「クレメンスって、あなたを監獄送りにした主犯なわけでしょ? そんなやつに、奥方のための土地をくれたばかりか、離縁されてないだなんて情報まで知らせて、喜ばせてやるだなんて」
「あら。皇帝から大貧民には、最も不要なカードを二枚与えることになっているじゃない。田舎の土地も、とある女性の秘めた想いも、わたくしにはまったく関わりのないものたち。だから差し上げただけだわ」
「へえ。じゃあ【色欲】はいったい彼からなにをもらったというのさ」
「忠誠と、娯楽を」
意地悪く尋ねたホルストに、ハイデマリーは小ゆるぎもせず、優雅に答えてみせた。
「あの手の殿方は、恥辱に弱いのよね。心も鼻っ柱もすべて折ってさしあげたから、彼、きっととてもいい駒になってよ。それに、あの『詩才』も実に捨てがたいわ」
「…………たしかに」
先ほど披露された詩を思い出したのか、ホルストはくっと語尾を震わせる。
それから、この話はもう終わりと言わんばかりに、空のカップをソーサーに戻し、ひょいとその場に立ち上がった。
ソファの傍らに寄せてあった布鞄から、なにやら大量の道具を取り出す。
窓際に移動し、ごそごそとなにかを組み立てはじめたホルストに、ハイデマリーは興味深げに眉を上げた。
「なにをしているの、【貪欲】?」
「んー? ちょっとね、望遠鏡の組み立てを。高さと角度的に、ここからじゃないと見えないんだ。えーと、市、市、フレンツェルの中央市はどこかなと……。ちょっとこのカーテン開けるよ」
「あん、眩しいわ」
早々に組み立て、カーテンをこじ開けて望遠鏡を据え始めたホルストに、ハイデマリーが非難の声を上げる。
布の隙間からは陽光が差し込み、倦怠の空気と暗闇とをわずかに薄らがせた。
「フレンツェルの、それも市になんか、いったいなんの用?」
「――ふふ。本当はそれもお見通しのくせに」
さりげない態で尋ねる女王に、獄内一の切れ者は如才なく返す。
途端に、高貴な猫のような目がきらりと光ったので、やはり彼女は、自分が監獄を抜け出し、フレンツェルにいるエルマに会ってきたことを知っているのだと、ホルストは確信した。
基本的に、この美貌の娼婦の前には、いかなる秘密も成立しないのだ。
彼は「はい、お土産」と言って、美しい翅の魔蛾が収まった籠を手渡すと、くるりと向き直り、望遠鏡のピントを合わせはじめた。
「わかってるんでしょ。会って来たよ、エルマに。あなたのことだ、どうせ、彼女がこの
「――だって、言ったらみんな、絶対一斉にあの子に会いに行こうとするじゃない」
鎌を掛けるつもりで尋ねると、ハイデマリーは意外にもあっさりとそれを認めた。
それから、望遠鏡を覗き込むホルストに、ちょっと不機嫌そうに唇を尖らせた。
「わかっていて? 巣立ちなのよ、巣立ち。過剰に妹に構う兄は嫌われてよ」
「過剰なもんか。その証拠に、僕は昏倒したエルマを連れ帰ることもなく、いけすかない害虫を強制除去することもなく、穏やかに帰って来たじゃない。遠くからちょっと様子を見たり、エルマ周辺、具体的にはフレンツェル領主の日記を数年分盗み見して、妹の身辺に不穏の芽がないか調査しておくくらいは、いたって普通のことだと思うけどね」
「領主のプライバシーを暴くのはともかく、年頃の女の子を覗き見るのはよしなさい。常識のない子ね」
普通や常識のなんたるかが問われる瞬間である。
だが、口ではそう言いつつも、ハイデマリーとてやはり母親。
娘の動向は気になるらしく、「あ、エルマがプロデュースしてるらしい天幕を発見」だとか、「大盛況だね」とか呟くホルストに、籠の魔蛾を眺めながらさりげなく尋ねた。
「――それで、どうなのかしら。あの子は、うまく周囲に溶け込んでいるかしら? 浮いたり、いじめられたりしていない?」
「んー、それはないんじゃない? なんかすごい大勢に囲まれてるし。――あ、周囲が一斉に跪きはじめた。っていうか、全力で祈りや冠を捧げはじめた」
「あら。それなら安心ね」
惜しむらくは、彼女の価値観もまた、盛大にずれていることか。
ハイデマリーは満足げに頷き、真剣に望遠鏡を覗き込んでいるホルストに話しかけた。
「心配していたけれど、あの子もちゃんと、普通に世間に溶け込んでいるようじゃない。【貪欲】もそろそろ、あの子から――」
が、いつも機敏に相槌を打ち、すぐに人の話を混ぜ返す彼は、珍しくなにも言わない。
怪訝に思ったハイデマリーが、「……【貪欲】?」と顔を上げると、
「――……まったくさあ」
窓際に身を乗り出して地上を覗いていたホルストは、呆れたように呟いた。
「大切に思うがゆえに切り出せないって、なんなんだろうね。理解に苦しむよ」
「なあに、クレメンスのこと?」
「いや、そうじゃなくて……ううん、彼もそうか。妻を愛するがゆえに口を閉ざし、遠ざけた、だっけ。意味がわからないよね」
彼がレンズ越しに見つめるその先には、固く抱き合う親子――ヨーナスとケヴィンがいた。
ホルストはひょいと肩を竦め、ハイデマリーに向き直った。
「フレンツェルの領主さ、なんでか知らないけど、自分の息子のことを魔族だって信じてたみたいなんだよね。あまりに発育が悪いからかな? せっかく人が取り上げてやったのに、失礼な話だよ、まったく。――それで、その『真実』を告げるべきか、告げないべきかとか、いいや、それよりも息子が民に受け入れられるよう最大の努力を、だとか、日記の記述はそんなことばっか」
自分がその親子の亀裂の原因であるとは、ホルストは考えもしない。
「ま、たった今和解したみたいだけど」と望遠鏡を指さし、心底馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「僕にはその懊悩の意義がわからないね。領主も、クレメンスもそうだ。相手のことが大切なら、悩みなんかせず、そう告げればいい」
「――自分の本当の想いや、真実を告げることで、相手が傷つくことを恐れたんでしょう」
「だからそれがわからないんだってば」
ハイデマリーが静かに指摘すると、ホルストはますます拗ねたように唇を尖らせた。
「愛を告げることで妻が共犯者と目され、石を投げられるというのなら、いっそその妻ごと連れ去って、ともに監獄に住まえばいい。真実を告げることで息子が悩み迫害されるというのなら、いっそ自室に閉じ込めて、悩む隙もないほど、どろどろに甘やかして過ごせばいい。人を大切に思うって、そういうことでしょ?」
ホルストは、妹を壊されたことで人の道を外し、そして妹を失ったことで自らの生を一度は諦めた人間だ。
そんな彼が、大切に思った相手を閉じ込め、徹底的に守るのこそが愛だと信じるのは、不思議なことではなかった。
実際彼の口調には、露悪的な響きはない。
心底そう信じているからこその、あどけなさと無邪気さだけがあった。
いや――。
「ねえ、マリーもそうは思わない?」
彼が目を細めて付け足した問いには、大切なエルマを放逐したハイデマリーへの、未だ収まらぬ非難がごく微量含まれていた。
同時に、エルマの秘密を、自分は知っているのだという仄めかしも。
そして、その真実を本人にも、周囲にも切り出そうとしないハイデマリーへの、苛立ちも。
正体を告げて傷つけたらどうしようと悩むくらいなら、なおさら監獄から放つべきではなかった。
この安全で頑強な揺りかごで、大切に大切に、彼女を守り続けるべきだった――
ホルストの鳶色の瞳は、そう告げていた。
珍しく、ふたりの間に息苦しいほどの沈黙が落ちる。
が、ハイデマリーはやはり、それでも泰然の構えを崩さなかった。
「――若いわねえ」
彼女はゆっくりと瞬きをすることで、ホルストの揶揄と苛立ちをあっさり受け流してしまうと、静かに笑みを浮かべた。
「ねえ、ホルスト。あなたの言うそれは、獄内の理論だわ」
それからゆっくりと立ち上がり、望遠鏡の覗き口を白い手でそっと塞いだ。
「ちょっと、
「……自分だって、僕以上にずっと引き籠ってるくせに」
「そうよ。だからこそわたくしは、あの子には外の世界を知ってほしいと思うの」
鋭く反論されても、ハイデマリーは譲らない。
彼女はホルストに並び立ち、監獄の小さな窓から、光あふれる外の世界を眺めた。
「わたくしは、物心ついたときから
「…………」
「けれどだからこそ、監獄を掌握した日の夜、初めてギルと外の世界を散歩してみて……その広さ、果てしなさに、眩暈がするほどの恐怖と、興奮を覚えたの」
ハイデマリーは懐かしむように、そっと瞼を閉じた。
今でも感じられるかのような、夜風の肌触り。
茂る樹々がまとう、噎せ返るほどの香り。
星は空からこぼれんばかりに広がっていた。大地は湿り、でこぼことしていた。
制限も整備もされていない空間は、彼女の知らなかったいびつさと、力強さで満ち溢れていた。
それに――監獄の建つ崖から見下ろした、人家の灯り。
ぽつぽつと淡い光を連ねる様子は、地上の星にも似て、胸を突かれるほどに美しかった。
「親の願望を子に託すなと言われたら、それまでかもしれない。けれど、いいの。誰になんと言われようと、わたくしはそれが最善だと思うのだもの」
ハイデマリーはきっぱりと言い切ると、テーブルに置いていた魔蛾の籠をすいと取り上げ、窓の近くに掲げた。
「あの子のこと、閉じ込めて守りたいほど愛しいわ。かつてのわたくしは、そのためにこの
それから、籠の扉を指に引っかけると、窓の外に向かってぱっと開いてみせた。
――バサバサバサ……
魔蛾は、翠の翅を陽光に透き通らせながら、羽音を立てて宙に消えていく。
その姿が完全に視界からなくなるのを見守ってから、ハイデマリーは振り返り、にこりとホルストに向かって微笑んでみせた。
「ねえ、あなたも、そうは思わない?」
それは、ちょうど先ほどの会話を反転させたかのようだ。
蠱惑的な笑みを湛えるハイデマリーの瞳には、ホルストへの非難がごく微量含まれている。
いつまで経ってもエルマを赤子のように扱い、かつて失った己の妹と重ねているホルストへの非難が。
――あなたもそろそろ、
高貴な猫のような、ハイデマリーの藍色の瞳は、なによりも雄弁にそう告げていた。
「――……はいはい」
しばしの沈黙の後、ホルストはふっと短く溜息を漏らす。
それから苦笑を浮かべて、ひらりと両手を広げた。
「我らが女王には敵わないよ。あなたが正しい。いつだってね」
肩を竦めながら、望遠鏡を片付けに掛かる。
口では、拗ねたようにこう呟いていた。
「そう、……僕だって、わかってるさ」
彼の脳裏には、自分の思っていたよりずっと大人びた表情を浮かべる、エルマの姿があった。
エルマ。
大切な大切な、彼の「妹」。
けれど、彼女は身代わりなんかではない。
意志があり、感情があり、日々大人の階段を上っている、れっきとした一人の人間だ。
彼女のことを真に大切に思い、尊重したいというのなら――監獄に閉じ込めてどろどろに甘やかすのではなく、俗世に放って、その成長を信じ見守るべきなのだろう。
だからこそ、自分だってあの場面で、退場を決めたのだから。
「愛ゆえに閉じ込め、愛ゆえに放つ、ねえ……」
いっそ、そのどちらかだけに偏ってしまえば、悩みもしないだろうに。
望遠鏡のレンズに付着した鱗粉を、ふっと息で払いながら、ホルストは「まったく」と苦笑を浮かべてハイデマリーを見やった。
「シャバの愛なんていうのは、もどかしいものだね」
次話、エピローグとなります。